第43話 メロディーメーカー
弾き出したキーボードのピアノ音に乗せて静かに圭が歌い出した。今日は日本人の来客が多い夜で、最近常連となった30代の男性客が、初めて訪れる新しいお客も連れてきてくれて、料理を待つ間カウンターで圭の歌を聴いている。
今夜の圭は珍しくラブバラードだ。低音部は少しハスキーがかる圭の声は高音部に入ると伸びやかで、パワフルな歌声となって店内に流れる。
「ねえ、マスター」と常連客から圭司は不意に声をかけられた。
「なに?」次に出す料理を盛り付けながら返事をする。
「あの子が歌ってる曲さ、なんかどっかで聴いた曲なんだけど、思い出せなくって。あれ、誰の曲だっけ」
「レイ・チャールズだよ」そう返事をした。間違いじゃない。
「年代的にはあんまりレイ・チャールズは聴いたことないんですよね。その僕が知ってるってことは、テレビCMかなんかで流れたんですかね」
——そうか。知らないか。
「よく聞いてごらんよ。日本人なら絶対知ってる曲だから」ちょっと可笑しさを覚えながら、そう振ってみる。
圭の曲がちょうどワンコーラス目のサビにかかる。
——Ellie My Love So Sweet……
しっとりと歌い上げられた最後のフレーズでどうやら気がついたらしい。
「えっ、これってまさかのサザンですか」
「正解」
何かの企画だったか、レイ・チャールズが「いとしのエリー」をカバーしたときには、さすがに圭司も驚いた。日本にいるころ何度も聴いた名曲が、レイ・チャールズの独特の世界観で蘇る。日本の楽曲はあまりアメリカでは聴かれていないが、まさかこんな形でアメリカでサザンを聴くことになるなんてな——
曲が終わると、今日は日本人が多い店内から拍手と歓声が起こり、圭が少し照れている。
「そのアレンジ、いいねえ。もしかして君もサザンが好きなの?」英語が喋れるらしい日本から来ているというテーブル席のビジネスマン風の男性が圭に話しかけた。
「サザン? なに?」キョトンとしながら、圭は圭司に視線を向けた。
圭は日本の歌はあまり聴いてない。多分さっきの曲は圭司が持っているカセットテープコレクションの中のレイの曲として聴いたことがあるだけだと思う。あのビジネスマンは、逆にレイが歌ったことは知らない感じだ。
「サザンオールスターズと言ってな、日本ではとても有名なバンドさ。圭が今歌った曲を作った人がいるんだよ」と圭に英語で答えた。
「日本人が作った曲だったの?」知らなかったという顔で圭がいう。
「そうさ。日本ではメロディーメーカーとして有名な人だよ。アメリカ向けの音楽じゃないけどさ」
横から件の常連客が「そうそう。サザンは僕の青春だった」と相槌を打った。「湘南サウンドが好きでさ。稲村へサーフィンへ行くときは、必ずサザンを流しながらねえ」日本語でそういうと、さっきのビジネスマンへ向けてビールのグラスを掲げた。
「へえ、サーフィンなんかやるんだ。どこに住んでたの?」懐かしくなって圭司が聞く。
「自分は鎌倉です」と常連。
「なんだよ、同郷だね。俺、横浜に実家があってさ」
「えー、俺も横浜ですよ」その言葉を聞きつけてビジネスマンがビールグラスを持って寄ってくる。
「横浜のどこ?」
「六角橋ですよ」
「なんだよ。こんなとこでご近所さんに会うなんて、世界は案外狭いなあ」
圭司はカウンター下の冷蔵庫からビールを一本取り出して栓を抜いた。「こりゃあ思わぬ出会いに乾杯だな。俺の奢りだ」そう言ってビール瓶を少し傾けると、常連とビジネスマンの二人が礼を言いながらグラスを差し出した。
圭の曲の話だったのに、いつしか日本の大人たちが日本語だけで盛り上がって、圭もステラも少し不満げだったが。
「じゃあ、客も多いし仕事もあるけど、一曲だけ弾くか」
圭司は厨房から出てきて圭と席を代わりギターを抱えた。「忙しいのに」という顔でステラが頬を膨らませている。
「おっ、マスターってギターもやるんですか。」とビジネスマン。
その声には言葉で返事はせずに、静かに圭司のギターが「真夏の果実」を弾き出した。「ヒュー」という口の形をして常連とビジネスマンが聴き入ってくる。イントロのギターの音色が美しい曲だ。最近、圭と一緒に音楽をやる機会があるおかげで、少しずつ楽器を爪弾く感覚を取り戻している。特に今夜は故郷の話に盛り上がって絶好調だな——
「いや、マスター上手いですよ。まるで本職じゃないですか」
本気かどうか、ビジネスマンからやけにおだてられて、少し照れくさい。
「いや、結局才能がなくてな。そうそうに諦めたんだよ」と謙遜する。まあ、本当のことだ。
「へえ、マスターぐらいの人でもやっぱりプロになれないんですか」
「ギターには自信があったんだけどね。だけどいま思えば、プロになるって、ただ上手いだけじゃなくて、なんか特別なものが必要なんじゃないかって。まあ、そういう世界なんだよ」
圭司は悟った顔でビール瓶を差し出す。「あざす」と言いながら、ビジネスマンはコップを傾けた。
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