第二話 小橋の夢

 小橋(こばし)は興奮していた。突然の狭野尊(さの・のみこと)からの呼び出しである。必ずや、重大な使命を帯びることになるであろうとの確信が、小橋の中にあった。


 拝謁し、叩頭する小橋に、狭野は優しい口調で語りかけてきた。


「汝(いまし)を呼んだのは、ほかでもない。頼みたき儀があるからじゃ。」


 高鳴る想いを押さえ、小橋が返答する。


「如何様なことでも、お申し付けくだされ。殿の大望のためならば、この小橋、身命を投げ打つ覚悟。血はつながっておらずとも、それがしは殿の兄にござるぞ。気兼ねなく、お命じくだされ。」


 小橋の言葉を聞き、狭野は安堵したような表情を見せた。だが、その表情には、幾何かの陰りも見えた。小橋は、そのことが気になった。何か、嫌な予感がしたのである。


 そんな小橋の想いなど知る由もなく、狭野が言葉を紡ぐ。


「そう言ってくれるか・・・。」


 悪い予感とは、よく的中するものである。小橋は、抱いた不安を口にした。


「頼みにくいこととお見受け致しまするが、そは、それがしの望まぬことでは?」


 図星であったのか、狭野の顔に緊張が走るのを、小橋は見逃さなかった。


「汝(いまし)には、敵わぬな。その通りじゃ。」


「旅にお供すること能わぬと・・・?」


「そこまで読んだか・・・。そういうことじゃ。」


「この地に留まるよう、お命じになるとあらば、重き役目にござりまするか?」


 狭野の目をしっかりと見据える小橋。狭野は腕組みをしつつ逸らした。


「吾平津(あひらつ)や、岐須美美(きすみみ)を連れていくことは出来ぬ。あれを託すこと出来るは、汝(いまし)を置いて、ほかにおらぬ。」


 主君の申し分は、充分理解できた。そして、それを任せられるのは自分以外にないということも・・・。だが、嬉しくもあり、寂しくもあった。


 小橋は夢を抱いていた。知らぬ土地、まだ見ぬ土地・・・。果てしなく続く八洲の最果てが、どのようになっているのか、この目で見てみたかったのである。吾田(あた)の地を治める豪族であるがゆえに、これまで成せなかったことである。


 それを果たせる時が、ついに訪れた。家訓めいた物が存在することを知っていた小橋にとって、それは想定内であったが、己の時代ではない可能性もあった。息子や孫の世代となるかもしれないとの思いもあった。


 それだけに、今日の拝命は、失望に近いものがあった。だが、それと並ぶだけの名誉でもあった。主君の妻子を守るという役目は、何物にも代えがたい重要な使命であり、それを託されるということは、家来の中でも第一とされるに等しい。


 小橋は複雑な心境にあった。それゆえに、嬉しくもあり、寂しくもある。妹や姪っ子のことを想えば、確かに、放っておくわけにはいかない。だが、そのために、自身の夢を捨て去らねばならないのか・・・と。


 狭野が、申し訳なさそうに眉間に皺を寄せ、こう続けた。


「汝(いまし)の想いを知らぬ、わしではない。だが、汝に頼むほかないのじゃ。わしの想いを汲んでくれっ。小橋!」


 主君にそう言われては、断ることなど出来る筈がない。ここまで頼みにされて、嫌だなどと、口が裂けても言えない。


「殿! そこまで、それがしを重んじくださりますとは、全くの誉れにござりまする。御安心くだされ。お妃と姫宮様は、この小橋が、しっかりと守り抜きまするゆえ、殿は、御志を貫きなさりませ。」


「そうか! そう言うてくれるか!」


 満面の笑みを浮かべる狭野。その顔を凝視することが、こんなにもつらい日が来るとは、夢にも思わなかった。だが、小橋は懸命に平静を装った。


「高千穂のことは、全てお任せいただきとうござる。それがしにとって、この地は庭の如きもの。殿の旅路を煩わすものは、皆無とお心得くだされ。」


 小橋は一世一代の見栄を切った。だが、本心でもあった。この地を代々、治める豪族としての自負があった。今は、その矜持だけが、小橋のよりどころであった。


 退出し、廊下を歩む小橋の目に、出航に向け勤しむ者たちの姿が飛び込んできた。矢じりを研ぎ、武具を調え、食料を運ぶ姿が、眩しく映る。


 後悔、先に立たず。本音を言えば悔しい。だが、これも天命。受け入れるほかない。志は、若い者に任せよう。そう思うことで、己の夢との決着を試みた。


 主君には、頼もしい家来たちがいる。学識ある天種子(あまのたね)。剛力で名高い日臣(ひのおみ)。勇敢な大久米(おおくめ)。機転の利く剣根(つるぎね)。


 決意を新たに、快晴の空を睨む、小橋なのであった。

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