第13話 かけがえのない日常。

「こうしていると、なんだか夫婦みたいだね」

「お、おいっ! 笑えない冗談はやめろって……」


 近所のショッピングモールで買い物をしていると、絢奈がふとそんなことを言った。夏休みに入っているので、もちろん俺たちは私服姿だ。メーカーの違うカレールーを左右の手に取って値札を見比べている彼女は、確かに買い物デート中の新妻のようで――。


「ふふ、動揺させられちゃったの? 妹相手に」

「お前が最初に彼女面してたからだろ」


 会計を終え、持参したバッグに二人で戦利品を手際よく詰めてゆく。「同棲」を始めてまだ三日だというのに俺たちの息はぴったり合っていて、やっぱり兄妹なんだなと改めて思う。絢奈の話し方が柔らかくなったのを機に、実感はこの数日で少しずつ湧いてきていた。


 月曜日は当然俺が家事の担当なのだが、絢奈のおかげでそれもすっかり楽になった。というより、親父がいる時も含めて毎日二人で料理をしている。絢奈は天界でも自炊していたらしく、包丁さばきは俺と全くの互角だった。まったく頼もしい妹がいたものである。


「ちょっと鍋見ててくれる? わたし、洗濯物干してくるから」

「了解」


 ぐつぐつと煮立ち始めたカレーを見ながら、洗濯ばさみが慌ただしく揺れる音を壁越しに聞く。忙しくて大変だろうに、どこか楽しそうにみえるのは気のせいだろうか。


「本当は絢奈と、ずっと一緒に――」

 

 そんなことをふと考えてしまい、俺は首を振ってその幻想を追い払った。

 佐上絢奈は死んでいる。

 彼女と俺が兄妹として一緒に育つ道はなかったのだ。


「どう? お兄ちゃん」

「良い感じだ」

「変わろうか?」

「大丈夫。絢奈は皿とか準備してくれないか?」

「分かった!」


 配膳を終え、バラエティー番組を見ながら時間を潰しているうちに親父が帰ってきて、三人で食卓を囲む。この世界の親父は俺が知っているより少し饒舌だ。これが絢奈にとっての父親像なのだろう。一昨日の夜、どうしてお前のことを親父がすんなり受け入れてるんだと聞いた時、お父さんの常識も改変してるからだよと絢奈は屈託なく笑っていた。彼女がそれで良いなら、俺もそれで良い。


 一家団らんを楽しんだ後、皿洗いを親父に任せた俺は風呂に入った。かけ湯をし、洗い場の椅子に座って頭を洗おうとしたまさにその時、「頭を洗ってあげるね」という声とともに浴室の扉がガラガラと開いた。


「お、おい絢奈っ!? なんで入ってきて――っ!」

「そりゃあ……裸の付き合いってやつ?」

「いくら兄妹でも、高校生で一緒にお風呂はないだろ」

「そうだね。だけど……あと一週間ちょっとだから」


 そう言われてしまうと、俺にはもう止めようがない。

 絢奈はシャンプーを手に取って泡立たせ、指の腹で俺の頭をごしごし擦り始めた。


「どう?」

「あー、気持ちいい」


 身体は流石に自分で洗った俺は、タオルで目隠しをさせられて湯にかった。ちゃぽんと音を立てて、全身を洗い終えた絢奈も狭い浴槽に割り込んでくる。親父と一緒に風呂に入ったのは相当昔の話で、温泉旅行なんぞまともに行ったことすらない。だから女の子と入浴するのはもちろん初めてだ。――でも。


「ドキドキする?」

「しないな」

「当たり前だけど、バスタオルは巻いてないんだよ?」

「そういう問題じゃない」


 「色気がないのかなぁ……」などとぶつぶつ落ち込んでいるので「そういうわけじゃなくてだな」と言ってやると、絢奈はちょっと嬉しそうな声で「そう?」とご満悦だ。


「じゃあ――やっぱりわたしが妹だから?」

「そうだ。もっと言うと、家族だからだな」

「……そっか」


 妹は異性として見られないとよく聞くが、最近ようやく納得できた。もちろん理由は人によって違うだろう。ただ、今の俺にとって彼女は恋愛対象ではない。他の何よりも大切で、世界に一つしかない宝石のような存在なのだ。

 触れ合っている互いの右太ももから、幸福感や安心感が体の隅々までじんわりと広がってゆく。何かが近づいてきたかと思うと、目を覆っていたタオルがするりと解かれた。


「きつかったでしょ? ごめんね」

「……良いのか?」

「うん。それにしても、あったかいね……」

「ああ」


 立ち昇る湯気の中に、深い吐息が消えていった。



 ***



「やっぱり、一人で寝るのは寂しくて」

「仕方ないか……甘えんぼうなんだな、絢奈は」

「それ、瑞季先輩にも言われた……」


 その夜。俺は自室のシングルベッドで妹と寝ることになった。まるでペットのように甘えてくる絢奈に、思わず頬が緩んでしまう。昨日までは別の部屋で布団を敷いて寝ていた彼女だが、その心細さは想像にかたくない。寝ている間に俺がベッドから落ちそうではあるが、可愛い妹のためだ。


「……へぇ。日の入りの時刻も変えられるのか」


 肩を寄せ合って天井を見上げながら、絢奈から色々なことを聞いた。瑞季と三人で公園に行ってスケッチしたあの日。一瞬で雨が止んだり、六時なのにまだまだ明るかったりしたのは、全て絢奈の事象改変能力によるものだったらしい。


「そうだよ。ここは、わたしがお兄ちゃんの記憶を基に作り出した、いわば夢世界とでも言うべき世界なの。だから、この仮初かりそめの世界の創造者――天使であるわたしは、この世界の中でなら物理法則も因果律も自由自在に操れるんだ」

「だから絢奈はあんなに強いんだな」

「うん。……でも実は、計画は最初からつまずいてた。本当は七月一日からこの世界が始まる予定だったんだけど、三日からになっちゃって」

「どうして?」

「大天使。ルーキフェルって呼ばれてるんだけど……要はわたしの――わたしたちの上位互換みたいな存在が介入してきたの」

「『わたしたち』……?」

「そう。地上界で救済されず、天界で保護された子どもたちの魂」


 絢奈によると、天界にも学校のような施設があるらしい。絢奈はそこで生まれ育ち、一生懸命頑張って優等生になったのだとか。


「天界にずっと居られるわけじゃないの。わたしたちは夢を見ることによって救済される。自分が生きたかった世界の夢を。そして、救済されて消えていく。今度こそ、完全に」

「じゃあ、この世界は絢奈が生きたかった世界ってことか」

「そうだよ。だからわたし、ここに来てからずっと幸せなんだぁ」


 髪を下ろした妹は暗がりの中、眠そうな顔でふにゃりと微笑んだ。


「そうか。でも、まだまだ幸せは続くからな。覚悟しておけよ?」

「うん、楽しみにしてるよ。じゃあ、そろそろ寝るね……おやすみ、お兄ちゃん」

「ああ。おやすみ、絢奈」

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