ここは天使の夢世界。Re: Rite ~僕と彼女の31日~

澪標 みお

第1話 日常と非日常。

 枕元で鳴り響き続けるアラームに、眠い目を擦りながら身体を起こす。まだ六時半だというのに、閉め切ったカーテンの隙間からは既に明るい陽射しが漏れていた。まだ寝たいのだが仕方ない。親父が起きてくる前に取りかかるか、といつもの習慣でカーテンを開け放ち、ぐっと伸びをしてからデジタル時計をふと見てみれば、今日は2023年7月1日。土曜日だった。


「あー、もう少し寝れたじゃん……」


 二度寝しようにもすっかり目が覚めてしまったので、部屋を出て一階に下りた。休日は親父の担当日なのだが、たまには親孝行してやろう――と言っても、朝から凝った料理を作ってやろうという気はない。取り敢えず冷蔵庫を開いて、何本ものビール缶の山の奥から卵パックを発見。


「卵は下に入れてくれっての!」


 まだ深夜残業か。ヤケ酒の飲み過ぎで倒れなきゃいいけど。

 むすっとした顔でピースする俺と、いかつい表情の中で少しだけ口の端が吊り上がっている親父。曇り空の下、郊外の展望台で撮った去年の家族写真を一瞥いちべつしてから、まだ冷たくて固い卵を三つ割った。


 

「おはよう」

「ああ。……済まないな」

「いや、別に」


 卵ご飯に味噌汁、昨夜の漬物の残りとコップ一杯の麦茶。いただきますと律儀に呟いた親父は、財務省のエリート官僚様にお出しする朝食とは思えぬ手抜き加減にも顔色一つ変えず、黙々と味噌汁をすすっている。出勤しなくて良い土曜日は久しぶりだからなのか、厳つい顔つきも心なしか少し緩んでいるように見えた。

 とはいえ、父子の間で会話が弾むことも特にない。別に喧嘩をしているとかお互いに避けているとか、そういうことでは全くなかった。これが佐上さがみ家の日常だという、ただそれだけのことだ。


 俺がそろそろ食べ終わるかというその時、朝のニュース番組を眺めていた親父が珍しく食事中に口を開いた。


「なぁ、颯太そうた。その……明日のことなんだが」

「明日?」


 唐突に言われ、少し上の空になっていた俺は慌てて思考を引き戻す。

 明後日、七月三日月曜日は俺の母――佐上唯奈さがみ ゆいなの命日だ。そしてその前日である明日、亡き母の十七回忌が執り行われることになっているのだった。


「……そっか。そうだったな」

「お前ももう高校生だ。喪服は高校の学ランでも良いが、この際スーツを着てみるか」

「スーツ……」


 もうそんな歳になったのか、と我ながら感慨深かった。採寸やら何やらをするのは少し面倒な気もするものの、親父から折角言いだしてくれたのだ。


「分かった。今日中に?」

「そうだ。本当は三、四日かかるから、もっと早く言うべきだったんだが……」

「仕方ないさ。親父が大変なのはよく知ってるし」

「済まないな」


 財務省の課長級ともなれば、有給などあって無いようなものなのだろう。大きなトラブルがあれば、親父は今日も休めなかったかもしれない。大学進学はまだ先だけれど、身長も多分これ以上そんなには変わらないだろうし、今のうちにスーツを作っておくのも悪くなさそうだと思った。

 


 ***



 翌日、日曜日の夕方。

 俺と父、他に母方の親族だけが参加した小さな法事も終わり、俺は父と寺の境内をゆっくり歩いていた。真新しいスーツは微妙に袖が長いし、初めてのネクタイを結んだ首元のキツさは相変わらず慣れない。


「なぁ、颯太」

「……ん?」

「母さんのこと……どう思ってる?」


 まだ少しだけ俺より背の高い親父は、前を向いたまま、まるで自分に言い聞かせるかのように呟いた。アバウトすぎるだろその質問と言いかけて、ぐっと呑み込む。彼が――佐上篤史さがみあつしが俺に聞きたいのは、きっと具体的なことではないだろうから。


「思うも何も、一歳の頃の記憶なんてほとんどないし」

「ああ、それは聞いた」

「そう。ただ、幼い俺のことを誰かが優しく抱き締めてくれたような……そんな感触だけが、朧気に残っている……ような気がする」

「……恨んだりとか、してないのか?」

「恨む、か……」


 葬式じゅう電源を切っていたスマホを、スーツの胸元から取り出して再起動した。まだ真っ暗な画面に反射している、ボサボサした黒髪の男のぼんやりした顔。物静かで陰キャで友人の少ない、もうすぐ十七歳の少年。東大卒の父と早稲田卒の母から生まれた、真面目ではあるが成績は良くも悪くもない凡庸な高校二年生。


「恨んではないな。全然」

「……そうか」


 スマホのロック画面がやっと起動して、待受けの写真が夕闇に浮かび上がった。2007年にガラケーで撮られたその写真に写っているのは、生まれたばかりでまだ保育器の中にいる俺、そしてその両脇で明るく笑う、黒髪を肩口で切り揃えた綺麗な女性と父の姿。母と三人で撮った、残っている唯一の写真だ。

 母を恨んだことは一度もなかった。大した才能は引き継げなかったけれど、産んでくれたことには感謝している。ただ、小さい頃から男手一つで育てられたせいか、そもそも母親とはどんな存在なのかということさえ、俺には正直よく分からない。


「でも……どうして亡くなったのかは教えて欲しい」


 だから、せめてそれだけは知りたかった。どうして母がいないのか。病気か過労か、あるいは自殺か――それこそ無邪気に尋ねた幼い俺に、ひどく歪んだ父の精悍な顔。そのあまりに苦しそうな表情を見てしまってから、俺は母親の話題を避け続けて。それでも息子として、母のことを――佐上唯奈という人のことを知りたいという思いは、むしろ年々強まっていくばかりだった。


 ニイニイゼミだろうか、甲高く一本調子な虫の声が境内の林に響き渡る。大きめの白い砂利を踏みしめながら歩いていると、沈黙も不思議と苦にはならない。


「……済まない。もう少しだけ待っていてくれないか」

「分かった」


 そう詫びる父の調子は、いつにも増して力がもっていたように感じられた。母の死から十六年という歳月が流れて、ようやく真正面から向き合えるようになりつつあるのかもしれない。俺も、父も。


 昔はよくいたっけなと思いながら、俺は境内の出口脇に建っている大きな鐘楼を眺めた。その背後の夕暮れを切り裂くように灰色の雲間から射し込んでいる幾筋かの光芒こうぼうは、まるで天使が掛けた金色の梯子のように見える。そしてこの美しい光景こそが、もしかするととの出会いの予兆だったのかもしれなかった――。

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