刺青将軍
せんのあすむ
序
晩秋の渭州である。西夏と宋との国境付近にある地方であり、唐代の都であった長安にも近い。
前線から兵士の慄く声が伝わってきて、
(またか)
また奴が来ているのか、と、宋へ攻め入ってきた聡明な蛮土の王は、濃い髭の中に隠された唇を歪めた。彼は一国の王、という身分でありながら、毎度の戦いに自ら兵士たちを率い、宋との国境を侵す戦いに出陣している。
(奴が出てくるまでは、全て上手く行っていた)
蛮王の国は、チベット系党項(タングート)族が建てた。宋の人々から見て西に位置しているため、宋からは西夏と呼ばれているが、自らは「大夏」と称している。もう何度目の対戦になるだろう。舌打ちしながら蛮土……西夏の王、李元昊は一旦瞳を閉じ、
「怯むな! 相手は我らと同じ人間である!」
再びカッとその目を見開きながら、われと我が国の兵士を叱咤する。その端正な顔の色は、憤りのあまりどす黒く変わっていた。側近の武将たちはそれと見て、慌てて配下の兵士たちの気持ちを奮い立たせようと、これまた口々に同じような言葉を吐き散らかしながら体勢を立て直そうとするのだが、
(無理だ)
一度怯えに崩れてしまった人の気持ちを、奮い立たせるのは不可能である。怯えや恐怖といったような負の感情は、一部に生じたなら全体に伝わる。そしてその速度は他のどの感情が伝わるより早い。
「悪鬼だ」
「面具(仮面)の鬼が来た」
いつものごとく口々に言い、前線から逃げてくる西夏の兵士に内心苦笑しながら、
(引き上げねばならん)
逃げるなと喝を飛ばしておきながら、そのことを誰よりも一番、この英邁な君主は知っていた。
幸い、風は己の国のある西側から吹いている。
(このまま砂埃を立てながら退却すればよい)
そうすれば、乾いた砂は瞬時にして大の男の背ほどに舞い上がり、かの下級将校が率いる宋兵士たちの眼をくらませよう。それに癪なことだが、なにより己が退却すれば、かの「鬼」は国境を越えてまで己らを追い散らかそうとしない。
そのことを(しゃッ面憎い)と、王にあるまじき言葉で思いながら、その一方で、
「しかし、惜しいな」
とも、元昊はつい口に出す。王の言葉をどう聞いたものか、
「まこと、その通りで。かの狄青とやらいう将さえいなければ、文弱な宋など我らで一揉みであろうものを」
馬を併走させていた側近の一人が心得たような顔で頷いた。
それへ、
「いや……ああ、そうだな」
多くを語らず、元昊はふと後ろを振り返る。大勢が立てた砂埃で、すでに宋軍の姿は見えぬ。見えないが、
(狄青が欲しい)
その名を心に浮かべ、砂の中に面具をつけたザンバラ髪のその姿がちらとでも見えぬかと探しながら、恋焦がれるように彼は思った。このような矛盾した感情は、他の部下には到底、理解されぬであろう。
その下級将校は、名を狄青という。宋での位階は三班差使という、当時ではまさに下から数えたほうが早い待遇に過ぎなかった。
彼と干戈を交えるようになって、早数年になる。当初は「大した人材もおらぬから」と見くびり、事実その通りであった宋との国境へ、何度も我が物顔に攻め入っては略奪を繰り返していた元昊であったが、狄青が現れてからというもの、
「まだ宋にも人物がいたのか」
と思い、またその出現を、
「邪魔なことこの上ない」
と当初はこの上なく憎んだものだ。
しかし今では、
(彼をこちらへ引き込むことができたら、彼がこちらへ来たなら、どんな官位や富でも与えてやろうものを)
狄青の人となりを聞き、実際にその武勇を見て、退却の都度そう思うようになっている。
元昊は、文官が横行する宋の国情を良く知っていた。聞いた事柄でしかないが、それと狄青の人柄とを考え合わせると、
(出世はするだろう)
文官が多数を占める宋の朝廷の中で、目覚しい活躍をした武人は彼のみであるから、一旦は高い地位を得るであろう。しかし、どう見てもこれから先の狄青が、その中で上手く泳ぎ渡っていけるとは思えない。
(この戦いに何らかの形で決着がついたら)
と、彼はついで考える。
永遠に続く戦いなどない。そうだとしたら第一、宋ばかりではなく、自分たちも疲弊してしまう。従っていずれ戦いは終わろうし、そうなれば昔、「戦い終わりて走狗煮らる」などと誰かが嘆いたような目に、狄青もまた遭いはしないか。
外部の人間だからこそ、それがよく見える。よって、
「惜しいな」
元昊は部下に聞こえぬよう、馬上で再三、小さく慨嘆した。
西夏の兵士たちの姿が見えなくなってから、かの下級将校は右手に持っていた槍を掲げて、
「こちらも退却だ」
大きな声でそう告げた。
告げつつ、顔を覆っていた大きな銅製の面具を取り、大きく首を振る。汗みずくになった額に、ぺったりと張り付いていた髪を、これまた無造作に片手で掴んで、懐から出した紐で頭の後ろへ一つにまとめる。
「追わないのですか」
「追わずとも良い」
いつものごとく尋ねてきた配下の者へ、狄青は口元にかすかな笑みを浮かべながら答えた。
「逃げてゆく敵を叩くのは、宋にとっても賢いやり方ではない。叩けば、宋の懐が小さいと笑われる。相手が攻め入ってきたら、何度でも勝って逃がしてやる。そうすることで、宋の度量を示してやるほうがいい」
この将軍は、武人らしくあまり言葉を知らぬ。己を引き立ててくれた范仲淹の勧めで、近頃ようやく春秋左氏伝を読み始めたばかりという、いわば猪武者である。しかし自分の言葉で語られるそれらのことは、他の皆に良く伝わった。
そこで言葉を切って、狄青は節くれだった左手でそちら側の衿を掴んだ。
「暑いな」
ぽつりと言って、掴んだ衿を動かして胸元に風を送りながら、馬上から空を仰ぐ。
雲ひとつ無く澄み切った青空には、今日もぎらぎらと輝く太陽があり、その太陽が照りつける彼の顔には、一兵卒出身であることを示す入れ墨がある。
「今度また西夏の連中が来たら、また追い払えばいい」
目を閉じて太陽の光を両の瞼に感じながら、狄青は再びかすかに笑って言った。
「相手も人間である。いつか我らのことも分かる」
それを聞いて(甘いことを)と思いながら、その一方で(これが彼なのだ)と、狄青の率いる部隊の兵士たちは顔を見合わせ、これも微笑を浮かべる。
現実問題として、今の宋の兵士たちの力量を考えると、逃げていく西夏軍を完膚なきまでに叩きのめすことなど、到底出来た相談ではない、と言っても良い。要するに、宋の軍隊は弱い。
だが、狄青はそれを口にしない。言ってしまえば兵士たちの士気に関わるというだけではなく、
「さて、戻ろう。
自らもこの戦いで流れ矢に当たりながら、なお兵士たちのことを気遣う彼の優しさの現われなのである。そのことは左の言葉によく滲み出ていた。
国境の陣営に戻ると、ひときわ大きな天幕から、待ち構えたように転がり出てきた人物がある。これなん、軍令司官の一人である韓琦で、
「今日も無事であられたか」
狄青の姿を見て心からそう喜び、己より頭一つ分は高い彼の背を抱かんばかりにして帷幕の中へ招き入れた。
「貴君の働き、皇帝陛下も大変にお喜びである」
己の向かい側に狄青を座らせつつ、韓琦は言いながら二つほど頷いて、
「陛下御自ら、貴君の意見を聞きたいとの仰せであるが、今、君にここから去られては我らが困る」
ついで苦笑した。
「従って、君の似顔絵を描かせてはくれないだろうか。皇帝陛下に奉るためである」
四方を異民族の脅威にさらされながら、どうにかこうにか続いている宋は、四代目仁宗の時代になっている。皇帝に名を知られるようになったこの
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