4話 黒
複雑な思いでもある。
だが、笑みが漏れてしまう。
少し肌寒くなった夜の道。
足早に帰路を急ぐスガヤの後ろを、黒い翼の有翼人が付いてきている。
自分よりも大きな歩幅であるはずなのに、近づくこともなく、一定の距離を保っていた。
何を意図しているのか計り知れないが、スガヤの家に到着し、玄関ドアを開け放すと、有翼人はすんなり部屋へ入ってきた。
スガヤは後ろ手でドアを閉める。そしてそっと鍵をかけた。
有翼人は大きい。
狭いスガヤの部屋に立っているだけで、高圧的な圧迫感がある。部屋がますます狭く感じられた。
「とりあえず、マントを取ったらどうだ?」
男の背中に投げた言葉。
有翼人は素直に茶色の薄汚いマントをその場に脱ぎ捨てた。スガヤはそっとしゃがんで床に落ちたそれを拾う。
眼前に広がる漆黒の翼は艶やかで、スガヤの血はざわめいた。心臓が痛むほどの拍動を打つ。
(これは、欲しいな)
この自分の後ろで閉めた鍵が、二度と開かなければいいのにとの思いが頭を過って、苦笑が漏れた。
そんなことを望むだけ無駄だということもわかっている。
「まあ座れ。食事を用意してやる」
スガヤは竈にかけていた釜の蓋を開けた。柔らかく匂い立つ。
木製のレードルでそれをすくい、固いパンと共に有翼人の前に置いた。
そして自分は少し離れた壁にもたれ掛かると腕を組む。どう食べるのかという興味で胸が踊る。
有翼人は出された食事をしばし眺めていた。どう食べていいのかわからないのかもしれない。
「シチューは傍のスプーンを使ってすくって食べるんだ。パンはちぎって食べればいい」
スガヤが子供に諭すように説明すると、有翼人は子供のようにスプーンを握って持ち、シチューをすくった。そのままゆっくりと口にする。
「お、うまいな」
一口口にして、有翼人は黒い瞳を輝かせた。そしてこぼれることも厭わず夢中で食べ始めた。
スガヤは喜びと満足感で綻ぶ顔を抑えきれなかった。
やがてシチューがなくなると、有翼人は物足りなそうに眉をしかめる。「おかわりがいるか?」と訊ねると、パッと顔を上げた。
高圧的で不遜な男だと思っていた。
だが存外に可愛らしく、スガヤの心臓はうるさいほど高鳴った。自然と笑みが溢れる。
シチューのおかわりを注ぎながらも、それを有翼人の前に差し出す時でさえも、スガヤはえもいわれぬ幸福感に包まれた。
(これはずっと見ていられるな)
結局有翼人はシチューを3杯おかわりした。
・・・
食事を終えると、スガヤは暖かい紅茶を注ぎながら、有翼人に名を問った。
「名か。そういえば久しく聞かぬな」
有翼人は眉根を寄せて考えてはいるが思い出せない様子だった。
彼らは人間よりも遥かに長い月日を生きている。故に様々なことに頓着がないのかもしれない。
「・・・だが、こうして人間に貸し出されたことは、あったのだろう?その時は何と呼ばれていたんだ?」
聞きながらもスガヤの手は少し震えた。
自分と同じようにこの有翼人を借りた人物がいる可能性に、嫉妬に近い感情を抱いていたのだ。
「あるにはあったが、名などは呼ばれぬ。名など呼ぶ必要がなかろう。辱しめるか蹂躙するかしかないのだから。」
事もなさそうにそう告げると、紅茶に一口口をつける。
「お、これもうまいな。」
「・・・そうか。」
スガヤは静かに頷いた。
この有翼人は、どれほどの年月をこうして奴隷として過ごし、人間の欲望のままに扱われてきたか知れない。
嫉妬に近い感覚を、一瞬でも抱いたことを酷く恥じた。
スガヤは俯き、唇を噛み締める。
有翼人はそんなスガヤを真っ直ぐにじっと見据えていた。
「お前が怒ることではない。人間が俺たちを恐れ、故に俺の自由を奪い蹂躙したがるのは不思議なことではない。むしろ自然なことだ。」
「しかし、」
「お前が気に病むな。捕まった俺に非があるのだから。」
「だったらなぜ、」
なぜあの時逃げなかったのか、そう問いかけて、スガヤは二の句を躊躇った。
だが察したのか、有翼人は初めてゆったりと微笑んだ。
「人間を殺すことに、少々疲れたのだろうな。俺たちは本能の中に人間を殺すことが刻まれている。そのために存在しているのだからな。だが、もうそんな毎日に疲れてしまった。それだけの話だ。」
この有翼人は、本能に逆らい、人間に捕まって蹂躙される生き方を選んだ。それを事も無げにさらりと言う。
そのことに、スガヤの胸は抉られた。
「今、こうして奴隷に甘んじているのは贖罪、なのか?」
「どうだろうな。」
微笑み、紅茶を飲む有翼人の顔は、とても穏やかだった。
その穏やかさがスガヤには酷く悲しかった。
「・・・やはり、お前を名で呼びたい。」
俯いて恥じらい、スガヤは小さくねだった。名を呼ぶことで、もっと近づきたいと願った。
「ならば、お前が付けるといい。」
有翼人はおかしそうに肘を付いてスガヤの次の句を待った。
少し思案を巡らせ、スガヤは「黒」と答えた。
短絡的だなと、黒は声をたてて笑った。
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