――熱――


 昼休みの図書室で雪虫のことを調べた翌日。俺は熱を出した。

 風邪気味なのに、夜遅くまでテスト勉強をしていたのが悪かったのだろうか。朝、起きた瞬間から発熱していると分かった。


 いつもよりもさらに味気のない朝食を食べ、体調不良で休む旨を学校に伝えたところでベッドに倒れ込む。


 身体が鉛にでもなったかのように重だるい。鼻詰まりも悪化していて、息苦しい。


 養父母がそれぞれ仕事へ出かけるタイミングを見計らって、おぼつかない足取りで一階に行く。救急箱の置き場所は、この家に引き取られて間もなく教えられた。幸い、あれから四年が過ぎた今でも同じ場所に置かれていた。

 箱の中から体温計を取り出し、熱を測る。三十八度六分。案の定、高い。

 熱があると察しはついていたのに、いざ事実として突きつけられるとため息が出た。この家に来てからは一度も発熱したことなんてなかったのに。


 使用期限を一年以上過ぎている冷却シートを見つけ、額に貼りつける。替えのシートと、最近になって購入されたらしい風邪薬、ミネラルウォーターのペットボトルを拝借し、部屋に引き返した。後で、なにか昼飯を食べなければとも思うが、食欲がわく気はしなかった。晩飯の時に養父母へ事情を説明しなければいけないと思うと、面倒くさい。いっそのこと、置き手紙でもしておこうか。一瞬そんなことも考えたが、今はペンを持つよりも横になりたかった。


 布団にくるまり、隣接する机に手を伸ばす。手探りでスマホをつかむと、自分の体温で温められた布団の中へ腕を引っ込める。


 『熱出たから、学校休んだ。今日は昼飯』


 一緒に食べられない。ごめん。そこまで文字を打ちかけて、考え直す。

 謝る必要はない。あいつには仲のいい友達が何人もいるし、一人きりで昼飯を食べることもないだろう。さらに言えば、わざわざ図書室で俺と一緒に食べる必要もない。


 俺はいなくてもいい存在……?


 胸の内を、暗いものが横切った。が、すぐになにを考えているんだと思考を切り替える。昨日、彼の口から「幸せ」という言葉を聞いたばかりではないか。短いけれど、偽りなんて少しも含まれてはいなかった。そして、その一言は確かに俺へ向けられていたはずだ。


 病気になると、どうもマイナス思考になってしまうようだ。

 長く息を吐くことで気分を落ち着かせ、俺はメールの内容を修正しにかかる。熱が出たから学校を休む、ここまでは直さなくてもいいだろう。


 『お前に会えないのが残念だよ。早く治して、登校したい。』


 「……ちょっと、本音を出し過ぎかな……」


 報告と感想みたいなものがごちゃ混ぜになっている文を送信する。今は授業中だから、スマホを見るひまはないだろう。江森がメールに気がつくとしたら、各授業の間に挟まれている休み時間か。ひょっとしたら、昼休みまで気づかないかもしれない。


 「ああ……、だるい」


 悪寒がする。寒いはずなのに、暑いようなおかしな感覚。

 頭がぼーっとしてきた。少しだけ眠ろう。スマホを枕元に放り、掛け布団を口元まで引っぱり上げて目を閉じる。


 熱で身体が弱っているせいもあるのか、俺はすぐに意識を失った。






 目を覚ましたのは、一時をまわった頃だった。


 なんだか妙な夢を見ていた気がする。寝ている俺の傍で、誰かが太鼓を打ち鳴らして起こそうとしている……、そんな内容だったと思う。地響きのように低く腹に伝わる音がとてもリアルだった。


 ドン……。コン。


 何処からか、おかしな音が聞こえてくる。俺はまだ夢を見ているのだろうか。


 いや、これは紛れもない現実だ。身体のだるさと息苦しさ、自分の荒い呼吸でそれがよく分かる。


 音は窓の方からする。


 重い身を起こすと、スマホが目に入った。赤い光がチカチカと点滅している。メールの受信を知らせるものだ。


 『大丈夫?』

 『そこの家、風邪薬とかあんのか?』

 『ないなら、後で買っていこうか』


 「質問攻めかよ」


 寝起きのせいか、それとも熱のせいか。ぼんやりとした視界でメールを一読し、失笑しながら呟く。あまりにも力の抜けた声に、体調が悪いことを再確認する。眠る前に風邪薬を飲んでおいたが、発熱にはあまり効果がないようだ。


 メールはまだ続いていた。


 『おーい』

 『もしかして寝てる?』

 『住所って、前に教えてもらったやつで合ってるよな』


 六つ目に届いた文章。どういう意味だろう。


 コン。ドスッ。


 まただ。一旦、鳴り止んだ音が再開する。


 ちらりと目をやった窓ガラスに、白いものがついている。それはガラスの上をなぞるように滑り、落ちて行った。


 雪、だろうか。


 目を瞬いていると、手の内でスマホが震えた。


 『窓の近くに段ボールがある部屋?』


 たった今、送られてきたメールの内容。


 はっとする。


 窓の前まで行き、外を見る。二階の部屋から地上を見下ろす。


 家の前に、誰かが立っている。その人物は片腕を大きく振り上げているところだった。まるでマウンドに立ち、振りかぶっている投手のように。


 彼は俺の存在に気がつくと、上げていた手を小さく振ってみせた。


 その手には雪の塊らしきものが握られていた。道端にわずかに降り積もった雪で小さな雪玉を作り、窓めがけて投げていたのだろう。


 「なんで……」


 なにやら下を向いて手を動かしている彼を、俺は呆然と眺めていた。


 振動がきた。またメールだ。


 『見つけた!』


 短文からでも、喜びが伝わってくる。


 嬉しいのは俺も同じだった。


 気持ちを文章にして打ち込むより先に、足が動いていた。途中、ふらふらとよろめきながら階段を下り、玄関へまっすぐに向かう。たったそれだけの運動なのに、息がきれた。おまけに脈拍も早い。


 胸が高鳴っているのは風邪のせいではない。


 逢いたい人がこんなにも近くにいて。嬉しいせいだ。熱さえなければ、勢いよく駆け出して行って、その胸に飛び込むのに。


 ドアを開けると、門の外にいる彼とすぐに目が合った。


 「佐倉……! 熱、大丈夫か? っていうか、外に出てきて平気?」


 江森は珍しく心配そうな態度を見せた。鼻頭が赤くなっている。


 「……なんで、いるんだよ」


 された問いへ答えを返すより早く、疑問をぶつける。


 「学校は。まだ授業があるだろ」


 「早退した」


 はぁ? と言おうとして息を吸い込んだら、咳が出た。室内の空気と外気の寒暖差に、身体が耐えられなかったようだ。


 「家の中に戻れよ。そんな薄着で外に出て来たら、悪化するぞ」


 詳しい説明が欲しかったが、江森の言うことは正しい。


 はぁ。吐いた息がもくもくと立ち上って、消える。


 「……来て」


 手招きをすると、江森は不思議そうに首をかしげながら敷地内へ入って来た。


 「上がってもいい。今は、誰もいないから」

 「そうか。じゃ、遠慮なく、」

 「でも風邪……うつすと悪いから、なるべく近づかないでくれ」


 うなずく江森の背後で、ゆっくりとドアが閉まる。


 手すりを頼りに階段を上がると、江森は大人しくついて来た。カサカサと、微かな音がする。そういえば、彼はビニール袋を提げていた。認識する速度が落ちている。頭の働きが鈍くなるのは、恋に身を焦がしていた時以来だ。


 「うわっ。段ボールだらけじゃん。物置かよ」

 「そうだよ」

 「え。マジで」

 「それよりお前、学校……早退したって本当なの」

 「うん。あ、ちゃんと先生には言って来たぞ。すっげぇ腹が痛いから、早退しますって」


 この男に演技ができるとは思えない。

 話を聞いた先生は疑問に思わなかったのだろうか。江森は何処からどう見ても健康体だ。痛がる素振りも見せずに腹痛を訴えても、訝しがられるに決まっている。


 「……うちの学校の教師って、とんでもなく鈍感な人ばかりだったりして」

 「生徒を信じてくれるいい教師が多いんじゃないのか。真剣な顔で話したら、すんなり帰してくれた」

 「ああ……。江森が真顔でいると、逆に周りは心配するかもな」

 「佐倉って時々、きついことを平気で言うよな」


 悪寒がひどくなってきた。苦笑いを浮かべている江森の顔がかすんで見える。


 立っているのもつらくなってきて、膝に両手をつく。すると、江森が俺の脇を通り過ぎ、持っていた袋を机の上に置いた。次いで、布がこすれるような音が聞こえる。


 軽い動作で肩へ触れられた。彼の手は、いつもより少しだけ冷たかった。


 「無理しないで寝てろ。そうやって起きてるだけでも、きついだろ」


 「……うん」


 江森がめくってくれた布団の中へ潜り込む。寝転がると、少しだけ楽になった。


 「ここまで来る間に、コンビニで色々と買ってきた。水とスポーツドリンクと、あとはパンとか軽食な。風邪薬、この家に置いてる? なければ買いに行くけど」


 それには及ばないと、机を指し示す。机上に薬の小瓶を見つけた江森は、ああとうなずいた。


 「至れり尽くせり、だな……。ありがとう。すごく助かる」

 「恋人が熱出して苦しんでるんだから、これくらいして当然だろ。それより、寒くない? もっと毛布とか身体にかけた方がいいんじゃないか」

 「……はは。江森って、意外と心配性なんだな」

 「なんで笑うんだよ、俺は真面目に聞いてるんだけど」


 だから面白いんだ。口にすれば、間違いなく彼は不服そうに眉を寄せるだろう。まだつき合い始めて間もないけれど、子供っぽいところがあることはよく知っている。


 見かけによらず読書が趣味で、分からない単語や読めない漢字は飛ばして読み進めるタイプだということ。

 野球の話になると止まらなくなる。冬は苦手だけど、雪は大好き。


 ここ数日の間で分かった、好きな人のことはこれくらい。


 ぜんぶ、江森らしいと思い、ぜんぶ、愛おしくなった。


 もっと知りたい。江森のこと。


 そして知って欲しい。俺のことも。


 まぶたが重くなってきた。


 「ねえ、江森」


 「うん?」


 「……もう少しだけ、ここにいて」


 指が頬に触れ、熱を持った肌を撫でる。その手をつかんでみると、ひんやりと冷たくて気持ちがよかった。ずっと触っていたかったけど、重さに耐えかねた両のまぶたが落ちてきてしまった。


 「ん。分かった」


 「ごめん……。だるくて、眠くて、もう限界……」


 「佐倉が寝るまで、ちゃんとここにいる。だから安心しろ」


 「うん……。ああ、あとさ」


 細く開けた視界に、恋人の姿を探す。


 いつもの人懐こい笑顔。一目、見るだけで安心した。


 「逢いに来てくれて……ありがとう」


 江森は何も答えず、俺の頭を撫でてくれた。


 優しい手つきと温もりに、間もなくして意識は深い眠りの底へ沈んでいった。






 心地いい眠りの中、夢を見た。


 何処かの田舎町。自然が豊かな風景の中に、俺はいた。隣りには、大好きな人の姿もあった。


 曇り空の下、何か白いものが空中をふわふわと漂っている。


 小さな光のような、真綿のような。


 雪虫だ。


 白いものを身にまとった羽虫が、いくつも飛んでいる。俺たちの周りを、優雅に、頼りない速度で。

 空から降ってきた雪が意志を持ってまた上へ上へと上昇しているみたいだ。


 俺は淡く発光して見えるそれに、手を伸ばした。


 一匹が人差し指の先に止まった。小さな身体をもぞもぞさせている姿は、なんとも可愛らしい。


 雪虫は人の体温でも弱る。


 思い出しかけた時、手の甲へ一回り大きな手が重なった。指先に止まっていた雪虫は、その微かな振動を敏感に察知し、空に向かってまた羽を羽ばたかせた。

 飛んでっちゃったな。笑みの含まれた声を聞いた。


 雪虫が逃げても、まだ手は重ねられていた。力はごく弱いもので、触れていると表現した方が正しいほどだ。


 拳を形作っていた指をすべて解き、俺は彼の手を握り返した。大きくて男らしい手は少しだけ冷えていたけれど、繋いでから十秒で温まった。


 人の体温で弱る雪虫。繊細で、傷つきやすくて、風が吹けば流される。


 脆い存在なのは、俺たち人間とそう変わらないのかもしれない。


 だけど、決定的に違うところがある。


 人間は誰かと接することで、時にかけがえのないものを見つける。人間は大切な人の体温を感じるだけで、強くなれる。どんなに高い空だって飛べるくらいに。


 俺は弱い人間だ。


 でも最近になって痛みを経験した。どんな頭痛より腹痛よりよっぽど痛かったけれど、苦痛の中で得たものもあった。痛みと真剣に向き合った結果、前よりも少しだけ強くなれた気がする。


 ほんの少しだけ。それでもいい。


 ふわふわと頼りなく浮遊するように生きていた俺を、見つけてくれた人がいたから。俺と一緒にいられて幸せだと言ってくれたから。


 俺も幸せだよ、江森――。


 無邪気な笑い声がした。目が覚めたのはその直後。現実で聞こえたものにも思えたが、部屋の中に江森の姿はなかった。スマホで時刻を確認すると、三時になるところだった。二時間近くも眠ってしまっていたようだ。


 身体は相変わらず重い。が、今はだるさよりも空腹を強く感じた。


 朝からなにも食べていないのだ、腹が減るのも当然だろう。


 起きて、江森が持ってきてくれた袋の中を覗いてみる。二本のペットボトル、パンとおにぎりが二つずつと、チョコレート菓子まで入っている。


 おにぎりの具が両方とも俺の好きなものだったのは、単なる偶然だろう。


 「……なんだ、これ」


 机の隅に置いていたノートが開かれ、白紙の部分に文字が書かれている。


 『元気になったら、雪合戦しよーぜ!』


 癖のある字体で、そんな一文が記されていた。


 「……ほんと、子供っぽいんだから」


 苦笑したら咳が出た。薬を飲むためにも、腹を満たさなければ。水を飲み、俺はおかかのおにぎりに手を伸ばす。


 こんな風邪、さっさと治してしまおう。


 治ったらすぐ好きな人に逢いに行こう。


 今度は彼の近くで思う存分に話しができる。


 まずは、雪虫の夢のことから話そうか――。

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