二律・3
【金曜日】
『最近お返事出来なくてごめんね~! 今日、部活終わりに有喜ちゃんち寄っていいかな!?』
八時頃、ゴミ収集車の軽やかな音楽で浅い眠りから目を覚ますと、スマホには一件のメッセージが入っていた。
それはあまりにも――文体も、絵文字の使い方も――いつも通りの、媛崎先輩のメッセージ。
今までの沈黙がなんだったのか意味を見つけられない程あっけない返信だけど、そっけなさは感じない。私が過剰に心配をしていただけ……なんだろうか。
「先輩」
とにかく、枕元に佇んでいるクリスマスプレゼントを見つけたような気分になり、忙しなくなった心臓が脳へと血液を送り眠気眼は覚醒に導かれ、指先がスマホの画面で跳ねる。
『練習でお忙しいのにしつこく連絡してしまってすみません!』
――今日も無理しないで大丈夫ですよ。――と、続けようとして、やめた。なんだか本当に来てくれなくなってしまうような気がしたから。
『んーん! 私もちょっと疲れちゃったから早くうきちゃんで癒されたいよ〜』
『嬉しいです。何か用意しておきましょうか?』
最後に私が送ったこのメッセージには既読もつかなかったけど――少し不自然に感じたけど――それでも良いと思った。
だって、今日は先輩に会えるんだから。
今までの時間はなんだったんだろう。どうしてあんなに苦しんでいたんだろう。
こんなに簡単に解決するんだって知っていたら、もっと気楽に構えていられたのに。
まぁもうどうでもいいか。
だって、今日は先輩に会えるんだから。
気合を入れた服装とメイクで出迎えよう。
部活終わりの先輩が小腹を満たせるものも用意しておこう。
そういう雰囲気になった時のために覚悟もしておこう。
それで仲直りできたら……先輩にまた、優しく撫でてほしいな。
×
チャイムが鳴ってすぐに、インターホンも確認しないで玄関へ向かう。
「先輩、おつかれ様ですっ! あっ……」
「あはは、有喜ちゃん元気みたいで良かった~」
媛崎先輩が、来てくれた。会いたくて仕方がなかった先輩が、目の前にいる。
「久しぶり、福添さん」
噂の彼女を連れて、媛崎先輩は来てくれた。
「雨堂さん……久しぶり」
「急に来ちゃってごめんね。茜先輩が今日寄るって言うから、私も会いたくなっちゃって」
「ううん、ありがとう」
茜先輩、か。いやいや、うちのテニス部は名前呼びが普通だから。というかいつまで経っても名字で呼んでる私が悪い。悪いというか……なんというか……。
「本当にもう大丈夫なの? ゆっくり休めてる?」
「うん。おかげさまで」
私が遭った事件のことは、周囲にはできる限り伏せられていて。
親しい人以外には階段から足を滑らせて大怪我をした。という説明がなされていたらしい。……そもそも高校に親しい人全然いないからあんまり意味ないって思ってたけど……こうして心配してくれる雨堂さんみたいな人もいるんだ。
「二人は……」
そんな、私を気にしてくれて、心配してくれた雨堂さんに対して――
「いつも、一緒に帰ってるんですか?」
――私は何を嫉妬しているんだろう。
「うんっ、夏休み入ってからはいつも一緒だよ」
笑顔で答えをくれたのは媛崎先輩。胸の奥がジリジリと焦げていく。
「福添さんみたいに凄いサポートはできないけどね、私になりに、力になれることは……なんでもしたくて」
だからって一緒に帰る必要あるのかな。電車の中でも部活の話をしてるの?
「ねぇ有喜ちゃん、明日暇かな?」
「は、はい。暇ですよ、ずっと」
いつの間にか俯いていた私に一歩近づいて顔を覗き込み問う先輩から、夏の匂いがする。シャンプーとかウェアとか部室とかテニスコートとか制汗剤とか、そういった全部が詰め込まれた青春の匂いに酔って、雨堂さんの前なのに抱きしめようとしてしまった。
それを自覚するとともに、指先の切り傷から溢れる血潮みたいに独占欲が湧いて出る。
雨堂さんはこの香りを毎日毎日毎日毎日独占して帰ってるんだ。二人きりで。
「そっか、良かった! 明日ね、住良木と試合があるんだ。シングルス2の座を掛けて!」
「試合、ですか」
地域主催で行われる夏の大会のことだろう。シングルス2っていうのはざっくり言えば部内で二番目に強い人のこと。シングルス1は三年の先輩だとしても、その他の三年を全員押しのけて二年の媛崎先輩と住良木先輩が争うなんて凄いことだ。
凄いことなのに、心が重たい鎧を着込んでしまって相応のリアクションができない。
「そう! 私達二人の成果が出るのが明日なんだ。できたら……応援に来てほしいなって」
二人の成果? 私は? 私だって……テニス部を辞めるまでは、あんなことになる前までは、コートの上で先輩に尽くしましたよ。
「応援、してくれるよね」
「……もちろんですっ。頑張ってくださいね! 先輩なら絶対勝てますよ!」
大丈夫。笑えてる。声も明るくて元気。ガッツポーズも作れた。
「えへへ、ありがと!
飛鳥ちゃん……当然だけど雨堂さんに対しても名前呼び。……当然なんだ。当然なんだよ。
「私はダブルス2だけどね」
「一年生なのに枠争奪戦に参加する事が凄いよ! 頑張ってね、応援してるから」
「ありがとう!」
「飛鳥ちゃんボレーとかロブとかとっても上手いんだよ、ほんとにダブルスで大活躍なの!」
「そんな、そんなですよ……」
「苦手だったサーブもいっぱい練習して上達したもんね~」
「それは茜先輩がたくさん付き合ってくださったからです!」
媛崎先輩が自然な仕草で手を伸ばすと、それはそのまま雨堂さんの頭を撫でて、見つめ合い、可憐な笑みを浮かべ合う二人。何……見せられてるんだろう。
「それじゃあ有喜ちゃん、明日待ってるからね! 十一時には始まると思うから!」
「具合悪かったら無理しないでね。でも、福添さんが来てくれたら嬉しいっ」
またこんな光景を見せられるなら、絶対に行きたくない。
「絶対行きますよ。だから二人も絶対に勝ってくださいね!」
「うん!」
「また明日!」
「…………」
あはは……すごいなぁ。すごく、痛い。
恋人が誰かと一緒に歩く後ろ姿を眺めるのって……こんなに痛いんだ。
想像していたよりずっと痛い。
メイクも服装も、何も言ってもらえなかった。私よりも雨堂さんを見ている時間の方が長かった。撫でられたのも私じゃなかった。
冷蔵庫に忍ばせていた手のこんだサンドイッチも出番はなかった。
雨堂さんがいるんだからそういう雰囲気になるはずもなかったし、覚悟なんて無意味だった。
こんな話を聞くなら、もっと重い、痛みを味わう覚悟をするべきだった。自分の甘さに辟易した。
二人を見送って、ドアを閉じて、チェーンを掛けて、鍵を回して、体の力が抜けて、壁に寄りかかって……無意識下で、小さな涙と言葉が零れ落ちる。
「…………負けちゃえばいいのに」
零したと同時に、右手で自分の頬を叩いた。
でも――叱りたい気持ちはもちろんあるんだけど、その本心を否定したくない自分を甘やかしてしまって――それはそれは弱々しく、何度も何度も、痛みのない罰を味わった。
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