50ft pitch
北家
序文
第一打席
カーブを見逃されてフルカウント。捕手のサインに、栗原慎二は首を振った。アウトローにカッターなどを投じても、昨季のメジャーで十ホーマーを記録した打者はよく見ているはずだ。ボール球は振らないし、ストライクゾーンを少しでもかすめようものなら慎二の遅く軽い球はすぐにスタンドに運ばれるだろう。それはわかっていた。
オープンスタンスに構えてもなお、このお手本のようなスイングの打者はインコースに弱い。それはトップチームでこそ周知されているが、一見すればわからないだろう。彼はインコースの甘い球を何度もスタンドに入れているからだ。だから、慎二は首を振り続けた。
そして、この打席ではじめてインハイにミットが動く。アウトコース好きの捕手が最大限の譲歩という顔を見せているため、慎二は頷くことにした。本当だったら低めがいい。だが構えた場所に投げているかどうかも、スカウトは見ているはずだ。
慎二は振りかぶり、投じられた一球に打者は食らいつく。だがそのスイング軌道は、ボールの下。これで二イニングをパーフェクト。時速七十七マイルの速球で奪った、本日四度目の三振だった。
初夏のトライアウトでは、シーズン途中加入を目指して全米各地でテストが行われる。ここは球速の足切りがない。ゆえに高校卒業から二年連続で参加してきた。投球と守備のテストをしたのちは、すぐに実戦。ブルペン投球では真価を発揮できない慎二にとって、アピールできる機会は実戦しかなかった。
ゲームはこれから八回裏というところで、捕手がいぶかしげな表情で慎二のもとに近づいてきた。いままでのリードとは、まるで勝手が違うからだ。
「お前、なんであれが打たれないんだ?」
「ゲイリーは内角が得意と言われていますが、じつはそうでもありません。ちゃんと変化している球なら抑えられます」
「変化って、投げたのフォーシームだろ」
「はい、ちゃんと変化していたでしょう?」
平然と口にする慎二に、捕手は押し黙る。彼にしてみれば、慎二が登板してからの二イニングは実りのない時間だった。リードには首を振られる。キャッチングでアピールしようにも球が遅い上、構えたところにしかボールが来ない。盗塁を刺そうにもランナーがいない。一次審査で守備力のアピールを終えているとは言え、上積みがないのは不安材料だった。
ゆえに、打撃での活躍が望まれた。先の二打席は強い当たりがあったものの好守備に阻まれた。ゆえにどうしても安打が欲しい。
「打順は八番からですよね、頑張ってください」
「ああ、結局野手はバットで結果残さなきゃな」
そう息巻いて、ベンチでグローブに指を通す。握りを確認する間も、しきりに十字架を切っていた。
だが、彼が打席に立つことはなかった。代打が言い渡されたのだ。彼の評価は、もう定まったということだろう。それは決していい意味ではなかった。
見込みありとされた選手には、試合中だろうが声がかかる。二打数一安打一四球のゲイリーもそのひとりだった。慎二はそれを横目に手続きを終え、通路にひとり背中を預けていた。これでトライアウト生活も二年目。スカウトの顔ぶれも見知っており、そろそろ声がかからなければ厳しくなるだろう。慎二はひと息つきながら、生ぬるい体の熱を感じていた。
「クリハラ君、ご苦労様。一個聞いてもいかな」
話しかけてきた男は、マイアミにあるメジャー球団、ネイビーズのスカウトだった。
「はい、何でしょう」
「今日のフォームはロブの真似事か?」
話しかけてきた時とは一転して、その声色は決して好意的なものではなかった。彼の言う通り、今日はネイビーズのエースをコピーしたものだ。慎二はほぼすべての投手のフォームを真似でき、変化球も再現する。
「はい。トライアウトの目玉であるゲイリー・コーコランを抑えるために、最適なフォームを用意しました。もし対戦しなくとも、他の打者にも通用するはずです」
「その猿まねでプロのバッターがだませると、これは傑作だ」
そう苦言を呈す。フォームやスピンはほぼ正確に模倣できるものの、球速だけは最速七十八マイル。ゆえに彼の投球は評価されなかった。
それに、とスカウトは続ける。
「マイナーには今のゲイリー程度はごまんといるが、君はどうするつもりかね」
「あらゆるデータから、相手の打線を丸ごと抑えられるフォームを見つけ出します」
スカウトは失笑し、肩をすくめた。
「うわ言だな。そんなその日暮らしのピッチングが続くと思うのか。いや、続けられると思うのか?」
聞き慣れたその言葉を聞くと、慎二はいつも毅然として答えてきた。
「はい。それで野球ができるのなら」
「気持ちだけでプレーできるのなら、どんな投手もサイ・ヤングだよ」
慎二の気迫を受け流し、スカウトは歩き出す。
「そうそう、ヘレナのスカウトが君を気にしていたよ。頼むから、彼に変な期待をさせないでおくれ。いつも使えない選手を取ってきては、やけ酒に付き合わされて困っているんだ」
意地の悪い笑みで手を振って去っていくスカウトから視線を切り、慎二は鞄の中の携帯に手を伸ばした。今日は迎えを頼んである。初夏の心地よい風が吹く中、慎二は自分の中の野球というものを見つめていた。
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