第172話 浅井家の姫君たち
天正十五年 春 春日山 伊藤景竜
春日山は本丸の天守。
ここから見える春の山の景色というものは中々に趣き深い。
兼続殿曰く、もう少し早い時期ならば牡丹が見事な花を咲かせているとのことだが、私にはこの片栗のひっそりとしながらも力強い紅紫も、牡丹の見事さに劣らず非常に良いものだと思う。
「景竜殿には気に入っていただけましたかな?本来でしたら、もう少し早い時期の牡丹や、遅い時期の百合などを見て頂ければ、更に春日山の美しさを誇れましたが……」
「なにをおっしゃいますか兼続殿。今回は貴方の新妻というこれ以上なく美しい花が咲き誇っているのです。野山の花々が美しく咲き誇っていたとしても、いたずらに花々からの嫉妬を買ってしまうだけでしょう」
「……景竜殿は口が上手い」
ぎゅっ!
い、痛いぞ、市よ。
これも外交的な口上だというのに。
「ほっほっほ。直江殿には私からも祝福の言葉を……浅井家の姫君をこうして迎えられたということで、本当におめでとうございます」
「ありがとうございます、奥方殿。……ほれ、初もご挨拶せい」
「……ありがとうございます。お市様」
「いえいえ、本当に若くてお美しい姫君だこと……」
ぎゅっ!
な、なぜ、また抓るのだ!
「……私などは大したものでは……それよりも、お市様のお噂にたがわぬ美貌には、この初ただただ驚くばかりでございます」
「あら……あらそう?そこまで褒められても何も出ないわよ?」
ふぅ。
初殿に褒められ、抓る力を弱めてくれたか、有難い。
そう、今日は厩橋、古河を離れて春日山に来ている。
訪問目的は、兼続殿と初殿の祝言の席へ出るためだ。
初殿は長尾家家臣となった北近江の元領主、
年齢は十八と聞いたな。
兼続殿は二十八、十違いの夫婦ということで、たいへんお似合いであろう……。
ただ、数年前に随風殿の伝手で土肥殿……だったな、彼を紹介された時には浅井家の長女と祝言を挙げると聞いていたはずだが……まぁ、武家同士の夫婦、色々とあるのであろう。よそ者が口を挟むことではないな。
「……で、お二人の馴れ初めは?確か、兼続殿は浅井家の御長女の茶々様と祝言を挙げると聞いておりましたけど?」
……
市よ……。
「あ、いや、それは……」
「え?どうして?どうして?教えてくださいまし」
兼続殿は他家の重臣であり、以前は古河で不行状もあったし、今は私とは親しく付き合っているが、色々と当家とは微妙な関係なのだが……。
信長ほどの天衣無縫っぷりというわけではありませんが……と、この兄妹はどちらも天衣をまとっていますか……。
ともあれ、このような性格ながら相手に嫌われないとは稀有な才能をも持っているものです。
今も、兼続殿も初殿も、困ってはいますが、市を嫌っている素振りは微塵もありません。
まったくもって、不思議なことです。
「妹の私が言うのもなんでしょうか……姉の茶々は心が童のまま、無垢なお人なのです。年と共にそのあたりも落ち着くかと思われましたが、生来の気質という物が有りまして……そして、代わりに妹の私が兼続様の下に……」
「あら、いやだ。意に添わぬ相手なの?」
「そ、そんなことは御座いません!兼続様は……旦那様は信じられぬほどに優しいお人です。此度の件は浅井家の一方的な非……なれど、旦那様は何も問わずに……」
……
こういう時は気配を隠して話を変える瞬間を見失わぬようにするだけですね。
とっても気まずいです。
どうして、お市は平気な顔をして話を進められるのでしょうね?
「何も言わず?!兼続様!何も言わずというのはいかがかと思います!ここは男として、初殿をどうお思いなのかをはっきりと仰らなくては!」
「えっ……いや、私は、その……茶々殿にも嫌われたから断られたのではない、と知って安心したのでそれ以上には……」
「そうではなく!初殿への想いを私は聞いているのです!」
「「へっゃ?」」
兼続殿も初殿も変な声を出してうつむいてしまったぞ?
顔を真赤にして……。
お市も四十になったというのに、いつまでも娘気分では……と、いかん!いかん!
年のことを言うと仕返しが怖いので、今しばらく私は気配を殺しておこう。
「兼続殿!?」
「……わ、私は相手が初で嬉しく思う。……初めて顔を合わせてから一年と経っていないが、その時から、寝ても覚めても私の心の中には貴方がいて、一瞬たりとも消えることは無かった。……こうして、貴方を妻に迎えることが出来て、私は果報者だ」
「……兼続様……」
二人は顔を赤らめたまま目を潤ませている……。
私は何を見せつけられているのでしょうね。
このまま二人の睦事をみせられてしまうのでしょうか?
「う、うんっ!あ~、そう言えば兼続殿は何か相談したいことがお在りと文に……」
眼を輝かせて二人の様子を眺めているお市には悪いが、私が耐えられなくなってきたので、ここで話を戻させていただきましょう。
ぎゅっ!
だから、痛いので止めなさい!
「こ!これは景竜殿には、なんともお恥ずかしいところ!!そ、そうでしたな!は、初よ!私はこれから景竜殿とじっくり話をせねばならんので、奥方殿を連れて城の庭を案内してきてはくれぬか?」
「ひゃ、ひゃい!」
二人とも声が裏返ってしまっているではないか。
なんとも初々しい……。
「ちっ!……もう少し甘酸っぱい空気を観察していたかったのに、旦那様ったら!」
……舌打ちは止めなさい。
後、私にしか聞こえないような小声で不満をいう物ではありませんよ。
天正十五年 春 秋田 奥村永富
「で、今回は行くのか?慶次郎よ」
「ああ、可愛い妹弟子達からの助力要請だからな」
「桐様からであったな?」
「ああ、そうだ」
先日に古河の桐様より慶次郎あてに文が届いた。
文が届いたその場で、慶次郎は俺に文を見せてくれたのだが……。
「しかし、伊賀や大和で腕の立つ一門を召し抱えてこいというのは……なんとも荒唐無稽に聞こえるのだが、どうなのだ?」
「俺もお主に再会する前に諸国を漫遊していた時分に見知ったのだが、あの辺りの地域にはな、それこそ小太郎殿の風魔一族と同じような生業をしている者達がおるのだ。交通の要所でありながら、無数の裏道、山道が整備されている地域というのは、表では手に入らない情報の宝庫であるらしく、その情報を売り買いする者達が暮らしておるのだ。また、大和は長年に渡って寺社勢力が支配を強めていたところだからな、それこそ寺社勢力に縁がない地侍達は鬱屈としており、任官先を探している者達も多い。やりようは幾らでも有るであろうさ」
「そうか、お主がそう言うのならば、勝算はあるのであろうな」
昔っから、こやつは勝算のない戦はしない質であったからな。
行くと決めたのなら、何らかの成功への絵図面は慶次郎の頭の中にあるのであろう。
「で、今回は新潟から古河へ向かうのであったな?」
「そうだ。なにやら新潟の湊から会津に入る阿賀野川の道がだいぶ整備されたとの話なのでな。どういった案配なのかを確かめながら、奥州に入り、塚原様と上泉様の墓前に手を合わせてこようとも思う」
そうだな……俺も秋田の開発に一区切りがついたら、お二人に挨拶に行かねばなるまい。
「それに、新たに棚倉の鹿島神宮におられる輝子様にもお会いして、一手ご教授を賜りたいところであるからな」
「まったく……」
どうにも素直になれぬ瓢戸斎だな。
己がやむなくとはいえ、本来のお役目を離れてしまったゆえに、棚倉の修練の具合が気になっているのであろうに。……気にはなるが、どうにも己の心には逆らえぬ。
なんとも面倒な男よ、こいつは。
かんかんっかんっ!
そうこうするうちに湊の三番鐘の内の一番が鳴らされる。
四半刻後に二番の鐘、半刻後に三番の鐘が打ち鳴らされ出港となる。
太郎丸様の発案によって行われている、伊藤家領内の湊を出る定期船の運航合図だ。
「そろそろ、時間のようだな。では、行くとするか」
「そうか……それでは、この二年のお前の助力に感謝を!……おかげで雄物川の上流、岩見川に造った鮭の加工場と孵化工房の目途が立った。堺の商人も紹介してくれて売り先も確保できた……工房の本格稼働からこの秋田の地が豊かになる兆しが見えれば、領民たちも周辺から戻ってこよう」
正直なところ、自罰の意味も込めての秋田城城主の志願であった。
やおら若い命を散らせてしまったとの後悔の念と、主家の姫君に危険を負わせてしまった……あのままに関東の地で「伊藤家の臣でござい!」とは出来るものではなかった。
「まったく……お前は昔からそうなんだ。考えすぎだぞ?俺と一緒に世界を動き回っていた時の方が、おまえ自身の気も楽であったろうが?……まぁ、良いさ。俺は一たび秋田を離れるが、近いうちに戻ってこよう。俺としても工房の未来は気になるし、そろそろ湊城の跡地に建てる城やら、雄物川の中流の……なんと言うたか?」
「戸賀沢か?」
「そうそう、渡河出来る沢の戸賀沢だ!そこに国境の城を造る計画もあるわけだしな……今回は古河から伏見に向かって伊賀や大和に行くことになるようだからな、精々が築城の資金を皆様よりふんだくって来るとするわ!がはっはっは!」
なんとも逞しく有難い男だな。
「……それでは、お主が土木奉行の方々と人員・資材を引き連れて戻ってくるのを待っておるとするか!……ではな、しばしの別れだ!」
「ああ、助十郎……達者でな」
俺達はどちらからというわけでもなく、お互いの右手を差し出し固く手を握った。
くっく。この握手という挨拶だが、海の向こうで教わったものではあるが、こういう場面には中々にしっくりと来るな。
太郎丸様に言わせると握手の習慣は千年以上前の明、大陸でも行われていたようだ。
我らがしっくりするのも当然か……。
天正十五年 春 伏見 浪江秀吉
ぱちぱちぱちっ。
今日も今日とて、儂は宇治川の河原で焚火をしておる。
ここ最近は、信長様や太郎丸様のなされ様を思い出し、近くの漁師から魚を買い求めたり、城から燻製肉を持ってきたりして、それを炙りながら、巨椋池の改修工事の進捗具合や後方で行われている指月城の進捗具合を視察しておる。
「むっ?藤吉郎!そろそろ燻製肉が良い塩梅なのではないかっ?!」
「……おおっ!左様ですな、鹿肉も猪肉も良い塩梅ですなぁ。して、お茶々様はどちらをご所望で?」
「それは、難問じゃ……先ほどから考えておるのじゃが一向に答えが出ぬの……で、時に藤吉郎の目の前にある、黒い粒粒がついたやつは何の肉なのじゃ?」
「こいつですか、こいつは関東は那須より届きました牛の燻製肉ですな。黒い粒は辛い胡椒でしてな、これはちとお茶々様には刺激が強いかと思いますぞ?」
「むむむっ!藤吉郎までもが私を子ども扱いするのか!納得がいかないのじゃ!……よし、此度はその大人の燻製肉を要求するぞ?!」
むぅ。
この燻製肉は嘘偽りなくかなり刺激が強いのだが……胡椒だけではなく、関東に伝手を求めに来ておるポルトガル商人どもが持って来た南の島々の香辛料がふんだんに使われているのだ。
しょうがないので、少しだけ肉を裂いて、お味見だけしてもらおうかのぉ。
しっかし、お茶々様も好奇心旺盛なお人じゃ。
お生まれになられた二十年前には、既に浅井家は北近江に盤石な体制を敷いており、それまでの朝倉家との主従的な付き合いから、対等な付き合いへと変わっておった、大身武家としての形がどうに出来ておった頃であろうに。
その姫君が牛の肉を食べたいと申すか……牛の肉何ぞ、奥州の牧場でもスペインの方々が来られてからでなければ硬くて食えたものでは無かったのだがな……。
「あつっ、あつっ!……もにゅもにゅ……ぬっ!!!か、からいのじゃぁ!!!」
ほれ言わんこっちゃない。
儂にはこの展開が見えていたので、程よく冷えているさいだーの瓶をお茶々様に手渡した。
「うんぐっ、んぐっ!……ぷっはぁ~!!けふっ。……辛くてびっくりしたぞ?これが藤吉郎の言っておった理由か……」
「左様です。この燻製肉は相当に辛いので、細かくちぎって少しずつ食べるか、ほぐして飯の上に乗せるのが最上なのです……が」
「飯の上に!!!そうじゃな!湯漬けに掛けるのも一興かも知れぬな!!!」
眼をまん丸のらんらんにして申されるお茶々様。
「……わかり申した。城の勝手番には、今日の夕餉に用意するよう伝えておきます」
「ありがとうなのだ!」
そういって、抱き着いてくるお茶々様。
……年頃の姫がはしたないですぞ?
と思ってもすぐには口に出さない……。
浅井茶々様。
当年で十九になられているのだが、このように幼い童のような言動が目立つ姫だ。
初めて出会ったのは昨年末のことじゃったのだが……今では、このように妙に懐かれておる。
れっきとした武家の姫であり、長尾家中でも力を持つ近江派の筆頭とも言われる御仁の娘。
農民上がりの儂に近づきすぎるのも良くないであろうと、大谷殿にも訪ねてみたのだが……「問題ありません」と一蹴されてしまったわい。
大谷殿のその対応も気になったので、儂の方でもちと調べてみたのだが……お茶々様は少々特殊な扱いを受けておったようじゃな。
初めは長尾家譜代重臣の家名を継いだ直江兼続殿の妻になる予定が破談。
次いで、徳川家重臣、
どちらも癇癪持ちで気性に妙なところのあるお茶々様が破談の原因……などと長尾家中では言われておるようだが……。
こうして、ご本人を見知っておる儂からすれば、そのようなことは無い。
確かに、お茶々様は余人と比べれば、落ち着きがなく、じっとしていることが出来ぬようだ。
物事に集中することも苦手で物覚えも悪く、十九にして、まるで十の童の様な振る舞いではあるが……実は自分が興味を持ったことに対する集中力と記憶力は凄まじい。
この間も河原で絵図面とにらめっこしながら、巨椋池のどこに船着き場を作り、何処を埋め立て、何処を掘るかを思案していたところ、間髪入れずに横からおっしゃられた。
「そこは川底が何尺じゃから、ここの川底を掘った土を持って来れば埋め立ては容易で、すぐに船着き場として使えるのではないか?高さもこの沼さえ埋めてしまえば平らになるので、道も作りやすかろう」
その案、儂の横におった数回で記憶した絵図面とそこに書き込まれた数字、また、報告に来る部下たちの報告内容の全てを暗記されており、そこから最適なものを導き出された……。
恐るべき才能じゃ。
この才に比べれば、多少の日常の言動など気にすることもないというのに……。
何事も旧来の武家の枠組みの中では大変、ということなのかのぉ。
この時に儂の隣で同じく唸り声を上げて、思案に耽っていた清様が間髪入れずにお茶々様を召し抱えたのには笑ったのぉ。
おかげで、その始末に儂は大わらわになってしまったわい。
とりあえずの所、お茶々様には行儀見習いという形で、清様のお付きとして伏見城に仕えることになってもらった。
大谷殿には、何度も「本当に大丈夫でしょうか?無調法という理由で長尾家と浅井家には……」などと念押しをされてしまったわい。
それだけでも、これまでのお茶々様が味わってきたご実家での境遇という物が察せられてしまうわな。
「はっはっは!お茶々様のお気持ち、この藤吉郎には有難いものではありますが、このような行動は少々お控えなされた方が宜しいかと思いますぞ?」
儂は軽くお茶々様の肩をぽんぽんっと叩き、身体を離してそう諭す。
「む?なぜじゃ?」
「何故と申されましても……お茶々様は妙齢の姫でございますからな。爺の儂相手ではそれほど奇異には映らんでしょうが、このようなことはお茶々様の将来の夫に対してのみ、一人の殿方に対して為されるがよろしいと思いますぞ?」
このような童らしい仕草も、浅井家では忌避されてきた所以なのであろうかのぉ。
ぎゅっ!
「あははは!これこれ、どうかこの藤吉郎の言うことをお聞き入れくださって……」
再度強く抱き着かれたので、儂はそう言って再度お茶々様を諭す。
「何を言うのだ?藤吉郎は?私は、藤吉郎の申す通りに将来の夫、唯一の男子に抱き着いておるだけじゃぞ?」
「……」
「んんっ?」
黙りこくってしまった儂を下から見上げるお茶々様。
いや……その、お茶々様のようにお美しい姫君にそう言っていただけるのは誉ではあるのですがな。
……なんとも、嫌に面倒で説明に困るような事態になる気しかせぬのが……。
まぁ、そうは言うても、儂の方から、もう一度お茶々様の身体を離す気には中々にならんっちゅうのも問題ではあろうがな……。
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