1.運命の少女



 今日はもう帰っていい。

 担任の教諭からそう言われて正門から学校を出ると夕闇の道を咲川章子は一人で下校していた。

 とぼとぼと帰り道を歩く足取りは重い。

 突然、起こった日蝕。突然、空に現れた惑星。

 いつもの日常だった筈の中学校生活が、一度に様変わりしてしまった今日から始まる新たな世界。

 結局、あの後、午後からの授業は授業にならず、五時限目を担当する教師も教室にやってこないまま、職員室へと様子を伺いに行った男女の委員長たちが持ち帰った担任教師からの指示は想像通りの〝自習〟という漢字の二文字だった。


 普段であれば……。

 そう、普段であれば手放しで喜ぶはずの担任教師からのこの指示を、今日に限っては喜ぶ生徒など一人もいなかった。

 ざわざわと、騒ぐことだけはやめない教室で待たされる生徒たち。それでも立ち上がらずに自習という担任からの指示に黙々と従っていたのは、この時の状況が『喜べない状況』だったからだ。


 大人たちでさえ、これからどうればいいのかも分からない未知の発生。国語の教師であればきっとこれを未曾有と呼ぶのだろう。

 万が一の事態。緊急の事態。非常事態。天災、戦災、事件に、事故に、自分や家族を襲う緊急の病。想像すれば数え切れないほどの不測の事態はそこかしこに転がっていた筈なのに。いざ、それが起こってみれば、何気なく過ごしていた「いつもの日常」とは、これほど脆いモノだったのかと痛感せずにはいられない。


〝……これからおれたち、どうなるんだろう?〟


 クラスのムードメーカーの一人が呟いた、不安を漂わせる一つの言葉。

 その言葉の問いに答えられる者など章子の教室には一人も存在しなかった。いや、答えられる者はいた。ただ、それを口に出して言える者は誰一人としていなかったのだ。

 なぜなら全ての人間が、これから起こることを分かっていたから。

 その為にクラスの全員が、ただひたすらに担任の教師が教室に戻ってくるのを待った。結論は既に一つしか存在しなかったのだから。


 咲川章子という存在。


 クラスの全員の生徒が自分に注目しているような気がした。見られていた。席に着く章子の様子を全ての生徒たちが観察してどんな些細なことも監視しているという地獄の被害妄想。

 机の上で教科書を広げて自習している素振りを見せる章子の様子を周囲の人間は疑って見ていた。


(……本当に、わたしなの?)


 下校の道を歩きながら章子は、今も信じられないまま思う。

 確かに章子はあの惑星の存在理由を知っている。そして当然、これから起こるだろうことも予知していた。あの真昼に現われて今も夕焼け空の西に浮かんでいる巨大な惑星はきっと必ず転星てんせいという名前なのだろう。さらに転星という名前の惑星が出現した今日この日の今ぐらいの時間に、この日本のどこかで学校から下校している一人の女子生徒ともう一人の男子生徒の前に、あの惑星を出現させた人物と思しきその関係者が現われるのだ。

 そして言われる。


「あなたをペアで、あの惑星にご招待しましょう」


 幻聴が聞こえた気がして、章子ははっとなり背後を振り返った。

 そんなワケがない。あれは虚構だ。

 自分に強く言い聞かせて、また正面に向き直すと歩みを進めた。一歩、二歩、三歩、そこから先はもう数えていない。歩き出せばあとは頭の中でいらないことを考えている内に自然と家に辿り着く。いつも通りの章子の我が家が。


 ……いつも通り?


 章子は、立ち止まりそうになる足を一生懸命に進めた。立ち止まってはダメだ。立ち止まってはダメだ。心の中で念仏のように唱える言葉を道行く人々は気付いていない。いますれ違ったのが咲川章子という名の少女である事も。これから一体この少女に何が待ち受けているのかも……。


 空を見上げて惑星ほしを眺めているだけの人々の無頓着さが羨ましい。道を歩く社会人も子連れの主婦も大学生も高校生も、章子がこれから辿る筈だった将来の像が章子とすれ違い章子を追い越しては視界の外に消えていく。


(これから……本当に起こるの?)


 もし、あの虚構の通りなら、章子は出会うはずだ。詳しいタイミングは忘れた。どの道で会うと言っていた?いや、書かれていたのか。それは誰かに言われたのではなく、ある作品に書かれていたのだ。


 これからの章子に訪れる運命を。


 気味が悪いことに一緒に帰ろうとする者はいなかった。章子と仲のいい三人組でさえ声をかけようとはしなかった。それをしようとすれば「何かが物音を立てて動いた」から。

 本当に音を立てて何かが動いた。

 誰かが章子と一緒に帰ろうと思い近づいて話しかけると黒板消しでも箒でも画鋲がびょうでも何でも動きそうなものはカタリと動き音を立てて落ちたのだ。

 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。

 教諭も生徒もそれを幾度も経験すると、直ぐに何も言わなくなった。それはまるで何かの警告のようにも思えた。


〝オマエたちは記録されている〟


 勝手に想像した台詞セリフに、恐怖を感じた章子の心は今も見えない不安で縛られている。章子は監視されているのだ。誰に?答えは分かりきっている気がする。足はまだ自分の意思で動かせている。それだけが今の章子の救いだった。どこか知らない場所へと勝手に歩き出したりしない今の自分の確かな足。その足がもしも勝手にひとりでに歩き出したりしたら、今の章子はもうこの世界では生きていけないだろう。

 きっと、その章子の身体を勝手に動かしている存在に全てを身に任せて自分の運命を放棄するに違いない。


 虚ろな表情をしたまま歩く章子が、歩行者信号の点滅する交差点へと差しかかった時。

 その少女を見つけた。


「……あ……」


 大通りの交差点、その角の一つに、章子が立ち止まって信号が青になるのを待ってなくてはならないその場所で、その少女は微笑んで佇んで待っていた。


「お待ちしていました」


 想像通りの声で、想像を超えた綺麗なオカッパ頭をした少女が丁寧にお辞儀をする。


「初めまして。咲川章子」


 章子と同じ制服を着た可憐な少女が、運命に選ばれし中学生の咲川章子を出迎えていた。



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