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66号線
メーデー
彼のツイートは怒りに満ちていた。
「俺たちは騙されている。国連政府のやることはまるで科学的根拠がない」
連日、こういった具合の呟きが彼のアカウントから大量発生されていた。過激な内容に対してあちこちから罵詈雑言が投げられる。それらが混じって塊となったものがタイムラインに流れてくるのを見て、私は不思議な気持ちになった。
「マスクなんかいらない。あんなものは今すぐ外すべきだ」
私たちが暮らす地球は大気汚染が進み、マスクなしでは外を歩けなくなった。マスクといっても宇宙飛行士みたいな頭からスポッと被るタイプのもので、装着するだけで外出するのが億劫になる。夏は蒸れて冬は目の前が曇るそれを私たちが手放せないのは、外せばたちまちに血を吐いて死んでしまうから。だから面倒な手間も惜しまず、私たちは首から上だけを同じような格好にして電車に乗り込む。
汚染のピークは前触れなくやってきた。30年前、ある海外アーティストのパフォーマンスが東京ドームで開催された時、悲劇は起こった。後に「血の東京」と語り継がれることになる事件だ。ステージ前方から悲鳴が巻きあがり、誰かが大量の血を吐き出しながら倒れた。悲鳴の主は返り血を浴びた女性客のものだったと知るや否や、次々とドミノ倒しがあちこちに発生し、さっきまでライトに照らされてきらびやかだった東京ドームの光景があっという間に地獄絵図と化した。その様子を、誰もがなす術なくあんぐりと口を開けて眺めているしかなかったという。彼らのひとりとして、目の前で何が起こっているのか分からなかったのだ。
昨日と特に代わり映えのしない業務を終えて、私たちはまた電車に乗り込む。国連政府が定めた時刻までに帰宅しないと目玉が飛び出そうなほど高額な罰金が科せられるため、寄り道は一切できない。
「このせいで一体、何人の飲み友達を失ってしまったことか、あーあ」
と年配の上司はお決まりのぼやきをこぼす。大気汚染は加速度的にひどくなる一方だし、被害者の吐血からまた新種の病気が発生するため、ヒトからヒトへの接触も限りなく減らさなければならない。特定の集会は禁止され、私たちはうんざりするほどの長い時間を防護材で塗り固められて要塞と化した自宅で過ごした。それでも、状況は一向によくならない。当然ながら、彼のような「人様に見てもらえてナンボ」の職業に就いている人にとって、最も難しい時代となってしまった。そして私は、生まれてからずっと誰かの前で歌うこともダンスをすることもないまま育った。
「マスクなんかいらない。あんなものは今すぐ外すべきだ」
スマートフォンを見ると、続きが投稿されていた。
「空気感染もヒトからヒトへの感染も科学的根拠はない。国連政府は何も分かっていない。考えてみてくれよ。気の遠くなるほどの年月、彼らや自称科学者たちの指示する通りにやってきて何か良くなったと思うかい?」
私は返信欄に片方の瞳から涙を流すスタンプを指でそっと押した。叫びに込められたやるせない気持ちが滲み出ている気がして、私は彼のことをぎゅっと抱きしめてあげたくなった。
彼は作ったモノをたくさんの人前で発表する仕事に就いていた。「血の東京」以前まで、彼が手がけた音楽や映画、あらゆるアイデアを世界中を旅しながら披露していた。私が彼のことを知ったのは魔法時計を使ったタイムトラベルの途中だった。贈り主の祖父は「バッドドリーム」という変わった名前の書店を経営していて、不思議なアイテムを私にくれた。魔法時計はそのひとつで、ぱっと見はだたの懐中時計だが、普通の時計みたいに短針と長針をセットすれば希望の時代に行ける。物珍しさにあちこちいじくっていると指に違和感があって、裏面をひっくり返したら「ONE LOVE」と刻んであった。
「それは、どんな困難もひっくり返せる愛の呪文だよ」
祖父は私の頭を撫でながら微笑んだ。
「覚えておくといいよ。大きくなったら魔法時計と、その呪文を使う日が来るから」
その日も私が生まれるずっと前の世界に飛んで楽しんでいた。国連政府が誕生する前の、イギリスという島国にいた。雨宿りのつもりでたまたま入ったロンドンのバーに(あんなに人がたくさん集まっているのを初めて見た)ショーをする若かりし日の彼がいた。次々と繰り出される音楽はキラキラとしててまるで魔法そのもので、居合わせた人々の顔がバラ色にぱあぁっと輝く。彼は幸せそうだった。多幸感をカタチにして人に見せるのが何よりも好きだったのだ。
驚くほどの大きな声でみんなが歌った。初めてだった。歌うことをこんなに近くに感じたのは。空気の振動を肌に感じたのは。気がつけば私は泣いていた。
終演後、カウンターでビールを飲んでいた彼に近づくと
「私はあなたが好きになりました」
と日本語でまくし立てていた。
今日は本を読んだ。メディアの衰退によって、紙に印刷された書籍はこの世からなくなって久しいが、祖父が「バッドドリーム」に残っていた小説本を何冊か持ってきてくれた。ぱらぱらと指でめくると、古くてしなびた紙の匂いがする。埃と、たくさんの人の喜怒哀楽が染み付いたこの匂いが私は好き。青いバラが表紙のこの単行本は、幼なじみだったふたりの男の子が同じ女の子に恋に落ちる物語だ。やがて彼らは彼女にキスをして去っていく。ひとりは恋人みたいな口づけを、もうひとりは限りなくくちびるの近いところに親愛の証として。私たちがキスなんかしたらマスクがぶつかるだけで、こんな風には様にならないだろうな、と独りごちた。
「想像するだけ無駄」
やれやれと私は本を放り投げてベッドに寝転ぶと、いつしか眠ってしまった。
森でたくさんの動物が火の回りをダンスしていた。クマ、子ブタ、ふくろう、ネコ、サル、キツネ、ウサギ。ぴょんぴょんと飛び跳ねながら一方通行にぐるぐる回っていた。全員が同じ歌を歌っている。日本語だか英語だか分からない歌詞だ。よく見るとそばでカンガルーがピアノを弾いていた。
「そんなところに突っ立ってないで、キミもボクたちの輪に入りなよ」
とクマがこちらに話しかけてきて、ふと自分を見るとシマシマのトラになっていることに気がついた。これは好都合と群の中に飛び込み、大声で歌を歌った。全然聞いたことない歌で、日本語だか英語だか分からないでたらめな歌詞を、これでもかと歌った。うまく聞こえる歌い方なんて知らないし、楽しめればそんなことどうでもいいと思った。彼らは「いいぞもっとやれ」と両手を叩いて私をけしかけた。うんざりするほど聞き飽きた、世界公用語の国連語を話すヤツはここにはいなかった。みんな大爆笑しながらぐるぐるしている。いつの間にか持っていた太鼓を私は思いっきり叩いた。こんなに楽しいことがこの世にあるのかと思った。夢の中でも魔法時計が使えたら、時間を巻き戻してずっと歌っていられるのに。
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