part.4

「ワォ!どうしたんだよ朝からご馳走じゃねえか!」


八神の目の前に出されたのはいつもコーヒーを飲んでいる大きなマグカップなのだが、今日はコーヒーが入っているわけでは無く、黄色くふるふると振るえる茶碗蒸しが湯気を立てていたのである。

この家には蒸し器と言うものがなく、電子レンジでは二人の好物である茶碗蒸しを上手に作れた試しが無かったのだ。

そこで客から聞いたこのフライパンに水を張って作る茶碗蒸しを試したところ、はまあまあ上手くいくのだった。

何より買ってきた茶碗蒸しよりたっぷり食べれるのは魅力的だ。


「どう言う風の吹き回しだ?この前は火加減がどうのと却下してたじゃねえか?」


いそいそとスプーンを握り締めた八神が早く座れと秋山を急かしていた。

邪険にした罪滅ぼしだとも、胃袋を掴む作戦だとも言えず、秋山は曖昧な笑みを浮かべて着座した。


「熱いですからね。慌てて食べるとこの前みたいに舌を火傷しま、」

「あっっち!!」

「言ってるそばから!大丈夫ですか、はい!水っ!」

「うをぉぉ!死ぬかと思った」

「アッハッハ!そんな事で死んでたら八神さん何回死んでますかね」

「うるせえ…」


それでも美味しそうに食べる八神を眺めていると、この所の憂さが晴れて行く気がする秋山だった。

このまま心のモヤモヤは萎んでいく筈だ。心の何処かでそう思っていた。





「ちょっと、先生!知ってる?」


開口一番、この日店に入ってくるなりそう言ったのは、お馴染みのマダムだ。このとろ店に来ても八神に会えない不満が溜まっていたのだろか、今日の彼女は愚痴る気満々、あるいはチクる気満々で殺気立ち、気圧された秋山は無意識に数歩後ずさった。


「い、いらっしゃいませ。……どうなさったんですか?」

「ちょっと、聞いてよ!八神ちゃんねえ、女がいるのよ!女が!」

「はあ、女、ですか?」


秋山には随分と唐突で降って湧いた様な話だ。なんのリアリティも無く相槌を入れているだけだ。


「私見たのよ、小綺麗な女とルノアールでお茶してたわ。あれは間違いないわね、八神ちゃんの女だわ。なんだか深刻そうな顔してたわよ」


確信を持って話てはいるが、マダムは多方ヤキモチも入ってはいるのだろうし、以前勤めていたホストクラブの客って事だってあり得る。

一概に八神に女が出来たとは全く思えない秋山だった。

だがこの日、実に三人もの客から同じ様な目撃談を聞かされたのだ。しかも彼女達の情報によると、人相風態がバラバラで、どうやら全て違う女性らしかった。

八神に何かが起こっている事は間違いない様だった。


八神は余分な金を持っていない。

とするならば、彼の行動範囲はこの繁華街に留まっている筈だ。

流石の秋山も気になって、客の居なくなったタイミングを見計らい、夕食をコンビニで買うついでに八神の立ち寄りそうな所を探索して見ることにしたのだ。


パチンコ屋。馴染みの飲み屋。銭湯やサウナ。コインランドリー。ルノアール。流石に風俗には行かないにしても、いや有り得るかと思いつつも、狭い繁華街、直ぐに捕まると思っていたのだが目算が外れた。いったい八神は何処で何をしているのか。

とうとう繁華街のどん詰まりまで来た時、漸くそこに八神の姿を見つけたのだ。

『コルボノアール』。浅田の経営するバーの前だった。

そのドアを開けてちょうど中へと入っていこうとする八神。


「八神さん!」


秋山は咄嗟に声をかけたが運悪く目の前を酒屋の配達の車が横切った。

恐らく八神を呼んだその声は届かなかったのだろう。八神はそのまま店のドアへと吸い込まれて行ったのだった。

臆病で引っ込み思案な秋山には、そこへ踏み込んでいく勇気が出ない。

八神だって立派な大人の男だ。彼の一日の行動を自分があれこれと指図なんて出来ないなどと遠慮がちに考えてしまうのだ。

ましてやもしも扉の向こうでいいムードの二人を見てしまったらと思うと怖くて中が覗けない。

恐らくこれが秋山の一番の本音なのだ。

複雑な胸中で見上げた夜空には、赤く大く熟れた満月がケバケバしい繁華街の夜空からじっと重たく秋山を見下ろしていた。



その日からだ。秋山の作るブランチが俄然手の込んだ物になって行った。

手作りのミートソーススパゲティ、海老のチリソース、手作りコロッケ、クラムチャウダー、炊き込みご飯。

八神の好きなものばかり。

当然八神は喜んだ。そしてモリモリ食べた。

だが八神が帰って来るどころかますますコルボノアールに入り浸るようになって行ったのだった。

そしてある朝、肉じゃがを作っていた秋山は突然、無力感と脱力感に襲われ膝から崩れた。


「先生?…どうしたんだ先生?」


駆け寄って来た八神に抱き起こされたが、身体に力が入らない。


「こりゃいかん、熱が高いぞ。大丈夫か先生、先生!」

「八神さん…行かないで…」


弱々しく掠れ声であったが、やっと本当に、やっと行くなと言えたのに、そこからの意識があやふやだった。

医者に担ぎ込まれたことも八神に着替えさせられたことも、何処か遠い出来事のようにふわふわとした感覚だった。

そう、その日折れたのは心だけではなく本当に身体も折れたのだ。

連日の忙しさと心労と、恐らく風邪とで四十度近い発熱だった。

考えてみるとこの所疲れが抜け無かったのは、体調を崩していたせいだったのか。

それでも救いだったのは、八神が献身的につきっきりで看病してくれたことだ。

取り敢えず秋山は身を持って八神を繋ぎ止めた結果になったのだが、世間はそう甘い物ではない。

もしそんな物なら、痴情の絡れだとか人情沙汰などこの世に存在しないだろう。





ベキベキベキっ!!


この日病み上がりの秋山は、飲み干したペットボトルを勢い良く握りつぶした。




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