第3話 開店まで
やってきたのは60歳近い小柄な男と、私と同年代の女性のデザイナーで、私たちは借りた店舗の隣の喫茶店に入り、内装の打ち合わせを始めた。妻も一緒だった。
「でどんな感じを考えていらっしるんですか?」
内装業の男は、店の雰囲気について私に尋ねる。
「はあ、あの、そうですねえ・・・」
私は、よく考えてみると、実は、まだ何も考えていなかった。店の作りも、雰囲気も、まだどうしたものか何のアイデアも持っていなかったのだ。何というのんびり屋だろう。
「まあ、大体の雰囲気と、絨毯を置く台の位置、それに看板のイメージなどがありましたらですね、お聞かせいただけますか?」
という男の問いに、
「はあ、えーっとですね、店の雰囲気は、何というか、こう、そうですね、つまり、何ですね、その」
男は困った顔をしていた。そして、
「店の名前はなんというのですか?」
「はあ、えーっと、ですね、えーっ・・・」
私は未だに店の名前も決めることが出来ずにいたのだった。
即座に、主に中国製品を扱うというのに、大学の時第2外国語で選択したスペイン語の単語ばかりが脳裏を去来した。
VOLVER BOCADILLO VINO・・・
と、ふと、あるダジャレを思い出し、その単語が口をついて出た。
「ティエンダ、そう、店の名前はティエンダというのにしようと思います」
「ティエンダ?」
「ティエンダ・・・」
妻も、内装屋の2人も、一瞬噛み締めるようにその名前を繰り返した。
「ティエンダ・・・どういう意味なんですか?」
デザイナーの女性が私に尋ねた。
「いや、ちょっとね、スペイン語なんだけど、『お店』という意味なんですけど」
「なかなかいい響きじゃない」
妻が言った。私は急に嬉しくなった。
「輸入雑貨店らしい感じはするわね。あなたも案外、センスあるじゃない」
妻の助け船に私は急に勇気を得て、そしてここぞとばかりに場を盛り上げようと、思い出したダジャレを言ってみた。
「おいお前、あんまり褒めるなよ。何言っティエンダ、なんちゃってね」
妻の表情が一瞬こわばり、3人の間には凍りついたような空気が走った。
私は、うわーっ、しまった、と思い、うろたえそうになったのだが、と、間一髪、
「あっはっはっは」
と妻がヤケクソになって大笑いし、すると、
「は、は、あははは」
とあとの2人も引きつりながらも笑ってくれ、何とかそれで、店の名前は決定することになった。
そしてそんな具合に思いつくまま話を進めるうち、看板はアイボリーの下地にワインカラーで“TIENDA”と書くことになり、店の前面全体をガラス張りにして陽光を取り入れ、店の名前に合わせて、南スペインのアンダルシア地方の家屋をイメージした、一面白壁の店内にすることになった。
そして更に細かいことを詰めていくうち、
「しかし、段通、というのですか、その絨毯だけじゃどうにもならんでしょう。小物や置き物、カジュアルウェアなんかは置かないんですか?」
と男が聞いた。私は、
「も、もちろん置きます。ですからその棚をですね・・・」
などと話しながら売ることに決まってしまい、また、
「じゃあそうした雑貨類は、やはり馬喰町で仕入れられるんですか?」
と男が言うので、
「そ、そうです、ば、馬喰町です」
といかにも知ったように応じて私は初めてその問屋街の名前を知ったのだった。
こんなぐあいにまるで行き当たりばったりだった。この時の話がなければ、私は平気で
張さんが送ってくるものだけ店に積んで、ボケーっとレジに座っていたのではないかと秘かに思うのだった。
そして、最後に見積もりの話になり、男が言うには、ざっくり見積もって300万前後でできるのではないか、と言うのだった。
「300万ですか・・・」
私はそう反復しながら内心段々憂鬱になってきた。私のような計画性のない男に、300万円ポンと出す余裕などあるはずないのだった。
「それでは、なるべく早く正式な見積もりをお送りいたしますので。あっ、ここはいいですよ。どうぞ、気になさらないで。私が払っておきますから」
男はそう言って、デザイナーの女性と帰って行った。
妻も何となく暗い顔をしていたのだが、私は300万と言われながら、たかだか300円のコーヒーをご馳走になったくらいで、何だかもうこの業者に頼まなければいけないような気がしてきて、帰る道すがら、妻と2人肩を並べながら、ポツリとつぶやいたのだった。
「どうしよう。急に300万といわれてもなあ」
「でも、もう店借りちゃったんでしょう?」
「うん」
「もうかるんでしよう?」
「えへへ」
「えへへじゃないわよ。しっかりしてよ。私たちの将来がかかってるんだから」
「そりゃ、儲かるのは儲かると思うんだけど。ただ、たくさん儲かるか、少し儲かるかは・・・」
「少しでも、とりあえず生活がちゃんとできれば、最初から欲出さなくていいのよ」
この妻の言葉に、“ああ、生活していかなければいけないんだ”というプレッシャーが改めて押し寄せてきて、いよいよ落ち込みそうになる。
今度も私は考えが浅すぎたということはないだろうか?
店の賃貸契約を解消して、小さくてもいいからどこかの会社に勤めた方がいいのではないだろうか。そう心が揺らいだ時、妻が、
「いいわ、私も貯金全部出すから、2人で乗り越えましょう。せっかくのチャンスだもん。がんばってよ!」
そうして背中をポンと叩かれて、ありやーっ、とうとう後戻りができなくなってしまった、というか、妻にそこまで言わせて、やっぱりやめるとは言えないので、あ、じゃあ、どうもありがとう、えへへ、ということになったのだった。
時はバブル時代の末期だった。人々は、その後にやって来る長い不況の時代など、想像もしていなかった。
(つづく)
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