第8話 (4-2) 全裸男の正体

 エレベーター機械室まで昇ってきた理紗は、屋上の様子を窺うためにをゆっくりと鉄扉を開いた。しかし新月の田舎町の夜は、目の前に漆黒のカーテンが降ろされたような闇夜で、何も見えない。


 若者らの一連の行動から、屋上に何者かが居るのは間違いないと判断した理紗は、いきなり屋上へ出ることを避けて、一眼レフカメラを鉄扉の隙間から突き出し、シャッターを押した。


 カメラの再生ボタンを押すと、血塗れの般若のような形相をした薄汚い男がうつ伏せに横たわっていた。その画像だけを見れば、怪談話に出てくるような地縛霊か浮遊霊そのものだった。


 しかし、先程聞こえた「うおっ」という男性の嘆声は、この世に存在する生々しい声調だったことから、霊ではなくて生身の人間だと瞬時に察することができた。


 プライベートで一般的な女子的行動中の理紗だったら、ふつうに「キャーッ」と金切り声で叫んでいたかもしれないが、記者として活動中の理紗は、周囲で起こった出来事を客観的かつ理系的に捉えることが身についている。


(浮浪者殴打事件として記事にできるかもしれない)

 そう判断した理紗は、浮浪者と思しき男から事情を聴こうと、さらに鉄扉を開いて屋上に足を踏み入れた。スマホのライトで周囲を照らすと、既視感のある避雷針と貯水タンクが目に入ってきた。


(全裸男だ!)

 昨日夕方の豪雨の中、ビルの屋上で狂喜乱舞して踊っていた男と、若者らに殴打されたこの男の存在が同一人物であることがリンクした。


 理紗は、浮浪者になった経緯、屋上に住みついた理由、殴打された理由を聞こうと、男に歩み寄った。取材だけでなく、場合によっては刑事事件として警察に通報する必要もある。


 スマホのライトを男に向けた理紗は、横たわって苦悶の表情の男に声を掛けようと、男の前に屈みこんだその時、いきなり男が手を振りかざしてスマホを叩打してきた。


 一瞬の出来事に理紗は、短い悲鳴を上げた。

 相手が女性だと気づいた男は、「ごめん」と短いが詫びを入れてきた。 


 床に落ちたスマホのライトが消えた暗闇の中、素性の判らない怪しい男が目の前にいるわけだが、男が発した言葉のもつ純樸で優しいイントネーションからは身の危険を感じることはなかった。


 床からスマホを拾い上げた理紗は、再びライトを点灯しようと画面をタップした……が、ガラスが割れてタッチパネルが反応しない。


「壊れましたか?」

 男が申し訳なさそうに訊いてきた。

「スマホは修理すれば直りますが、あなたのケガは大丈夫ですか?」

 理紗は男のケガを心配した。


 理紗は、一覧レフカメラの液晶画面をオンにして、男が負ったケガの部分を照らすと、右の眉毛の上に二針分ほどの切り傷があった。男の顔面に相手のグーパンチがキマッた時、男の皮膚に割創を与えたのだろう。傷は深くはないが切れた皮膚からの流血はなかなか止まりそうもなかった。


 理紗は、ハンカチを取り出して、

「どうぞ、使ってください」

 と、男の創傷部分に当てがった。


 恐縮した男は、自身でハンカチを抑えながら、

「スマホを壊してしまって申し訳ありません。でも、ぼくには弁償するお金が一円もないのです」

 と、弱々しい声で恐縮した。


 男の話しぶりと雰囲気から判断して、

(止むに止まれず浮浪者になってしまったのだろう)

 と推察した理紗は、自身が新聞記者であることを告げて、男に身の上を訊ねた。


 男――圭太は、共同経営者の背信と借金苦そして心身症による労苦を語った。それを聴いた理紗は、圭太よりもひと回りも若くて人生経験は浅いものの、新聞記者経験から学んだ社会福祉システムについての知識はある。


 圭太の負った心身症……心の風邪は、未来への希望があれば完治できるはず。借金の相談は、NPOの無料相談センターで解決法を探る術がもあるし、今後の生活については、全日新聞の販売店での住込み仕事だってある。


 理紗は、圭太に民事再生の奨めと今後の働き口への斡旋など、人生をリセットしてからの未来への歩み方を提言した。


「人生を再起動か」圭太は呟いた。

「場合によっては自己破産して、一からやり直す方法――シャットダウンしてからの新規で起動する方法もあるわ」

「その方法を紹介してもらおうかな」

「それじゃあ、ここから出て、とりあえず私の支局へ行きましょう。着替えも何とか用立てるわ」

「それは無理だな」

「どういうこと?」

「出られないんだよ、ここからは」

「え?」

「屋上側からは鉄扉が開かない。ホテルのドアロックと同じ構造なんだ」

「じゃあ、電話して誰かを……って、スマホは壊れちゃったし、どうしよう?」

「朝になると人通りも多くなるから、上から『助けてーー!』と叫ぶしかないな」


 朝五時、日の出。

 濃紺の空がオレンジ色に染まり、街が始動し始める様子が屋上から窺える。理紗は、ビルの下を通過する人が現れるのを待った。



 程なく、屋上から三百メートルほど離れたところで、自転車を漕ぐ男性の姿が視界に入ってきた。自転車のカゴと荷台に、たくさんの新聞を積んでいる。


 一眼レフカメラのレンズを望遠に替えた理紗は、新聞配達員に焦点を当てた。ファインダーに収まった顔には見覚えがあった。理紗が下越支局に着任して早々に挨拶に行った全日新聞下越販売店の店長だった。


 理紗は、店長に向けてカメラのフラッシュを炊いた。三度目のフラッシュで、何事かと気づいてくれた店長が、屋上方向に目を向けてくれた。


「店長――!」

 大声で叫んだ理紗は、両手を掲げて大きく手を振った。





(つづく)

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