第1話 君の選択、僕の選択(前編)

 西暦2024年 5月7日 12時24分 トウキョウ圏ネリマ市


 5月の昼休みの教室は、連休明けのどこか気の抜けた空気が流れていた。

 高等部一年二組の教室の座席は、今は三分の一程度しか埋まっていない。いない生徒たちは皆各々、学生食堂や部活棟、校庭で昼食を摂っているのだろう。壇上に吊り下げられた大型液晶パネルから、国営放送の今日の特種生物災害予報が流れている。


 本日は畢宿五、アルデバランの力が弱まります。夜間の外出は極力控えてください。特に港湾地域、沿岸部にお住いの方は……


 高等部に進んで一ヶ月。周りを見渡してみても、御幡みはたケイの知らない顔はほとんどなかった。当たり前だ。通っているのはトウキョウ圏立"い区"一般高等学校、中高一貫の公立一般校で、よほどの事情がない限り同じ顔ぶれのまま高等部に進級できる。かつては高等部、高等学校に進むには試験があったというけれど。

「受験、だっけか」

 ケイは窓際の席で一人、弁当の肉団子を頬張りながら、父の昔話を思い出す。大海嘯の起きる前、今から30年前は、高等部はおろか中等部小等部、果ては幼稚園にまで試験があったらしい。子どもたちは皆、学力や将来の志望に合わせて学校を選び、試験を受け、その合否に時に喜び、時に落胆し、未来への道を歩んでいたという。

 今は昔、の話である。

「なんやケーやん。毎度のことやが旨そな弁当やのー」

 ケイが聞き慣れた声に顔を上げると、クラスメイトのタケヤが購買のメンチカツサンドとメロンパンを持って立っていた。彼はそのままケイの隣の空いた座席に座ると、パンを机に置いて、いただきますとばかりに音を立てて手を合わせる。

「昨日の店の残り物だよ」

 肉団子と白米を飲み込んで言うと、ケイは中等部の頃からの付き合いになる友人を見た。ケイよりも10センチほど高い身長に、黒髪はハリネズミのようにツンツンに尖っている。顔と詰襟から覗く肌はよく日に焼けた褐色だ。家業を手伝っているのを、市場で目にすることも多かった。

 ふと、ケイは訊いてみたくなった。

「タケヤはさ、市場に勤めるの?」

「まあ、そうなるかのー」ほんの一瞬の間の後に、タケヤは答えると訊き返した。「ケーやんはあれか、やっぱり食堂継ぐんか?」

「そう、なるかなあ」ケイもタケヤと同じように、ほんの一瞬だけ間を置いて、答えた。「嫌いじゃないしね、料理も配達も」

「ええやんええやん。ケーやんのメシ旨いし。嫁さんのあても心配ないんや、将来安泰やろ?」

 にやにやと目を細める友人に、ケイはうざ絡みのエサを与えてしまったことを知った。しまったと思っても、もう遅い。

「何度も言ってるけど、メイハ……あの二人は妹みたいなもんだよ」

「お、メーやんのこと先に言いよったな?」

 タケヤとの会話に、教室がわずかに静かになる。主に男子が耳をそばだてたのだ。メイハ、玖成くなりメイハは隣の三組の女子生徒だ。幼い頃から彼女を知るケイが見ても、美少女ではあると思う。昔はもっと小さくて小汚くてやせぎすで男子みたいだったのに。

 彼女との関係は、ケイが説明に最も苦慮することの一つだ。彼女とその妹のアヤハとは九歳の頃に出会って、それから中等部に上がるまで一緒に暮らして、今は別棟に暮らすものの朝夕の食事は一緒で。でも血のつながりは全くない。幸い仲は悪くない、のだと思う。

「二人とも僕なんかより優秀だからなあ。案外、今からでもキョウトの都立学校とか行けるかもしれない」

 ケイが言うと、タケヤはそれはないないとばかりに右手をひらひら振って見せた。

「あーそれはないやろ。今の時点でワイやケーやんみたいんな汎人の通う一般の圏立校におるんやし」

 この時代、その生まれ方の違いで人はおおよそ二種に分かたれた。胎児の時点で親の希望を受けた遺伝子調整処置を施され、遺伝子調整者として生まれる者がいる。その一方で、何の処置もなく生まれる普通の人間、汎人がいる。能力、体格、容姿、すべての面で、設計形質を発現させた遺伝子調整者は汎人を超える。優秀な形質を発現した子どもは、ニホン国家の特別保護対象となり、国の未来を担う人材として特別に予算を割かれて育成される。彼らが通う教育機関が、都立学校と呼ばれるものだった。建前上、その対象に遺伝子調整者と汎人の区別はないことになっていたが、純粋に能力のみで測られるため、実質的にほぼ遺伝子調整者のみが入学する教育機関となっている。

「いやでもさ、もっと良い場所が、もっと才能とか生かせる場所があるならさ……」

「行くわけないだろ。そんなモノ」

 言い募るケイを遮って、不機嫌な少女の声が降ってきた。

 ケイが声の主を見上げると、呆れかえった青い瞳と目が合った。メイハだ。ブレザーに赤のタイは高等部女子を、襟の一葉のバッヂは一年生を表す。純粋なニホン人のはずだけれど、切れ長の濃茶の瞳には青が混じり、光の角度によっては完全な青にも見える。ウルフショートの黒髪に、今や170センチを超えた彼女の身長――本人は168センチだと言い張るが――と彫の深めな美貌が相俟って、その容姿は異性も同性も惹きつけた。中等部時代、ケイが同輩先輩後輩から紹介してくれと頼まれたことも一度や二度ではない。

「そんなことより、ケイ、今日の店の手伝いを代わってくれないか?」

 メイハの頼みに、ケイは珍しいな、と思った。見方によっては居候でもあるためか、彼女は御幡家の家業の食堂を手伝ってくれる。時給換算されて小遣いが増えるので実質バイトであり、けっこう喜んでやってくれていたと思う。

「どうしてさ? 今日は僕、休みのつもりだったんだけど」

「あー……」メイハは耳をすませる教室の男子陣を一瞥すると、少し居心地が悪そうに言葉を続けた。「放課後、二年の男に呼び出されててな」

 あーなるほど、と今度はケイが言う番だった。メイハは見た目は高身長美少女なので、付き合えたらいいなと思う男子がまま出てくる。気に入った男の子がいれば付き合うのもありなんじゃない、今のうちだけよ、などとケイの姉のシグネは言うのだが。当の本人にその気は全くないらしく。

「放って帰りたいところなんだが、ああいうのは変に期待を持たせると面倒になるからな。きっちり断ってくるさ」

「しょうがないね」ケイは溜息をつく。「今日の手伝いは僕がやるよ」

「ワタシの借り一つってことにしておいてくれ。アヤハの迎えはワタシが行くよ」言うなり、メイハはひょいっとケイの弁当箱から肉団子を一つつまむと、自分の口に放り込んだ。「ン、なかなかいい出来だな。ケイならいい嫁になれるさ」

「メイハの弁当にも同じの入れたじゃないか」ケイは減ったおかずに憮然と言った。嫁になれる発言は気にせんのかいとか、あの二人距離感、近い近くない?とか周囲から聞こえた気がしたが無視した。「貸し二つだ」

「変なこと口走ってた罰さ」メイハは白く長い指に付いたソースを舐めとると、教室出口に向かって身を翻す。その瞬間、小さく吐息を漏らすように、ぽつりと。「ここより良い場所なんて、ない」

 教室に戻る喧騒の中、そんな言葉が聞こえたような。




* * * * *




 雲一つない晴天の下、SWAS(Salem Witch Air Sirvice)の護衛飛箒艇が空へと浮上した。そのハリエニシダの尾を生やした船体を追うように、貨物機が滑走路を飛び立つ。

 新イタミ空港のタラップを降りる23名の一行を、12騎の甲種方術甲冑が出迎えた。

 儀仗としての槍を、全高5メートルの鎧武者たちが一糸乱れぬ連携で縦横に振るう。滑らか且つ重厚なその様は、騎手の高い能力と練度を伺わせる。異国の使者に対する示威的側面もあるのだろう。我らはこの島国ヒノモトの守護者。外つ国とつくにの者に引けは取らぬ、と。

 ニホンの新鋭騎種、確かショウキタイプだったかしら。フィオナは右手を挙げて返礼しながら一行の先頭を行く。上から横から光る報道カメラのレンズも意識に入れつつ、笑顔を振りまき友好を示す。これも仕事だ。己の容姿が、周囲に与える影響など知り尽くしている。この身はハイランドの地精シー。ブリテン島のミスティックレイス。編み込みアップにした黄金色の髪と、そこから覗く笹穂のような長く尖った耳。人の造形では届かぬ美しく整った面立ちに、大きな虹色のアースアイ。近現代の文芸を発端に、各種ゲームやアニメーションといったコンテンツ文化の中で持て囃された妖精種族、エルフの姿そのものなのだ。コンテンツ文化の中心とも言える国だったニホンにおいては、その姿を見せるだけでもポジティブなイメージを期待できる。これから臨む会合において、笑顔一つで好意的な反応が得られるなら安いものだ。予想される危機を乗り越えるために、最低でもこのニホンと、USAの協力だけは取り付けたい。

 21年前、ブリタニア連合王国とニホン国の間で結ばれた特種生物災害情報保護協定。この協定に基づいて、情報と課題の共有のため年一回開催される神秘の種族(ミスティックレイス)を含めた会合。それが、今日よりニホンの首都キョウトで5日間の予定で行われる。

 この会合は両国間の友好PRと社会不安の払拭のため、大々的に報道された。

 フィオナは、会合に参加するメンバーの様子を見ようと振り返る。その成員のほとんどが、ブリタニア連合王国対伝承害獣機関(Anti Legendary Beasts Organisation)"アルビオン"のメンバーだ。まず戦術情報の交換を担当する武官ら。彼らは星辰装甲の騎手でもあり、この使節団の警護も兼ねる。次に特種生物、通称"界獣"の研究者たち、占星学者、通訳その他の担当者、そしてミスティックレイスたちが続く。ミスティックレイスは往々にして母国を遠く離れることを好まず、今回同行したのはフィオナ自身を除けば二名のみだ。フィオナより頭二つ分ほど背が低いが、横幅が倍はある髭面は、星辰装甲開発者の一人、コーンウォールの鉱工妖精ノッカークレイノン。そしてもう一人、同じく星辰装甲開発者にして〈湖の貴婦人フェイ〉ウルスラ……が、いなかった。

 強張りかけた顔を、フィオナは咄嗟に笑顔の仮面で覆う。専用旅客機を出るまでいたはずの、赤毛の小娘が列にない。列の最後尾を歩む黒ひげ蓬髪のノッカーと目が合う。その灰色の目が、軽く上を向いて差し出された両手のひらが言っていた。オレは仔熊の嬢ちゃんの行方なんざ知らねぇよ、と。

 これだからカムリの連中は……喉元まで出かかる言葉を飲み込みながら、フィオナは捜索に割ける人員について頭を巡らせ始めた。




* * * * *




 自動改札を跳び越えて、まばらな人の合間を縫って、新幹線のホームを駆け抜ける。閉まる間際の車両の表示は"TO TOKYO"。ウルスラはダイブするように車両に乗り込むと、姿隠しの魔法を解いた。

「ふぅ……」

 間一髪だった、と大きく安堵の息をつく。姿隠しの魔法は、かなり高度な集中力を必要とする。ウルスラは飛行場から新オオサカ駅まで、水上バスに隠れ潜んだ40分ほどの間、全力疾走を続けたかのような疲労感に襲われていた。

 ルーンドが指輪を貸してくれれば、もっと楽ができたのに。でもまあこれで、当分は時間を稼げる。汗をブラウスの袖で拭いながら、ウルスラは一人笑みを浮かべた。袖で汗を拭うなんてはしたない、と叱る姉さまは遠い海の向こうの結界の中だ。


 いずれ追手はかかるだろうけど、それまでに見ておきたい場所がある。望みは薄いけれど、見つけたいものもある。


 ウルスラは自身の服を軽く撫ぜ、その構造を変化させた。湖の貴婦人とも称される彼女にとって、装いの魔法はお手の物だ。スーツとブラウスを白いパーカーとデニムパンツに、パンプスをスニーカーに変える。フードをかぶって尖った耳を隠す。ミスティックレイスが素の姿のままでいれば、目立って仕方がない。

 空調の効いた車両内に入ると、幸いなことに座席は三分の一程度しか埋まっていなかった。ウルスラは適当な窓際の空席に座ると、流れる風景に目を遣る。初めて訪れる異国の風景なのに、どこか既視感が拭えない。駅周辺のビル群は立派なものだが、車両が都市部から離れるに従って目に見える人の構造物は減ってゆき、アスファルトの大地と行き交う人々は見えなくなった。今はもう、見える建築物と言えば、海原から覗く僅かなビルの上層だけ。動いて見えるのは、そこに住まう海鳥だけ。晴れか曇りがちかの違いを除けば、ウルスラが見慣れた今のロンディニウムと同じ風景だ。


 今から30年前、人類にとっては何の前触れもなく、地球規模の海面上昇現象が発生した。後に"大海嘯"と称されるこの現象によって、世界の主要沿岸都市のことごとくが海の底に沈んだ。国土の半分はおろか、全土が海に消えた国もある。更にはこの混乱に乗じたかのように現れた敵性体、人を殺し、喰らう生物らしきものが人類を追いつめた。体長4メートルから大きいもので30メートルにも達するこの敵性体は、あるものは鰭を持ち海から群れを成して現れ、またあるものは翼膜を持ち空から現れた。この敵を前に、銃火器を中心とする近現代の兵器は用を為さなかった。炸薬や電磁気で発射された弾体は、その巨体と接触する前にその運動エネルギーを失った。また爆発物は、核でさえもその熱を無くした。この世界の物理法則が通じず、またどんな近縁種の存在も不明な未知の存在。いつの頃からか、それらは異世界・異次元から来たものだとする説が多勢を占め、やがて"異世界より来たる害獣"、通称"界獣"と呼ばれるようになった。

 この不条理と理不尽の化身たる敵を前に、人類は為す術もなく半減。絶滅を待つだけの、哀れな生態的下位者となるかに見えた。

 それを救ったのは、世界の人類誰しもが、予想だにしえなかった存在たち。妖精や妖怪、半神として神話や伝説、おとぎ話に語られてきたものたちだった。歴史の霧の果てから帰還した彼ら"神秘の種族ミスティックレイス"が人類に伝えたのは、星々の運行を読み取る知識と、その力の流れを借り受ける術。占星術、宿曜道などと呼ばれ、かつては人類も有していたはずの知識と技術だった。

 当初、人類側の誰もが疑い一笑に付した。そんな迷信の産物で、あの不条理を打倒できるのかと。

 しかしそんな迷信の産物は、条理を外れた怪物を打倒して見せた。

 "星辰装甲(Astoro Armor)"と名付けられた、迷信の産物。人が乗り込み操る、全高4.5メートルほどの人型武装祭器。その形状は、過ぎし時代に、剣と鎧で武装した戦士たちの姿を模していた。ミスティックレイスより譲渡された試作騎が振るう剣は、それまで人類が触れることも叶わなかった敵を斬り裂いた。繰り出される鎚鉾は敵を貫き、打ち砕いた。

 その時より、疑念と嘲弄は歓迎と友好に変わり、人類とミスティックレイスの反転攻勢が開始された。


「あの時の手のひら返しっぷりは、もう呆れを通り越して笑えたよなあ」当時のブリタニアの民を思い出して、ウルスラは一人ごち、苦笑する。「手首にモーターでも仕込んでるのかっての」

 コスプレ集団かカルト教団かと書き立て煽っていたマスメディアが、揃って『妖精と人間の共存するかつてのブリタニアを取り戻そう』とか書き出すのだからもう笑うしかない。

 しかしその一方で、未だミスティックレイスに疑念を抱く人々も少なくはない。ウルスラは飛行場を出る際に見た、デモ隊と思しきニホン人たちを思い出す。彼らの掲げる横断幕やプラカードに書かれた文字は、ブリタニア語とニホン語の両方で『ミスティックレイスこそが、大海嘯を引き起こし界獣をこの世界に呼び込んだのだ!』だの『界獣はガイアの意志だ。地球生命の均衡のために、人類は裁きを受けねばならない』だの書き殴られていた。

 主張が色々矛盾していることに気づいているのかいないのか。まあ、いないんだろうなとウルスラは思う。大方、今の世界に不満を持つ愚物を、騒乱を望む者が煽っているのだろう。ブリタニアにもそんな連中が山といる。有象無象の組織で、アジ演説をぶったりテロを起こしたり。新聞雑誌の紙面は、毎日そんな事件の記事でいっぱいだ。いつの時代も、ジャーナリストは飯の種に事欠かない。

「いつの世も何処の国でも、吟唱詩人どもってやつは厄介なもんだよねぇ」

 溜息混じりに呟くと、ウルスラはパーカーの懐からタブレットを取り出した。エーテルリンクをオンにしてニホン地図を呼び出し、目的地と経路を設定しチェックする。封鎖地区の多い新トウキョウ湾沿岸で、最もアレの出現地点に近づける街へ行きたい。

 タブレットの地図上で、緑の光点が明滅する。そこは、新トウキョウ駅のあるシンジュク市から水陸両用バスで50分ほどの場所。

 ネリマ市、と結果が出力された。




* * * * *




 六限の終了を告げるチャイムが鳴る。今日の一年二組の日直、竹科さんの起立、礼の号令の後、教室内はすぐに気の抜けた空気に変わった。

「中間考査近いんだからな。遊んでないで勉強しろよー」

 去り際の教師の言葉など何処吹く風と受け流し、生徒たちは「今日どこ寄ってくー」「カラオケ行かない?」「いや俺バンドの練習あるし」「部活禁止期間だろ?」「いやでも外で場所借りると高いし」等々と話に興じ、校舎の内外へと各々勝手に散ってゆく。

 ケイも教科書とノートをバックパックに詰める。店の手伝いに帰らねばならない。今日は本屋でも寄って、乙種方術甲冑繰傀技能試験と危険生物取扱者乙種資格の参考書、ついでに趣味の小説本でも物色しようと考えていたのだけれど。

 ま、明日でもいいかと考えながら、ケイがバックパックを左肩にかけて席を後にすると

「お、ケーやんも帰りか?」同じく帰り支度を整えたタケヤが声をかけてきた。「ついでにうちの近くまで乗せてってくれんかの。今度、鮮度のいいアジ融通するさかいに」

「いいけど、ヘルメット持ってる?」

「もちろんや!」

 タケヤはバックパックから自転車、バイク、ヨロイ兼用のコンパクトヘルメットを取り出して見せた。

 教室を出てリノリウムの廊下を歩きながら、ケイも同じコンパクトヘルメットを取り出す。弁当箱ほどのサイズのそれは、展開すると頭全体を覆う防護ヘルメットとなる。ヨロイ、即ち方術甲冑に搭乗して公道・水上を移動する際は、繰傀者も同乗者もヘルメットを装着することが、道交法で定められていた。

「タケヤも丁種ヨロイの免許、取ればいいのに」

「繰傀はともかく、法規憶えるの面倒でなー」

 教室のある三階から、階段を下りて一階へ。玄関へ向かう途中、向かいから四人組の女子の集団が歩いてきた。緑のタイは中等部女子の、襟の双葉のバッヂは二年生の証だ。内二人は、ケイのよく見知った人物で。

「お、やっぱりケーやんだったわ」

 ポニーテールを跳ねるように動かす元気娘は、タケヤの妹のカコだ。そしてもう一人。

「兄さん」

 安堵したような声音で口を開くのは、メイハの妹で、ケイにとっても妹のような少女。アヤハだ。

 編み下ろしにした長い黒髪が腰の辺りでかすかに揺れ、その姉と似た美貌が少しだけ曇る。瞳の色は薄い褐色で、角度によっては、特に今のように午後の陽射しを受けると紅に見えることがある。

「すみません。姉さんが……」

「いいからいいから。メイハやアヤハのせいじゃないしさ」

 ケイは殊更安心させるように言った。アヤハは生まれついて視力が極端に低く、今も恐らくケイの顔の表情などほとんど見えていない。その分、彼女は耳の感覚が鋭く、声音で人の態度や感情を推し量ることができた。

「アーやんもメーやんもようモテるし、ケーやんも大変やな」

 事情を知っているのか、にししとからかってくるカコの面立ちは、兄妹だけあって兄のタケヤとよく似ている。

 メイハとアヤハが男子にモテても、健全なお付き合いをしてくれれば別に……と、ケイは思う、兄のような者としては。まあ確かに近頃は二人とも出るところも出てきて、夕食時や風呂上がりの時などにラフな格好をされると、目のやり場に困ることも多々あって、不埒な輩にかどわかされやしないかと心配になることもよくあって。

「大丈夫ですよ、兄さん。ちゃんと姉さんと帰りますから」アヤハが言った。ケイの思いを知ってか知らずか。「兄さんもですよ? 安全繰傀を心がけてください」

「ん、わかった」

 心配の相手に逆に心を砕かれてしまい、ケイは内心ちょっと情けなくなる。僕ももっとしっかりしないとなあ。

「なんやアーやん、嬉しそうやの。声弾んどるし」

 からかうカコに、つんと上向き、アヤハが答える。

「別に、ふつうです」

「これからみんなで勉強会するんや」カコがケイに向かって言った。「アーやんのことはウチらが守ったるさかい、安心してええで。野郎どもは近寄らせへん」

 仲の良い友人なのだろう。カコと二人の女子が任せろとばかりにうんうんと頷く。

 幼馴染の少女が順調に友人関係を築いていることがわかって、ケイは嬉しいような安心したような、ほんの少しだけ寂しいような、なんとも言えない気持ちになる。初めて見たときはボロボロの毛布にくるまって小さくやせ細ってて、今にも死んでしまいそうだったから。

「僕は先に帰って店に出るから。あまり遅くならないようにね。メイハにも言っておいて」

「はい。ケイ兄さん」

 アヤハの返事を聞きながら、ケイはヘルメットを展開し、被る。

「カコも気ぃつけて帰るんやで。バスに乗り遅れんようにな」

「なんや兄ちゃん。おったんか?」

 タケヤの言葉に、カコが初めて気づいたとばかりに驚いて見せた。

「最初からずっとおったわ!」

 いいなあカンサイのボケとツッコミ。そんなことを思いつつ、ケイはヘルメットのストラップを調整しながら第一校舎玄関へと歩き出した。まあタケヤも漫才を早々に切り上げて来るだろう。

 下足箱でスニーカーに履き替えて、玄関を出て学生用の駐輪場を抜けると、ヨロイ、即ち方術甲冑で通学・通勤する学生と教員用の発着場に出る。発着場とは言っても、駐輪場のようなレーンや屋根があったりはしない。アスファルトに白線が枠として引かれただけの、ただの広場だ。

 ケイは空いた白枠で区切られたスペースに入ると、バックパックから70センチほどの円筒を取り出した。円筒の鈍い銀色の表面には、大きく"丁"の黒字が楷書体で彫り込まれている。ケイは円筒を仕切られた枠の中央に立てると、円筒の端から出た組紐を引く。途端にギュルンと円筒の芯軸が回転を開始し、筒の中央から上に向かって円柱が昇る。その長さはおおよそ2メートル。伸びた円柱は脊椎状にたわみ、枝分かれして四肢と頭部を形作り始める。その後を追うように円筒からびっしりと文字と図形の書かれた巻物が飛び出し、先行した円柱と枝柱にぐるぐると巻き付いてゆく。巻物は幾重にも重なり腕、脚、頭を形成し、ものの二分ほどで全長4メートルほどの、跪く巨人の姿となった。その様を見て、ケイは思う。武者然とした甲種や乙種と比べると貧相で、敗残の足軽というか落ち武者みたいなんだよなあ。

 頭部や肩、膝、胸と腹といった要所に申し訳程度に装甲が付いているものの、大きく空いた隙間から、重なった巻物の文字と図形が覗き見える。少しでも攻撃を受けたらすぐにバラバラに砕け散ってしまいそうだった。そう思って見ると、重なった巻物の部分も負傷に巻かれた包帯のように見えて、ますます弱々しく見える。このヨロイは運送や軽作業を主な用途とする丁種なので、強い必要など全くないのだけれど。

 二階級上の乙種、三階級上の甲種は武装祭器として今もニホンの人々を護っている。丁種とはいえ、本来は界獣を殲滅、撃退するために、ニホンのミスティックレイス"キシン"の技術から造られたモノだと思うと、もう少しどうにかしてほしいなと思ってしまう。いつ何があるかなんて、誰にもわからないのだから。

 ケイはふと自問する。どうにかしてほしいって、何をさ?

 思考の沼に落ちかけた時、タケヤがやってきた。

「お、発進準備おーけーやな」

「まだだよ。星図を入れてない」

 ケイはバックパックから、今度は40センチほどの円柱を取り出すと、ヨロイの腰部にある挿入口に差し入れ、留め具を下した。小さな回転音が鳴り始め、ヨロイの頭部、面頬の目庇に当たる部分に青い明かりが灯る。

 星図は、方術甲冑に動力を伝えるその時々の星辰の座標を宿曜文で記した巻物だ。装着された星図に記された期間のみ、方術甲冑は稼働できる。方術甲冑、あるいはその元となった星辰装甲の動力、あるいはその構成物質すらも、星々の力を源とするのだと言う。星々の力は刻一刻と流れを変える川のようなもので、その時々に合わせた正確な星々の座標を宿曜転換炉―エンジンのようなものに設定してやらないと、方術甲冑は動かない……と、ケイとメイハは丁種方術甲冑繰傀技能資格試験の勉強中、アヤハから教えてもらったことがあった。

 この星図は国家資格"宿曜書士"の資格取得者のみが書き、販売することができる。界獣の出現により海上輸送が高リスクなものとなり、火力や電力といったエネルギーの枯渇が問題となっているニホンにおいて、新たな動力源と目される星図を書ける者は重用され高額な報酬が見込める。そのため人気の資格だったが、合格率八パーセント以下の超難関資格でもあった。

 アヤハはこの宿曜書士資格取得を目指して勉強中である。彼女が試しに書いた星図をヨロイに入れたら問題なく動いたので、ケイは年下の妹分の合格を確信していた。ちなみに無資格者の書いた星図を使う行為は違法であり、罪に問われる。二年以下の懲役または50万円以下の罰金。自身の書いた星図で動くヨロイを前にした時、「これ、試験に出ます」と言って、アヤハは視力矯正ゴーグルを外して微笑んだ。

 更にもう一本、ケイは円柱を取り出しヨロイの腰部にある小型スリットに入れる。するとヨロイの背面に枝柱が突き出し、展開して二座席分の簡易シートになった。丁種と乙種の方術甲冑は汎用傀体の側面を持ち、アタッチメントの宿曜文を入れて機能を拡張できる。この追加の簡易シートもその一つだ。

 ケイはヨロイの背中によじ登ると、そこに空いた空洞に体を入れる。内部構造がすぐに四肢と体幹にフィットし、ヨロイの手足を己が手足のように感じられるようになる。背面の装甲を閉じれば、ヨロイの中に全身が収まった形になる。

「タケヤ、乗って」

「おうよ」

 ケイがスピーカー越しに言うと、タケヤがヨロイをよじ登る。タケヤが簡易座席に腰を落ち着けたことを確認すると、ケイはヨロイを立ち上がらせて歩き出した。公的施設の敷地内は歩行が定められているのだ。発着場を、まだまだ多い生徒たちに注意しながら通り抜け、校門を出るとゆっくり速度を上げてゆく。

 公道を走るのは、ケイたちのような通勤通学者の駆る丁種ヨロイが二割、より大型の貨物車両を引く運送用乙種ヨロイが三割程度で、残りは水上航行も可能なフロート付き電気自動車、バス、トラックだった。

 5分ほども駆けると、車もヨロイも少なくなってくる。首都キョウトを遠く離れたトウキョウ圏のネリマ市は田舎だ。首都がトウキョウだった頃のベッドタウンとしての面影は、半ばまで水没し、いまだに撤去の目途の立たないマンションや団地の廃墟だけだ。

 道路のアスファルトが途切れ、海水に没する。自動車はフロート航行に切り替えるが、ケイはそのまま突き進む。方術甲冑はその特性として、水面を沈むことなく、あたかもそこが不動の大地であるかのように歩行・走行することができる。大海嘯によって多くの街が水没した今のニホンで、ヨロイの需要が急速に上がった理由のひとつがこれだった。

 水没した道路のラインの替わりにコースロープが浮き、速度制限の標識は水面に浮いたブイの上に立っている。

 警官などの目がないことを確認して、ケイはヨロイの頭部を除装した。ヘルメットのゴーグルを下ろして風を浴びる。汗ばんだ肌に、潮をかすかに含んだ風が心地よい。

 新トウキョウ湾沿いの激しく蛇行する道も、ケイにとっては昔からなじんだ道だ。慣れた繰縦でよろけることもなく、家を目指してヨロイで駆ける。右を見れば、かつて盛況を極めたトウキョウの街を沈めた海がある。既に漁のピークは過ぎており、数隻の漁船が浮かんでいるだけ。左に目を遣れば、天を衝いて並ぶ五本の巨塔が徐々に近づいてくるのが見える。塔の高さはおおよそ40から60メートル程度のものまでバラバラで、並びと角度にも規則性がない。見る度に巨塔の並びと高さが変化しているように感じられるそれは、海と空より来たる敵、界獣を退ける都市防衛機構の根幹を成す重要施設"サイノカミ"だ。

 昔は、あれは月から来る宇宙人を迎撃する大砲だなんて思ってたっけ。ケイは幼い頃を思い出す。両親と姉と共にネリマ市にやってきたときはまだ九歳で、新たな生活に馴染めず友だちもできず、よく荒唐無稽な空想に耽っていたものだった。

「時にケーやん。夏休み、なんか予定あるんか?」

 簡易シートのタケヤから訊かれ、ケイは振り向かずに答える。

「気が早くない? 中間考査もまだ終わってないのに」

「テストが憂鬱やからのー。夢くらい見ようやないか」

「今のところ、これといった予定は特にないかなあ」

 ケイは頭の中のカレンダーをめくる。御幡家と玖成姉妹の恒例行事として、お盆に母の墓参りを兼ねた日帰りの遠出があるくらいか。父が、今年は帰りにどこか温泉で一泊くらいするか? とか言っていたような気もしたが。言うとまた冷やかされそうなので黙っていることにした。

「まあ店でバイトかな。ヨロイのアタッチメントでいくつか買いたいのあるし」

「なんや花がないのう。いつもと変わらんやないか」

 ケイには、背後でタケヤがにニヤリと笑ったのがわかった。

「そないなケーやんに朗報や。シンジュク海浜リゾートに行く計画があるんや」

「え!?」ケイは驚きに目を丸くした。「チケットどうすんのさ?」

 シンジュク海浜リゾートと言えば、かつての海水浴場を模した人工海浜施設だ。大海嘯で消えた"安全に遊べる海"をコンセプトに造られたそれは、海を模した巨大プールを中心に、遊具とショッピングモールを完備し、今のトウキョウ圏の数少ない観光・デートスポットとして関東で非常に人気が高い。夏休み期間のチケットの入手など、困難を極めるはずだ。

「三組のソウタがな、市役所勤めのおとん経由で手に入れたんや。3枚。ソウタとワイとケーやんで行かへんか?」

「何が悲しくて、野郎だけでリゾート行くのさ」

 ケイは想像した。男子高校生3人だけで、カップルと家族連れが楽しむ中に突入する様を。彼女がほしいほしくないはとりあえず置いておいても、絵面が悲しすぎる。

「もちろん、童貞を捨てるためや!」タケヤは高らかに宣誓するように言った。宣誓、我々は正々堂々と童貞を捨てることを誓う。誓いを違えて邪に童貞を捨てんとしたならば、神々よ七難八苦を与え給え、とでも言わんばかりの勢いだ。「ナンパやナンパ。目的はただそれ一つのみ! 彼女作って脱童貞や。カコが言うとったが、女子から見てケーやんかわいい感じらしいんや。ケーやんおれば年上お姉さま方からの逆ナンも見込める!!」

「僕は釣りのエサかよ……って、そもそも僕がモテるわけないだろ? 女子から誘われたことなんて、生まれてこのかた一度もないよ」

「ケーやんそれ、本気で言うとるか? 毎日両手に花の生活送っておいて、殴ってええか?」

「いいわけないだろ! だからメイハとアヤハは――」

 言いながら、ケイはヨロイで跳躍する。急上昇する簡易シートで、タケヤが「おわぁあっ」と叫んで仰け反った。

 夕刻間際の日射しを浴びて、古び水没した街を横目に少年たちは駆けてゆく。




* * * * *




 フロート付きの水陸バスは、ネリマ市庁舎前駅で停まった。

 バスを降りたウルスラは、他の乗客の流れに乗って進んだ。庁舎前を離れると、食堂、酒屋、雑貨店に靴屋、ブティックといった店舗の並ぶ商店街に入る。通りに漂う煙の旨そうな匂いにつられて行くと、そこはジャンクフードの露店だった。「ガイジンのお嬢ちゃん、一つどうだい?」捩じったバンダナを巻いた店主から勧められたそれは、ニホンのソースを塗って炙ったイカの足。ニホン人はよくこんな界獣の眷属みたいなモノを食うなあと思いながらも、匂いと好奇心に釣られて一口齧ってみれば、ことのほか旨い。思わず三串も買ってしまった。ロンディニウムでブリタニアクレジットを幾ばくかニホン円に換金しておいてよかった。

 左手に焼きイカの入った袋を下げて、右手の串に刺さった焼きイカを頬張りながら、ウルスラは湾岸沿いの歩道をゆっくりと歩く。もぐもぐとイカの旨味を堪能しつつ臨む新トウキョウ湾岸の町、ネリマ市は、何のことはない漁港の街に見えた。漁船が行き交い、魚介を売り買いする人々が市に立ち並び、長閑で穏やかな時間が流れている。かつて界獣との激戦が繰り広げられた場所とは思えない。閑静な時間帯なのか、横の公道を通る車も、星辰装甲もさほど見かけない。ついさっき少年二人を乗せて飛び跳ねた星辰装甲を入れても、両手の指で数えられる程度だ。

 まあ、一般人は立ち入り禁止の封鎖区域も多いので、今、見えている街の姿が全てではないのだろうけれど。

「ま、試しにちょっと探ってみるかな」

 食べ終えた焼きイカの串を海に放ると、ウルスラは周囲に人目がないことを確認してから、右手を握って、開く。するとその白い手のひらの上に、体長20センチほどの翅を生やした小さな少女たち―翅翔妖精ピクシーが現れた。

「この辺りで奴ら、〈古く忘れられた統治者〉(Old forgotten rulers)の兆しや、何か変わったものがあれば、何でも教えて」

 ウルスラの言葉に小さな少女たちは頷くと、その蜻蛉に似た二対の翅で羽ばたき飛び立った。

 海側の柵に両手を置いて、ウルスラは湾を眺めた。日射しを受けた海面が赤く染まり始めている。

 今から20年前、ここで、この街のある場所を前線にして、ニホンの方術甲冑を中核とする戦団は、界獣発生の源とも言える存在を打倒、殲滅した。

 その報告を聞いた時の驚愕を、ウルスラは今でも憶えている。仕事中に飲んでたミルクティーを鼻から吹いた上に、吹いた先にいた姉のモイヤの書類にかかってしこたま怒られたのだ。あれはいろんな意味で痛かった。

 ありえない、ことだった。当時のニホンは、技術交換でブリタニアから譲渡された星辰装甲ウォードレイダーを解析、方術甲冑として量産、運用を開始したばかりだったはず。型式は確か、方術甲冑コンゴウ。あれは海から沸く海棲型界獣、ディープワンことD類特種害獣を相手取るには充分な性能だが、アレを……古く忘れられた神の眷属を滅ぼすことなど不可能なはずだった。少なくとも、報告に上がっていたニホンの武装祭器からはあり得ない戦果だ。

 当然、同盟関係にあったブリタニア側はニホンの特種生物災害防衛組織・護国庁に対し情報の開示を求めた。しかし護国庁から提出された資料からは、当時の状況や作戦規模などは読み取れても、要所は黒塗りで、肝心な部分がはぐらかされたままだった。

 こちらの世界を蝕み異なる法則で書き換える〈神蝕空間〉、所詮は奉仕種族であるD類特種害獣などが持つ脆弱なそれとは異なる、純粋な異次元法則の押し付けを、どうやって打ち破ったのか。

 それを知りたいがために、ニホン行きの便に乗ったようなものだ。会合は会合で重要だけど、そっちはフィオナが適任だ。ニホンの奴らに普通に訊いたって、話すわけない。これまで開示を求めて幾度も問い合わせたのに、のらりくらりと躱され続けたのだ。20年もだ。思い出すだけで腹が立つ。何がノーと言えないニホン人だ。ぬるぬるのウナギのゼリー寄せみたいな奴らめ。交換条件に、星辰装甲の亜空間圧縮収納のノウハウ教えてやろうと思ってたのに。金輪際、サイクルが九たび巡ろうと絶対教えてなんかやるもんか。

 あんまり腹が立ったので、二本目の焼きイカを出したその時だ。探索に出した翅翔妖精の一人が慌てふためき帰ってきた。

「エイリイ、そんなに慌ててどうしたのさ?」ウルスラは焼きイカを齧りながら訊ねた。「何か変わったものでも……って!」

 エイリイ、と呼ばれた翅翔妖精は、見てきたものをウルスラの心に投影する。中央の巨塔、その頂の光景を。

「なんてこった! みんな戻って!!」

 ウルスラは翅翔妖精たちを呼び戻しながら、東の空を仰ぎ見た。不規則に並ぶ五本の巨塔は、界獣の嫌気パターンを織り込んだ巨大環状列石群による都市防御結界だ。ブリタニアの都市にも似たものがある。

 翅翔妖精たちが全員無事に戻ったことを確認すると、ウルスラは巨塔に向かって一直線に走り出した。走りながら屈んで両脚に駿脚の魔法をかける。翅翔妖精の翅によく似た翅が、その細い両足から展開し加速する。ガードレールを民家の壁を、体重などないかのように軽々と跳び越え、更に加速。風のように駆け鳥のように翔け、ビルの壁面を駆け登りビルの谷間を飛び降りて。ものの数分で巨塔群の元に辿り着く。

 厳重に有刺鉄線の張られた施設の外壁を一跳びに越え、ウルスラは着地。あたりの様子を伺った。

 誰もいない。出てこない。どの国の結界施設でもありがちな、過剰なまでの警備体制が、機能していない。巨塔の根本、閑散とした空間に、主塔機能補助の、より低い列石が立ち並ぶだけだ。

 これは、まずい。本格的に、まずい。しかしまだ、エイリイの見た時点のままであれば、間に合う可能性がある。ウルスラは両脚の翅をより大きく展開すると、巨塔の壁面に足をかけ勢いよく駆け登る。信じてるぜニホンの警備兵たち。信じさせてよ頼むから。キミらはアレを、〈落とし仔〉を倒してみせたんだからさ。

 たちまち頂が視界に入る。錆と潮に似た血の臭いが鼻を衝く。間に合え、念じながら強く頂の縁を蹴って、ウルスラは巨塔の頂に着地した。

 大きく肩を上下させ呼吸を整えながら、ウルスラは眼前の光景を観察する。積み上がった腕、足、生首、血濡れの制服を着た胴体……警備員だったものと思しき人体の部品の山と、頂全面に撒き散らされた血と糞尿。長い臓物で描かれた奇怪な図形とも文字ともつかない形象。そして何より、幾重にも大きく深く抉られた頂の底面。そこには、界獣が共通して嫌う〈旧き御印エルダーサイン〉が精緻に刻まれていたはずだった。

「遅かった……」

 吹きつける風に、ウルスラは早くも軽い吐き気を感じ取る。やってくる。侵入してくる。この世界を蝕むモノが。

 御印を潰した上で、念入りに汚し侮辱し涜神する。結界の機能を停止させ、界獣を招き寄せるには充分なやり方だった。

 やったのは、たった一匹の"あっち"の生き物。

 喚んだのは、人でありながら異界の神を奉ずる教団か、未確認の奉仕種族か。

 いずれにせよ、これからここは、この街は戦場になる。界獣たちがやってくる。それを撃退、殲滅するのは、この国の対界獣部隊―護国庁海浜警備隊の役目だ。今となっては、状況は異邦人のボクの手を離れている。下手に介入すれば、外交問題になりかねない。この状況でどうするか。フィオナに訊けば、間違いなく不干渉を主張するだろう。

「でも……むぐ」ウルスラは吐き気を打ち消すように、焼きイカをひと齧りして飲み込むと、脚の翅を大きく広げて塔から跳ぶ。降下のさ中、叩きつける空気の壁に目を細めながら、宣誓するように、告げる。「ボクはフェイ、湖の貴婦人、泉の妖精」

 騎士の擁護者、勇者の背を推すものが、人々の危機を前に背は向けられない。

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