第464話 契約解除


 ばーちゃんが妹のやおいを、連れてきてくれたおかげで、アンナはご機嫌だった。

 抱っこしても嫌がらないから、離したくないと。ずっとやおいを嬉しそうに抱きかかえる。


「いい子だねぇ~ やおいちゃん☆」

「う~ 攻め!」

 

 ふたりを嬉しそうに眺めるばーちゃん。

「アンナちゃんは本当に良いお嫁さんになるわよ。タッちゃん、そろそろ決めたらどうなの?」

「それは……」

 ここで答えられるかよ。


 20分ほど抱っこしても、満足できないアンナだったが。

 やおいの方が限界みたいだ。

 どうやら眠たいようで、泣き始める。


 アンナは慌てて、ばーちゃんにやおいを手渡す。

「あらら、やおいちゃん。おねむなの? じゃあ音楽を聴きながら帰りましょ」

 慣れた手つきで、やおいをベビーカーの中に寝かせると。

 ハンドバッグからスマホを取り出す。

 するとベビーカーの持ち手につけられた、小さなスピーカーから、男の声が聞こえてきた。


『なっ! お兄ちゃん、ダメだよ! 彼女がいるくせに……』

『あれはお前へのあてつけだ。嫉妬させるためにな』


 なんだ、急に男性声優の喘ぎ声が聞こえてきたぞ。


『んぐっ……お兄ちゃんも、僕を好きだったの?』

『聞くまでもないだろ? さ、始めよう』

『はあっ、はあっ……お、お兄ちゃーーーん!』


 ばーちゃんが用意したBLのCDか。

 なんてものを、公共の場で流しているんだ……と思った瞬間。

 あることに気がつく。


「すぅ……すぅ……」


 やおいが泣き止んでいる。

 しかも、気持ちよさそうな顔で寝ていた。


「うんうん、やっぱり寝る時はこれが一番ね。タッちゃんの時と同じ♪」


 え? 俺もあんなことされてたの?

 劣悪な環境に絶句していると。

 ばーちゃんは平気な顔をして「じゃあ、二人ともまたね」と手を振る。


「あ、ああ……」

「はい☆ また抱っこさせてください☆」


 早めに妹をばーちゃんから、離した方が良くないか。


  ※


 恐ろしい光景を見てしまったが、アンナの機嫌は良くなったし。

 ずっとニコニコ笑ってくれる。

 ならば、良しとしよう。


「アンナ、今からどこに行きたい?」

「んとね。夢の国のストアに行きたいな☆」

「了解した」



 それからはいつものアンナらしく、大好きなキャラクターグッズを見たり、ペアで着られるTシャツを買ったり、一つのアイスを二人で分けて食べたり……と。

 とてもデートらしい、一日を過ごせた。

 夕暮れになるまで、たくさん遊ぶことが出来た。



「はぁ、もう夕方か……なんか時間が経つの、早すぎるよぉ」

 と頬を膨らませるアンナ。

「それだけ、楽しい一日だったってことだろ。良いことじゃないか」

「うん☆ 今日がタッくんとしてきた取材のなかで、一番楽しかったかも☆」

「そうか。それは良かった……」


 彼女が発した一言で、俺は笑みが失せてしまう。

 決めていたからだ……今日が最後だと。


「なあ、アンナ。実はその取材の件で話したいことがあるんだ」

「え? 取材のことで?」

 どうやら、俺の緊張が伝わったようで、彼女も顔が強張ってしまう。

「そうだ。俺たちにとって、とても大切なことだ。少し落ち着いた場所で話がしたい」

「うん……」

「1年前にも行った場所だが、博多川で良いか?」


 俺の問いに彼女は答えることなく、黙って頷く。

 少し強引だが、俺はアンナの手を掴むと、カナルシティから出てすぐ見える川。

 博多川へと向かう。


 小さな横断歩道を渡れば、すぐだ。


 人気のない大きな川に、ベンチが2つほど並んで設置されている。

 誰も座っていなかったので、アンナに座るよう促す。


 二人して、肩を並べ。対岸にズラーッと並び立つラブホテルに目を向ける。

 別に見たいからではない。

 今は彼女の顔を見ることができないからだ。

 緊張して、すぐには思っていることを口に出せない。


 でも、俺から言わないと。


「あ、アンナ……実は、今日の取材で最後にしたいと思っているんだ」

「最後って取材を? どうして? まだ小説は終わってないでしょ?」


 急に不安に駆られたようで、すかさず俺の右手を握るアンナ。

 彼女に触れられて、俺も決心できた。

 ようやく、彼女の瞳を。二つのエメラルドグリーンを見つめられる。


「その通りだ、小説は終わっていない。だが、もうそろそろ。この関係にも無理が生じている……そう感じるんだ」

「ど、どういうこと?」

「俺の気持ちの変化だ……アンナも知っている通り、ついこの間まで。俺は生死に関わるような事故を起こしてしまった。これは自分の気持ちを偽っていたからなんだ」

「タッくんが?」


 深呼吸をしたあと、俺は彼女の両手を掴んで、持ち上げる。


「いいか? 今から言うことは俺の本音だ。何も一切、嘘はつかない。ひょっとしたら、アンナを傷つける可能性もある。それでも話を聞いてくれるか?」

「……」

 まだ何も言っていないが、アンナには俺の緊張が伝わっているようで。

 肩が震えていた。


 しばらく黙っていたが、彼女の小さな唇が微かに動く。


「い、いいよ……話して」


 アンナから許可をもらえて、俺の身体に衝撃が走る。

 心臓はバクバクとうるさいし気分が悪い。

 手から汗がにじみ出て、彼女の手を湿らせてしまう。


 でも、ここでやらないとまた俺は……。


「俺が……一ツ橋高校に入学したのは、恋愛を取材するためだ。そんな時にミハイルが、アンナを紹介してくれて。とても楽しい体験が出来た。生まれて初めてだと思う。こんなに濃い一年は」

「うん」

「これからもずっと続くと思いたかった。でも、もう無理なんだ。アンナとの取材も出来ないほど、俺はダメになってしまった。その原因なんだが……ある人を好きになってしまったからなんだ」


 言い切ったと思った直後、後悔してしまう。

 目の前にある、美しい瞳に涙が浮かんでいるからだ。


「それって……取材した子たちの誰かなの?」

「いや、違う人だ」

「じゃあ、アンナは?」

「悪いが違う。俺が好きになった人は、ここにはいない」


 デートに連れてきて、色々と考えた上で機嫌も良くしたのに。

 いい思い出にしたかったけど。

 こればかりは、彼女に伝えておかないと。


「……じゃあ、一年前に約束した『報酬』は? アンナのことを気に入ったら、ホントのカノジョにしてくれるって」

「本当に申し訳ないが、その報酬も無理だ」

「うわぁん!」


 その場で泣き崩れるアンナ。

 俺も見ていて、胸が引き裂かれる思いだった。


 だが、ここまでは予想通りの反応だ。

 計画通りに事が進んでいる。


 パニックに陥っているアンナから、視線を逸らして、川を眺める。


「こんな酷いことをして、本当に悪いと思っている……でも、その相手なんだが。実はアンナが知っている人でな。いや一番近しい人間だと思っている。アンナにも必要な存在だ。名前だけでも聞いてくれないか?」


 と視線を彼女に戻したら、誰もいない。


「あ、あれ? アンナ!? どこだ!」


 慌ててベンチから立ち上がり、辺りを見回す。

 気がつけば、周りはカップルだらけ。

 みんなイチャついていた。


 だが、今はそんなこと、どうでもいい。


「アンナぁ! どこだっ! まだ話は終わってないぞっ!」


 そう叫んでも、反応は無い。

 代わりに知らない男が、話しかけてきた。

 隣りのベンチに座っていたカップルの彼氏。


「あの……」

「なんだっ!? 今俺は人生で、最大の告白をしようとしているんだぞっ!」

「隣りで聞いていたんで、そうかなって……。彼女さん、たぶん博多駅方面に走っていきましたよ?」


 ファッ!?

 あのタイミングで、普通逃げるかね?


「すまんな! 礼を言う!」


 ベンチから飛び出ると、はかた駅前通りを全速力で走る。

 大勢の人で賑わっているため、この中からアンナを見つけるのは困難だ。

 

 クソッ! しくじった!

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