第5話『嚆矢濫觴④-コウシランショウ-』

「先生、帰ってきてたんすか」

 西澤顕人にしざわあきとは思わずそうぼやく。

 すると宮紡みやつむぐ准教授は「俺の部屋なのに帰って来ちゃ駄目なのか」と不満そうに呟く。


「いえ、論文終わった後はいつも何処かに行ったきり帰ってこないから、今回もそうかなあって・・・」

「いつから話聞いてたんですか?」

 顕人が宮准教授の登場に狼狽するが、滝田晴臣たきたはるおみは大して気にした様子もなく質問する。

 宮准教授は少し腰を浮かせて椅子を長机のそばまで移動させて座り直し「レジュメがなくなったってあたり」と答える。

 宮准教授が長机まで来ると、室江崇矢むろえたかやはもう空になったポットを持ってスチール棚の方へ行く。恐らく戻ってきた宮准教授のために新しいお茶を入れるのだろう。

 顕人は手伝おうと腰を浮かせるが、ふと、さっきまで宮准教授が椅子を広げていた場所にまるで辞書を思わせるような分厚い本が数冊紐で纏められている状態で床に置かれていることに気が付く。

 ついさっき掃除を終えたのだ、あんなものが存在しなかった。

 思わず顕人が凝視していると、宮准教授は顕人の視線の先にあるものに気が付いたようで楽しそうに笑う。


「あぁ、それか? 久々に指宿いぶすき温泉に行こうかって思ってたら」

「指宿? アキ、何処?」

「九州、鹿児島」

「大学の友人と一回行ったことあって、何だか急に行きたくなったんだ」

 宮准教授はそう言いながら、長机に残っていた顕人が食べるはずだった今川焼きに手を伸ばす。本来は宮准教授への手土産だったわけだし、顕人が宮准教授に齧られていく今川焼きを見送る。

 晴臣は宮准教授の言う『大学の友人』という言葉に、以前一度だけこの部屋にやってきたサラリーマン風の男を思い出す。優しそう、というかお人好しだろうなというのが雰囲気でわかった。宮准教授は良くも悪くも行動的な人だから、ああいう人が訪ねてきたのが珍しくてよく覚えていた。

 その時丁度資料整理を手伝わされていた晴臣は、宮准教授とやってきたサラリーマンとの気のおけない様子の、宮准教授にも友達がいたんだな、と内心驚いていた。


「それで駅に向かってたら、駅の近くに古書店あるだろ?」

「『深縹こきはなだ』ですか?」

 この大学の近くに『深縹』という古書店がある。

 日本の古典文学を専攻している宮准教授がよく通っている店だ。

 取り扱いは日本の書籍が殆どだったが、店主が孫娘の代になってから海外の古書も取り扱うようになったらしい。


「そう。あの前通りかかったら珍しくじいさんの方が店先にいて、昨日俺が好きそうな本が入ったから寄らないかって言うんだよ。指宿は思い付きで決めた目的地で別に切符も買ってなかったし、じいさんが『俺が好きそうな本』って言うのがどの程度のもんかっていう興味が勝ったんだ。そしてその結果があれだ」

 そう言って誇らしげに笑う宮准教授。

 顕人は、子供か、と若き准教授に思わず呆れる。


 ただでさえ、この部屋は大型のスチール本棚が部屋を圧迫している。その上、本棚には隙間なく書籍が詰まっている。今日の片付けで入りきらなかった書籍が宮准教授の事務机の真横に平積みされている。

 その量は一冊や二冊ではない。数十冊も積まれているのだ。

 既に収納場所に困っているのに、何故増やすのか。

 片付けのできない人間の典型だと顕人は呆れる。

 しかしながら宮准教授本人は新しい書籍に大変機嫌が良い様子だ。


 その上機嫌に水を差したのは、意外にも室江だった。


 室江はポットに新しいお茶を作り、宮准教授専用のカップにお茶を注ぎ宮准教授に渡す。ついでに顕人たちのカップにも注いでくれる。が、その最中困り顔で「良いんですか? 小金井こがねいさんに怒られますよ」とぼやく。

 その言葉に上機嫌だった宮准教授の表情が一瞬で凍りつく。

 知らない名前だと、顕人は思う。

 頻繁にこの部屋に出入りしているが、顔見知りになる生徒は以外に少ない。

 その『小金井』というのもその一人だろう。

 顕人は小声で晴臣に「誰?」と訊く。


「室江先輩と同じ四年の先輩。先生のゼミ生。怒ると滅茶苦茶怖くて、先生はいっつもキレられてる」

「先生、キレられんだ」

「学内で会う時はフツーっていうか穏やかっていうかそんな感じ。でもこの部屋で会ったらすぐに帰った方が良い。大抵先生にキレ散らかしてるから」

「准教授相手にキレるとか何者だよその先輩」

 小声で話す二人に室江の耳には聞こえていたようで「小金井さんは先生の助手みたいな人だよ」と笑う。


「でも俺、此処に結構出入りしてるつもりなんですけど、会ったことないです」

「西澤が来るのは大抵午後だろ? 小金井さんは朝にいることが多いんだ。一年二年で大体の単位は取り終わってて、三年の時と今年は午前に授業を詰めて午後は学内にいないことが殆ど。だから見たことないのも頷けるかな」

「へえ」

「この部屋の書籍を管理してるのも小金井さん。今日片付けするときに、本棚の区分け管理表見ただろ。あれを作った人だよ」

「「あー」」

 室江の言葉に顕人と晴臣は、大型スチール本棚に側面に貼り付けられている表を見る。その表にはどの場所にどういう系統の本が詰められているかということが書かれている。散らかった書籍もその表に従って収納した。

 が、宮准教授は気に入った書籍を今日のように購入してくることがあるので、本棚に入りきらない。今、事務机の横に積み上がっているのは、管理表に記載がなかった分だ。

 管理表はこまめ新しくされており、現在表の一番上に更新した日付が書かれており、今年度の四月十日となっている。つまり四月十日から今日までの大凡三週間の間にあれだけ増やしたのだ。


「・・・怒られるかな」

 宮准教授はやや引き攣った顔で室江に問う。

「確実に」

 室江が大きく頷くと、宮准教授は長机に突っ伏す。


「だって買うだろ? 俺が好きそうな本って言われて中見たらホントに俺の好みど真ん中なんだぞ? 買うって。買うしかないって。俺が買わないと別の誰かが買っちゃうだろ?」

「買うのは良いんですけど、自分で管理できる量でって小金井さんに言われてるじゃないですか」

「ああああああ」

 宮准教授は低い呻き声をあげるが、突然がばりと身体を起こし窓の方を見る。その表情は名案を思い付いたと言いたげだが、何処か目が死んでいる。


「・・・そっちの壁、まだ空いてるな。そっちにも本棚置くか」

「先生、それ駄目な発想じゃないすか」

「止めませんけど、実行するなら小金井さんが卒業する来年の方が良いと思いますよ。焚書されますよ、冗談抜きで」

「それは嫌だあ。書籍への冒涜だあ」

 宮准教授はまたしてもぐったりと長机に突っ伏す。


「小金井さんも就活で忙しいって言ってましたから、多分ゴールデンウィーク明けまでは来ないと思いますし、とりあえず家に持ち帰ったらどうですか?」

「あー、それしかないかあ」

 宮准教授は気怠そうに身体を起こすと、室江が入れてくれたお茶を飲む。そして残っていた最後の今川焼きに手を伸ばすが、ふと、彼は室江を見る。


「そういえば室江は今日どうしたんだ? 滝田と西澤は俺が掃除頼んだからいるのはわかるけど」

 これだって室江の持ち込みだろ、と今川焼きを指す。

 その言葉に、顕人は室江の相談から大きく話が脱線していたことに気が付く。それは室江も同じだったようで「あっ、そうでした」と苦笑してついさっき顕人と晴臣に話したことを掻い摘んで宮准教授に説明することとなった。

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