1話『副都心スニーカー』

ある大学生の日常−1

 七月中旬。


 退屈極まりない期末テストを過去問とレポートのコピーでしのいでしまうと、再び長い、人によっては長すぎる夏休みが待っている。四月が新入生の歓迎会で潰れてしまうことを考えると、大学二年生の春学期の勉強期間は二ヶ月ちょい、といったところだ。

 とはいっても、


「学校があっても休日みたいなものじゃない」


 と、バイト先の暴力娘に言われても反論できないのが現状であるからして、その二ヶ月も気合を入れて勉強をした記憶などカケラもない。気がついてみると終わっていた、というのが正直なところである。授業に出て教授の話を聞く。つまらなかったら代返でも頼んでゲーセンだの雀荘だのに繰り出す。昼は喫茶店で悪友どもとだべり、夜は気が向いたらテニスサークルにでも顔を出す。週末にはこれまた気が向いたら合コン、飲み会、エトセトラ。日曜日は二日酔いでダウン、元気だったらドライブでも、というところだろうか。


 桜が散りおわって既に三ヶ月。今では葉桜が青々と伸び盛り、校門に豊かな影を落としている。学校の敷地と無骨な新宿区の道路とを分け隔てている並木の上から無料で流れる、蝉達の構想七年の交響曲。その大音声に紛らせるようにして、いつしかおれ、亘理陽司_わたりようじは呟いていた。


「平和だねぇ……」


 こんなことを言うから日頃まじめに社会人している高校時代の友人連中に悪態を突かれるのだが、実際今の俺の心境は平和きわまりない。


 一応ここ、都内のそれなりに有名な大学に入るには高校時代の青き春の幾年かを無機質な受験勉強に捧げたのだし、その甲斐あって狭き門を通ったからには、可能な限りその特権を行使するのは当然。いや寧ろ義務であろう。若さ・イズ・イリバーシボー。何しろせっかく、あの極悪非道のバイトから解放されたことでもあるし。



 日々平穏、怠惰こそ人生の美酒と信じて疑わないこのおれの目下唯一の不満であり、かつ唯一の収入源でもあるのがこのアルバイトである。これがまたひどいんだ。紆余曲折を経て引き受けることになったものの、仕事がキツイわりには給料が少ないし。こちらの都合に構わずどんどんオーダーを押し付けてくるし、上司はエゲツねーし同僚はビンボー人かいじめっ子しかいねーし。その上ここ最近は人手不足もあってか、経理やら営業やらの真似事までやらされていたりする。そのせいで友人たちには「お前の貧乏は知っているけど、行動も貧乏臭くなったよなあ」とありがたくもない感想を述べられる始末。


 いつしか足は学校から駅へと向かっていた。テストとともに講義もほとんど終了しており、もうわざわざ出席するような授業もない。大学と高田馬場駅を結ぶ坂道をゆっくりと登っていく。世間ではそこそこに有名な某大学の、まだ郊外に転出せず伝統を繋いでいる旧校舎に日々通う文学部生、というのがおれの現在の身分である。


 気がつけば明治通りとの交差点までたどり着いていた。ここから五分も歩けば駅に着く。私鉄で俺の部屋まで電車で十五分。帰って本屋に行って夕食の買い物でもして……あとは何しようかな。幸いにして、少な目とはいえバイト代も入ったばかりで、懐具合にもそこそこ余裕もある。ドアポストに突っ込まれている家賃やら新聞やら諸々の支払い請求書は自己暗示をかけて意識野から締め出してしまうことにするとして――


 いいや、寝よう。


 おれは決心した。誰にも文句は言わせない。ぬるま湯生活万歳。


 ――そんなおれの甘い夢想は、胸ポケットの携帯から鳴り響く不吉な『銭形警部のテーマ』に破られた。あ、いや、別に『銭形警部のテーマ』が不吉と言うわけではなく。このテーマが鳴ってしまうと言うことは……おれは顔をしかめて携帯を引き抜き、そして液晶画面に表示された発信元を見た。



『人材派遣会社フレイムアップ』

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