第64話 シュラムニケの巫女 1

 それでも大したものだ。おそらく数え切れないほど読まされたに違いない文献の、その中の一つの内容を覚えていて、さらに読みかえしまでしている。さすがにヤルガの神殿の神官長まで上り詰めるだけはある。


「こんなものがしょっちゅう出てくるようでは物騒で仕方がないが……」


「ご安心を、アビゲイル様。私が読んだ文献の出来事以降は70年前にザッカンで、20年前にトビリシテで魔物氾濫が起こっただけです。どちらもおそらく悪夢の贄によるものでしょう。尤も、ザッカンで氾濫したのは鳥形魔物で、トビリシテの場合はネコ科猛獣型魔物でしたが」


「トビリシテのことは聞いたことがあるわ。飼っていた本来おとなしい小型ネコ科の魔物まで変異したものがあったとか」


 私の言葉に神官長が頷いた。


「ただ伝えられている情報では今回ほどの規模の氾濫ではなかった様です。せいぜい千匹程度だったとのことですから」


 その程度の魔物氾濫だったら最初の迎撃態勢で充分だっただろう。竜騎士隊も街の幹部もそのつもりだったのだ。


「おっと、失礼します」


 神官長の視線が私から外れた。私もそれに吊られて振り返った。巫女の衣装を着た若い女が近づいてきている。人族だから見かけ通り、つまり私と同じくらいの年齢だろう。しかし、被っている冠も胸元の巫女用のブローチも巫女の衣装そのものもこの神殿で見たことがないほど豪華なものだった。ワンピース型の純白の衣装の、足首まで覆う裾にぎっしりと手の込んだ花模様が刺繍されていた。


「シュラムニケの内巫女?」


 こんな豪華な巫女衣装を着るのはシュラムニケの本神殿の、それも内巫女くらいしか思い当たらなかった。私のつぶやきにフォルダージュ神官長が後ろ姿で僅かに頷くのが見えた。


 女は姿勢良く優雅な歩き方で神官長の側まで来て軽く腰を折った。


「お世話になりました、私はこれ……」


 そこで言葉が止まった。吃驚したように目が見開かれ、口が少し開いている。彼女に挨拶を返そうとしていた神官長を見ているのではなかった。その視線は彼女からは私の影で見えにくいであろうアヤト、いやその左肩に乗っているピクシーに向いていた。


 思わず――と言う様子で数歩前に出て、


「エアリスフィーネ様!」



――――――――――――――――――――――――――



 その呼びかけにアリスがピクッと反応した。妙な動きにアリスを見るといつにも増して表情が消えている。


「アリス」


 俺の呼びかけに反応しない。


「アリス!」


 語気を強めた。

アリスに表情が戻った。


「アッ、アヤト」


 それまで俺の左肩に乗っているように見せて実際は少し浮いていたアリスが、全体重を俺の左肩にかけて、ぎゅっとしがみついてきた。頭が動かせない。


「エアリスフィーネ様!」


 気がつけば、女がすぐ側にいた。


「やはりここにおられたのですか!クローフィニア様のお告げ通り」


「おい、あんたは一体?」


 俺がたまらず女に言った。女が俺の方を見た。上から下まで舐めるように視線を動かして、俺を値踏みしている。


「あなたは何ですか?なんだかまるでエアリスフィーネ様を従魔にしているように見えますが」


「アリスは俺の相棒だ」


「相棒!?」


 女が素っ頓狂な声を上げた。


「シュラムニケの内巫女の次期長じきおさを、相棒と?」


「あんたが何を言っているのか分からないが、アリスはもう14年俺の相棒だぞ」


 女が俺の言葉を無視して真っ正面からアリスに向いた。


「エアリスフィーネ様、私をお忘れですか?このフィルファレインを、それにキルティラーナ様を」


 アリスがぶんぶんと頭を振った。


「知らない、そんな名前など知らない!」


 殆ど悲鳴だった。


「エアリスフィーネ様!」


 女の声が鋭くなった。アリスが俺の肩の上でビクンと震えた。


「知らない……」


 アリスの顔がまた固まった。じーっとフィルファレインと名乗った女を見ている。いつの間にかアリスが俺の顔に回した腕も外れていた。


 そのままどれくらい時間が経っただろう。


 アリスの無表情に固まった顔にだんだん生気が戻ってきた。眼に光が戻り、頬に赤みがさした。俺に顔を向けた。


「アヤト」


「なんだ?」


「ボク一度シュラムニケに行った方が良いみたい」



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