第12話(下)

 武道館を背に、行進がはじまる。わたしとぽつねん先生を先頭に、八人の役員クラスが旗を持って横一列に並ぶ。今回のミスリル経典テロ事件に対し、そしてムジカレが禁書にされたことに対する抗議として、KADOKAWA、小学館、講談社、集英社、ソフトバンククリエイティブ、新潮社、早川書房、宝島社の代表者がそれぞれ、同じ大きさの旗を持って行進する。中央はもちろんKADOKAWAだ。深紅の旗の中央には、鳳凰の紋章がでかでかと掲げられている。旗を貫くように、黄色く電撃のマークをかたどっているのが普通にカッコイイ。目立つのはドラえもんカラーの小学館。男の子と女の子が向かい合って机に座り、本を読むロゴだ。

 そして、8枚の旗それぞれに、When the saints go marching in、という言葉が刺繍されている。ジャズのナンバーである「聖者の行進」の原題だ。

 特に巨大なプラカードを持つでもないし、道幅いっぱいの横断幕を持つでもない。出版社による旗の掲揚に続いては、陸上自衛隊東京音楽隊によるマーチングだ。そこいらのオーケストラでは太刀打ちできない音楽集団である自衛隊音楽隊。ホールでの演奏でも切符を取るのが大変な彼らが、町の真ん中を演奏しながら練り歩く。しかも今日の演奏は、すべてムジカレに関連する楽曲のみだという。クラシックの名曲を多数引用しているだけあって、オーケストラ・サウンドトラック・コンサートのハシりでもあるのだ。

 音楽隊に続いて、白バイの警官隊が道幅いっぱいに並んでいる。本来の聖者の行進は以上で終わりのはずだった。しかし。

 ざっざっざっざ、と人々の歩みの音が、アスファルトを伝って聞こえてくる。20万人の行進が、はるか後ろで始まったようだ。靖国通りの中心を歩くわたしに、沿道から大勢が手を振ってくる。だが、微笑むことも、恥ずかしがることもできない。淡々と進むしか無い。なぜか沿道の人たちは一言も喋らず、手を振るだけだ。車道と歩道を隔てる柵を乗り越える様子さえない。箱根駅伝の沿道のような盛り上がりは、まるでない。

 藤澤さんに用意してもらった、ローファーの見た目をしたスニーカー、は非常に革がやわらかくて、靴ずれをする感じもまるで無かった。通行人は無言、音楽隊の演奏だけが街に響いて、街宣車も何もなく、遠くに電車の走る音が聞こえる。異様な空気が行進を包んでいるような気がする。

 最初の10分は、本当に夢見心地のように歩いていく。

 しかし、旗を持って歩くのは本当に疲れるな、と思った。とても、そんなことは言えないけれど。


 靖国通りをまっすぐ進んでいくと、中央通りと神田須田町でクロスする。そいの交差点が見えた時、わたしは度肝を抜かれた。交差点の向こう側、岩本町の方向に向けて、あるいは上野の方向に向けて、人、人、人。コミケか! いや、それ以上だ。いったいどこに隠れていた? 靖国通りにあんなにもたくさんの人がいたというのに! 秋葉原の歩行者天国に集っている人なんてレベルじゃない。銀座の歩行者天国も全部全部数倍にしたところに、皇居の一般参賀も付け加えたような、JRのガードを越えた先まで見渡す限りの人が、列をなして、こちらを無口で向いている。全員がマスクをしている様子は異様であり、襟を正す気持になった。

 そしてわたしはこの辺から、緊張で意識が飛び、ただ使命感だけで東京ビッグサイトを目指すようになる。


───人です! いったい何千人、いや、何万人いるのでしょうか。ムジカ・レトリックの園を取り戻すためだけに、禁書を解くために、都内から、あるいは全国各地からどうやって集ったのでしょうか!

 わたしの直上を飛行していた数台のドローンで撮影されている映像は、国営放送ほかテレビ局のものにくわえ、インターネット動画配信も同時に行っていた。

───井守さんの旗が、人々の発する熱でたなびいています。しかし、先頭の二人、まったく歩みが遅くなることはありません。今入った情報によると、JR東日本東京支社は、14時ちょうどで山手線、京浜東北線、中央線、総武線、東海道線、上野・東京ラインの運行を一時中断。動いているのは、東海道、東北、上越、北陸ほか各新幹線だけとなっております。警視庁の道路封鎖により、千代田区、中央区、港区の各道路は夕方5時までの通行を禁止! この、聖者の行進が終わるまで、東京の人々は動くことができません! それより、井守さんは大丈夫なのでしょうか。

 わたしの斜め前方を飛ぶドローンをちらり、と見上げる。おおかた、血塗れの顔を撮影でもしているのだろう。

───聖者の行進の先頭は、神田須田町を曲がりました。……日本橋です。現在、首都高速C1線も通行止め。まるで聖火リレーのように、行進の前を横切るものは誰もいません!日本橋三越前、現在数千人が列を成しています。さきほど、KADOKAWAと警視庁の発表によると……、すべての列が通過したあと、飛び入りで行進に参加することを止めることはできない、とのことです。ただし、まだ最後列は靖国神社を出発できておりません。もし、聖者の行進に参加される視聴者の方がいらっしゃったら、横入りなどせず、十分に待ってから合流ください。また、マスク、フェイスガードをしていない方は参加できません。熱が37度以上の方は、参加を見送ってください。

 中央通りは、日本の街道の起点である日本橋を通り、銀座のど真ん中を南北に貫く通りだ。切れ目なく立ち並ぶビルを見上げれば、どのフロアにも人がいて、わたしたちを見ている。すべからくどのビルの前にも人が列を成している。なぜだろう。ただのラノベのイベントのようなものなのに、老若男女、様々なひとがわたしを見ている気がする。……、いや違う。彼らが見ているのは、紅和奏。そして、日本の自由なのだ。

『井守さん、現在参加者80万人突破。ゴールのビッグサイトに到着したら、君とぽつねん先生は最後まで待たずに、用意する車に乗ってください。大騒ぎになるから』

 80万人だって!? 福井県の総人口よりも多いじゃないか。

『80万人っていうのは、聖者の行進を歩いている人間の数だよ。沿道で待っている人はその数倍はいる。少なく見ても400万人。現在、世界中で中継されているよ』

「コメントでなんて書かれているか、少し読み上げてくれませんか? もう、へとへとです」

 八重洲を通り過ぎ、銀座和光の時計台に向けての行進は、もう直上に太陽があって暑くてたまらない。マラソンランナーと違って、わたしとぽつねん先生は水分補給なんて許されないのだ。この旗の重みをずっと感じながら、歩き続ける。

「So Crazy」

「Japanese OTAKU is COOL」

「LOL」

「LOL」

 途中から読むのが面倒なのか、それとも本当にそのようなコメントばかりなのか知らないが、ぶっ飛んでいることに変わりはないだろう。わたしもそう思っている。

「ちぃちゃん、周、がんばって」

 藤澤さんが読み上げてくれる応援コメントは、わたしとぽつねん先生の耳にしか入らない。その一つを聞いて、ん? とぽつねん先生がこぼした。わたしもだ。

「もうこれが東京オリンピックだね」

 違うと思う。

「コミケ、今度は秋にやろうぜ。できるって」

 夏コミから日が空いていないので、原稿ができないからボツ。

「我慢できない。今から参加してくる#聖者の行進に参加します」

 そういう人ばかりだから、行列が大変なことになるのだ。でも、ありがとう。

 さっきからずっと、頬の傷がずきずきと傷んでいる。どうしてだろう。切り裂いてから結構時間が経っているのに。


───今、新橋駅前です。見えました。中央通りの道幅いっぱいに広がった自衛隊音楽隊の演奏が聞こえてきます。曲目は、ドヴォルザークの「新世界より」です! この曲は、ムジカ・レトリックの園のアニメ内で使われた曲だそうです。先頭を歩く井守さんとぽつねんさん、非常に暑そうです。現在の気温は23度ですが、あの衣装の下には万が一に備えて防弾装備を入れているとのことですから。先頭の井守さんの頬が、血に濡れているように見えますが、あれはテロとは全然関係ない、メイクです。くれない、というヒロインのメイクだそうです

 和光の時計台は三時を指そうとするところだった。わたしたちはもう2時間も歩きっぱなしのようである。本の街、オタクの街、老舗の街、日本屈指の高級ショッピング街と来て、ビジネスの中心街に突入する。そして新橋、浜松町界隈はわたしの東京での勤め先エリア。ああ、どうか弊社。見てみぬフリをしてほしい。

───なお、井守さんが勤務されている会社は御成門にあるそうで、今日は社員総出で沿道を埋めるそうです。箱根駅伝みたいですね。井守さんは自身がムジカ・レトリックの園、くれないのモデルだと、社内報に入社時に書いたことから、社員は全員知っているそうです。

 見てみぬフリをしろというのに……。わたし、大学で演劇やっていてよかった。でなければポーカーフェイスを貫くことなんてできなかった。たとえ、貫けていないとしても、貫くことができる、と信じられる自身をくれたのはでかいと思う。そして芝・大門の交差点……浜離宮まで人でいっぱいだ。第一京浜をずんずん進めば横浜までいけるが、まもなく海の方に曲がる。旧海岸通りに出て、レインボーブリッジに向かうのだ。

───レインボーブリッジ、封鎖できません! これは、2003年の映画、踊る大捜査線THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよで言われたセリフですが、今回完全に封鎖されています。首都高速、一般道、ゆりかもめとも、一時間前から何人たりともレインボーブリッジを渡っていないのです。よほどの悪天候で無い限り、前代未聞。ああ、先頭の二人が坂を上がっていきます!

 延々と三時間、平坦な道を歩いてきた。はじめの靖国通りは軽い下り坂だからまだよかった。しかし、この勾配は人間が歩くことを考えていない。潮風も強く、さっきから旗がなびきっぱなし。ぽつねん先生も刀が重たそうである。それより、わたしたちもそうだけど、後ろの出版社の人たちすごい根性だ。

 まあ、ファンとしてのわたしの執念に比べて、飯の種である創作物のデモ行進だから、ね。

「この長い坂にへこたれないで、進みましょう」

 独り言のつもりだった。でも、マイクはわたしの声をばっちりと拾っていて、空中のドローンが各地に拡散させるのに1秒もかからない。なんて技術革新だ。その伝播はともかく、わたしの言葉を聞いて、ぽつねん先生は驚いたような、嬉しそうな顔を見せる。そうか、わたしはまたくれないの言いそうなセリフをナチュラルに……。

「疲れていないか?」

 ぽつねん先生が訪ねてきた。やまぶきのつもりなのだろう。くれないがどう応えるかわたしは覚えていない。でも、わたしならこう応える。

「疲れてなんかいられない。だって、目指す場所が見えてきたのだから」

 レインボーブリッジのはるか向こう、お台場のシンボルのひとつ東京ビッグサイトの逆三角が、うっすらと見えていた。どうやらムジカレ的にこの答えは正しかったようで、ぽつねん先生は一度頷くと再び前を向く。旗に当たる風が、どんどんと強くなってきた。防弾素材をかましている筈のスカートさえなびいている。

「お」

 ぽつねん先生が目配せしてくる。でもそれはわたしのスカートの裾などが理由ではない。ぐるり、と時計回りになって上る吊橋へのエントランスからは、後ろに続く人の波がとてもよく見えたから。思わず歩みを止めてしまう。ほんの一瞬だが、くれないとやまぶきは、聖者の行進の全貌を見ることとなった。

 人、人、人、人。第一京浜、中央通りに続く人の流れがわかるようなほどの熱気が、わたしたちのあとを続いている。集った人数、歩いた人数、後で知ったがゆうに500万人以上。コミケの十回分だ。この閉塞した今の日本で、ここまで大勢が集ったことはない。いや、今の世界ででも、だ。

 延期されたオリンピックが、予定通りに開催されたとしたら、これだけの熱狂が東京に生まれていたのだろうか。警官隊の後ろを、十人の見覚えある人間が横並びに歩いて、今真下を潜ろうとしている。

「ヒビナ……!」

 その十人はスーツ姿。中心には早霧谷とベータさんが並んでいる。その並びにはパイクさんだっている。それぞれのレビューをする作品を代表するかのように、登場人物の姿をまとった人たちも、一列になって歩いていた。コスプレ行列だ。一足早いハロウィンだ。横並びに歩くキーリ、ハルユキくん、遠子先輩。と、ずっと後ろにはキリトやアスナまで。作品の境界を越えて、わたし達10人がレビューをしようとした作家の生み出したキャラクターが、自由のために歩いている!

 早霧谷は、わたしの方を一瞬向いて、ウィンクした気がした。あんたが友達でいてくれて、本当によかったなと思う。

「みなさん、本当に……」

 感激が言葉にならない。わたしは言った。くれないは言った。聖者の行進に涙はいらない、と。傷口に沁みる涙なんて、埠頭を渡る風に全部任せて頭上より高く旗を掲げる。もう、疲れたって知るものか! この御旗のもとに、やまぶきと二人歩みを進めていく。きらきらとした水面も、海の向こう側にも集まった(お台場に行く術もないのにどうやって行ったのだろう)人の波にも気を取られず、ただただ行進は続く。

 

 そして。16時20分。

 たった15キロを歩くのに3時間以上かけてしまったが、わたしは東京ビッグサイトの正面入口にたどり着いた。聖者の行進のゴールは、建物の外。コミケでいうところの、リストバンドの確認をする入り口、だ。振り返れば、階段を今登ろうとする音楽隊が見えている。

 行軍しきったわたしとぽつねん先生は、その場に倒れることも無く、ただ並んでその様子を満足気に眺めるのだった。なびく旗の元に聖者の行進はやってきた。

 聖者は常に、自由を求め歩き続けるのだ。


「乾杯ッ!」

 都内某所、なんて書くと秘密のオフ会っぽくていい。ビッグサイトからKADOKAWA本社までパトカーで再びつれて来られたわたしたちは、蛹から脱皮して蝶々になった気分。

「いやあ、重かったです!」

 テーブルに向かいあうのはわたしとぽつねん先生。そして囲むように並ぶのは、藤澤さんと何故か早霧谷。あとベータさん。早霧谷はわたしのリクエストで、ベータさんとぽつねん先生、藤澤さんは旧知の仲だったからである。貸し切りであるこのビアホールでは、わたしたちのリクエストするメニューをなんでも用意してくれるという。ためしにガスエビ(金沢名産の色の悪いとても美味しい)の握り寿司をお願いしたら本当に出てきた。藤澤さんが手配したというが、この人わたしのツイッターやら昔のブログをくまなく読んで傾向と対策をつかんでいるのではないだろうか。

「井守さん、ぽつねん先生、おつかれさまでした!」

 60インチのテレビでは、「聖者の行進」の模様が臨時編成の番組で流れ続けている。テレビ局はどこも、ムジカレの禁書を解く姿勢に肯定的なので、アニメ版のシーンを随所に挟んだり、東京ローカル局ではくれない役の声優・三笠晴子を呼んでコメントをもらっている。

「いやあ、くれないのモデルってこの方だったんですね」

 奇異の眼差しで見ないでほしい。

「500万人のイベントなんて、ただのラノベじゃ絶対にできません。鉄道会社や都の協力もあって、怪我人無く終わらせることができ、本当に、本当によかった」

 藤澤さんが樽生のジョッキを煽りながら涙声で言った。医療関係者は正気ではないクラスタ形成だ、と苦言を呈しているが(当たり前だ)、ことがことである。概ね世間の過半数は肯定的に見てくれているようである。

「それで、藤澤さん」

「なんです、井守さん」

「ムジカレ、読ませてください」

「……井守さん、あなた読む必要ないですって。今日の発言の数々、そのまんまでしたもん」

「ちぃは、本当に自覚がなくて面白いね」

 早霧谷がクリークビールを飲んで顔を赤くしていた。

「別に面白くなった自覚なんてないんだけど」

「まあ、飲んで飲んで」

 香りのよいヴァイスビールをここまで美味しく飲めたのはいつ以来だろう。後顧の憂い無く今夜は眠れそう。東京中現在帰宅難民で埋まっているが、JRはゆっくりと動き始めているらしいから明日にはあの騒ぎも収まっているのだろう。

「いいから、読ませてくださいよ……」

 ここまでやったのだから、読んでもいいじゃないか。


 五件目の店でバーボンを頼む頃には三時を過ぎていた。せっかくの東京ステーションホテル泊だというのに……というまともな思考はとうに飛んで、わたしは、一次会から変わらぬメンバーに対しラノベへの思いを吐露していた。

「わたしはぁ、聞いてよベータさん」

「はいはい、ってあなた酒臭いしたばこ臭い!」

「うっさいなあ、高校一年生になるまで、わたしは友達なんて学校にいなかったんだ。クラスメイトが見た目がオタクっぽいね、ってハルヒのDVD、そっかあ、あのころDVDだったんだなあ、を貸してくれて、一気にはまったの。ただのオタクなんてもんじゃないよ……、一晩でハレ晴レユカイ覚えたし、一期は全セリフを書き出したんだからぁ……。文化祭じゃ……、クラスの映画を作って、わたしが、超監督、うふふふ、文化祭の日にはハルヒコス用意したんだよぉ……。大好きなんだ、ラノベがあって、友達がたくさん出来て、ヒビナとも…………部活でいろいろおしえてもらったもんね。ムジカレ……だってそのおかげだよねベータさん!!」

 自制のきかないわたしの声。ガラステーブルに伏せるように、ちびちびとバーボンに口をつけるけど、もう味も香りもほとんどわかりはしない。

「井守さんその辺に」

「言わせてよ、あなたたちの、おかげでわたしは、……ここにいるんだ。だからムジカレがある、ムジカレがあるから……わたしがここにいるんだよ……」

「いまのあなたは、ムジカレを読めるの?」

 昔話をする憂鬱なハルヒのように、ベータさんは冷たく吐き捨てる。

「十代の千尋ちゃんには刺さっても、二十後半の千尋ちゃんには無理かもな」

 それは自分にも無理なんだ、とぽつねん先生は言うようで。

「ちぃのムジカレへの愛の大半は、当時の思い出だよ」

 早霧谷だって、わたしの気づきたくなかったことを代弁するように。

「今の井守さんが読むには、聖者の行進をしたあとの井守さんが読むには、辛いかもしれないね……」

 藤澤さんも、最大限わたしを気遣うような声色でいう。

 なんでえ! なんでなのお!

 感情の起伏がサインカーブのように乱高下をし、周りもひどい酔っぱらいだらけ。押さえきれない、ラノベとの出逢いについてわたしは何度も、輝いていた、こっ恥ずかしい少女だった頃の話を繰り返す。

 まわりは結婚して、子供もいる。あるいは転職をして新天地でばりばり活躍していたり、そうでなくとももうラノベやマンガはほどほどにビジネス書を片手に電車に揺られるようになった。

 わたしは一方でどうだ。

 就職はできた。

 そこそこのお金をもらって、働いて。家に帰ればコミケの原稿やら、作家を目指して応募原稿やら。

「もう……29よ……、わたしは、大人に……」

 発売日になれば書店でラノベを買って、カバーなんて見られるのを気にせず電車でラノベを開き、微笑みを隠せないまま、あるいはお色気イラストは隠すように。まわりがスマホでゲームをしているかもしれないけれど、中高生のために書かれた作品を大のオトナが。少なくとも、見た目だけはオトナになっているわたしは未だに卒業ができない。

「これで……いいのかな。わたしは……作家じゃない……のに」

 自分ではきちんと喋れているつもりだった。だのに、彼らは何も言わないのはきっと嗚咽で溺れるわたしを見ていられないからだろう。聖者の行進、という大規模デモの先頭で旗を振った、凛、とした人間とは思えない愚痴。編集者が二人に、人気絵師。そして、わたしよりもずっと収入の高い高学歴な友達の前で、学歴も経歴も関係ない、幼心を忘れていないんだぞ、というアピールがまったくゼロではないライトノベルにかまけている人間の憂鬱をだらだらとこぼしている。

「わたしは、あの頃と同じように、ムジカレが読めるのかな」

 ぐっ、とバーボンを飲み干してけほんと咳をした。

 ムジカレとの出逢いは大学一年生の夏。新潟大学演劇研究部の夏公演が終わったあと、新潟駅のジュンク堂で手にとった、と読書メーターのコメントで確認できる。大学一年生の、あの頃は。キャンパスライフでおこるであろう様々なわくわくやロマンス、高校時代に体験できなかったような海に、山に、スキーにとやり残した青春と生涯の友達ができるのだ、とラノベにもそれを期待していた絶頂期だったのだ。

 それが、半年、一年と過ぎても、誰も友達なんて出来ない。部活だってビジネスライクのような人間関係だったし、引退後は着拒とかされている。彼らは、それで十分だと思った。だが、わたしは満足できなかったのだ。そのギャップを埋めてくれたのも、そしてもう高校生に戻ることはできないと教えてくれたのも、全部ライトノベル。ゴールデンタイム、やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。、青春ブタ野郎シリーズ。眩しい青春を疑似体験するたびにわたしはすり減って、そして、ある一作品がわたしをその度に満たしていった。

 ムジカ・レトリックの数々の作品だ。妄想と深酔いの中、なんとなくムジカレを一人、読んだ光景が思い出される。夏の午後の自室、旅行帰りの新幹線、合宿に行く高速バスの中、公演スタッフ待機のミスド、就職学内説明会の最中。

 日々、刻々と成長したわたしの感情が、ムジカレを受け入れたのだ。

 それが今やどうだ。

 くれないのモデルだから、ってムジカレを忘れてしまっている。この状態で。持っているつもりでも、本当は永遠に失った幼心の気持で。読めるの?

「わかんないよ。でも、読みたい。ただ、読みたい」

「そっか。そっか」

 強がったかもしれないわたしを、ただただ早霧谷は頭をなでてくれるばかりだった。もう一度ムジカレを読む。その行為が、再会か別離なのか。読んだわたしが決めればいいことなのだから。


 翌朝。朝? いや、もう十二時を過ぎていた。

 目覚めたのは、東京ステーションホテルの自室。パーティドレスもあちこちに脱ぎ捨てられていて、シャワーを浴びた記憶もないのにガウンにくるまって布団をかぶらずに今まで眠っていた。チェックアウト何時だっけ。まあいいや。

 脱水症状は、まぶたを開けた瞬間からわかる。備え付けのミネラルウォーターを一本まるまる飲み干すと、少しは身体の冷えが取れる気もした。ヘパリーゼがわずかでも効いたのか、そんなんにひどい二日酔いという気はしない。本当に二日? 24時間以上眠っていたんじゃない? とスマホを見てみたら、良かった。今日は10月4日日曜日。画面には、百以上のLINEメッセージが溜まっていた。聖者の行進がはじまる前から見ていなかったし、仕方ないか。

 あれ、留守電? メールも入っている。

『聖者の行進、見ました。ご苦労さま。本社から、クラスタ感染の可能性があるので、二週間出社禁止ね』

 上司からである。見なくてもいいのに……。まあ、懸命な判断だ。テレワーク用のPCは先んじて家に持って帰っていたからメールチェックなんかはやらなければいけないが、クビにしないだけよい会社に就職できた気がする。そして、もう一本留守電。今朝の七時台だ。

『レビューの締切を半月伸ばします。井守さんによるレビュー、期待します。雁ヶ音』

 そのラノの担当である。そういえば、初期の締め切りは明日、10月5日だったか。今日、今、この瞬間。ムジカレを読んだすべてを思い出せることができるのであれば書くことが可能だ。ううーん、……思い出せないね、仕方ない。

『大☆勝☆利!』

 そんな内容のラインが大量に入っていた。主に、『非実在ライトノベルをレビューする会』メンバーからである。みなさん、本当にありがとう。今度オフ会しましょう。参加10人が推しラノベが違って、その作品が一番おもしろいと思っている集団である。つかみ合いの喧嘩必至! 推しの最強合戦! 誰がどれだけ暗記して空で言えるか勝負! キャラクターを模したカクテル全種類飲むまで帰れま10!

 と、何が大勝利なのか。URLのリンクが、早霧谷から貼られている。


『禁書、解かれる』

 9月12日に、89人の犠牲者を出したミスリル経典テロ事件に関連して、「ムジカ・レトリック」シリーズは戦後国内初の禁書本となっていたが、10月3日に都内、ウェブ上で開催されたデモ行進「聖者の行進」を受け、文科相は4日7時過ぎ、「特にだれが禁書としたわけでもないが、そうせざるを得なかった「ムジカ・レトリック」シリーズの禁書は無い。この国における創作、出版はすべからく自由だ」と首相官邸にて発表を行った。

 文科相の発言を受け、「ムジカ・レトリック」シリーズを発売しているFE文庫(株式会社KADOKAWA)は、10月9日より同シリーズの発売を再開する見込み。同シリーズは2009年に発売され……


 そこまで読んで、わたしはベッドに仰向けに倒れ込んだ。

 やったな、わたし。

 太陽に手のひらをかざすように、旗を握った右手を上にあげてみた。筋肉痛で痛みはするが、この腕がムジカレをこの世界に取り戻してくれたのだ。聖者の行進がどのような影響を与えたかは、自分から覗きたくないが、どうせわたしの写真がたくさんあるから、結果は間違いなく禁書の解除である。

 つまるところ、9日になれば、ムジカレがもう一度読めるのだ。新刊図書として。

「やった…………あああああああああ!!」


 どうやら、あと二泊余計に手配してもらっていたようである。わたしはその好意を無駄にしてはいけないと、二日間まるでホテルに閉じこもって疲れを癒やしていた。日曜日のうちは、ホテルの前にマスコミが出待ちをしていたらしい。そして東京駅駅員に警察を呼ばれてちょっとしたいざこざになっていたようだ。知るか。

 感染者が出るかどうか、500万人が心配でたまらない火曜日、人生初グランクラスにのって金沢まわりで福井に帰る。四日間ではこのうら寂れた日本海側の街は代わりはしないが、世界は大きく変わった。いや、元に戻ることができたんだと奇妙な達成感がある。いや、達成はしたんだが、規模が大きすぎるとなかなかにそれを感じられないのが常なのだ。二週間の自宅待機ということで、わたしは積読を崩す気まんまんでいた。早霧谷との旅で手に入れたマンガの古本を一気に読んでしまうというのもいいな。仕事しろって?

 4日ぶりに自宅にたどり着いたわたしは、ポストに入った一枚の不在票を手に取る。宛先人が書いていない。誰だろう。まさか、爆弾?

「なんてね。書籍って書いてある」

 以前アマゾンに注文していた本がようやく来たのだろう、と再配達の電話をした。二十分くらいで来るという。

 手を石鹸で洗って、うがいをする。そして洗面台にうつった自分の顔をまじまじと見つめてみた。頬には、絆創膏が貼られている。その下には、自分で切りつけた刀傷。深さは5ミリほど、安静にしていれば痕がのこるかどうか五分五分だという。25歳未満だったら残らない傷だ、と言われた。女の顔の傷は好ましくないという印象があるが、なぜかこの傷は消えなくていいな、と鏡に微笑んでみたりする。

「ん?」

 一瞬、部屋のどこかから見られているような気がした。が、それは衆目にさらされた土曜日の記憶が蘇ってきただけなのだろう。20分と待たずに、チャイムが鳴る。

「ご苦労さまです」

 受け取ったのは、白いダンボール箱だった。アマゾンの薄い箱じゃない。無地で、伝票は丁寧な文字で手書きだったが、送り主の名前が無い。中身は書籍、と書いてある。そこそこ本が詰まっているのか、結構な重みがあった。テーブルの上に置くと、ガムテープを剥ぐ。なんだ、これ。

 箱の中には、梱包材で包まれた箱が入っていた。もしや、とわたしは梱包材をあせりながら剥いていった。そこに現れたのは。

 十六冊の文庫本。紫色の背表紙、金色の箔押されたタイトル。

 ああ、会いたかった。

 手に入れるにはかなりの労力を要した気がする。ムジカレの文庫本が、わたしのところにやってきた。

 手を伸ばそうとして、大きく深呼吸する。紙とインクの匂いが、鼻腔を満たしていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る