第8話

 9月24日、21時ちょうど。わたしはウェブカメラの前に座していた。

「こんばんはー、井守千尋……です」

 画面には、10のウィンドウ。うち一つは、左右鏡写しのわたし。姫カットで、2つおさげ。11年を経た高校の制服姿で映っているのは、とても恥ずかしいけれど、これがなにかのきっかけになるのならば……。しかし、全然余裕で着られたのは少々心外である。新潟高校の制服に袖を通したのは、大学一回生の秋公演「紫煙のゆくえ」以来。当時のわたしはまだ10代……じゃねえな。二十歳か。コスプレ感がある、と劇研の男子がからかうものだから、じゃあデートしてやろうか援交っぽいだろと言ったらお前は面倒だからそれは結構と言われてしまった苦い思い出が蘇る。

 とはいえ、この制服を着ると、ムジカレのヒロインではなく、ただ一介の女子高生だった頃を思い出す。毎日が楽しくて、学校の勉強がわからなくても、教室に、部室に、生徒会室に、たくさんの友達、クラスメイト、先生方。わたしのピークに向けての上がり調子だった時代。ハルヒに影響されて野球大会に出ようとしたり、ハルヒに影響されて映画を取ったり、ハルヒに影響されて文化祭のバンドを組んだり(しかしバニーではなく北高コスだが)、ハルヒに影響されて文芸誌という名の同人誌を書こうとしたり、ハルヒに影響されて……、あの作品がわたしに与えたものが大きすぎる。この新潟市内でも唯一の黒い制服の左腕、超監督の腕章を巻いた日々。そして、ハルヒに端を発して、とらドラ!、ゼロの使い魔、灼眼のシャナ、狼と香辛料、文学少女シリーズ……、料理や衣装や武器を作ったり影響されて様々な本を読んだり。わたしを作り上げたのはこの制服。そして、紅和奏の原点でもある姿。だとおもうとなんだか目頭が熱くなってくる。

『井守さんこんばんはー! って何そのコス!』

 わたしの挨拶に、まず反応してくれたのは、普通のスーツ姿のパイク氏だ。髪をアップにして、細い眼鏡にスーツ姿。さっきまで仕事をしていたのかしら。さすがにキャリアウーマンって感じがしてかっこいい!

『くれないのモデルキター! って、いきなりすみません。杉山です。pixivでイラスト描いています』

 パイク氏の下のウィンドウで、細マッチョな男が朗らかに挨拶をしてくれる。杉山、と言われてもわからない人だな、と思ったら、ペンネームは別にあります。杉山は本名です、とのこと。

『井守さんは存じないかもしれまんせが、葵せきな先生の某作品の主人公のモデルです』

「それって、杉崎鍵ですか! ハーレム宣言の、キーくんですか!!」

『ほら、井守さんやっぱり知っているじゃないですか』

 杉山さんの三つ右側のウィンドウに映っている、童顔でメガネの男性がそう言った。年齢はわからないが、成人はしていそう。どことなく白シャツが似合っていて、神木くんみたいな雰囲気。

『作家やってる田上海って言います』

『よっ、田原丸!』

 別のウィンドウから、中年の男性が茶々を入れた。

『ちょ、ちょっとペンネームは言わないでって言ったじゃないですか!』

 田原丸? もしかして。

「田原丸海里? ですか? 書店大賞の「マズメ時」の?」

『ああ、ご存知でしたか……。はい、僕が田原丸海里です』

「マジですか! 海洋小説大好きなんです! 迫力ありましたあのクジラ漁のシーンが! 台風の夜に読んだんです。もう、風の音と振動で酔いそうになって、わたし途中で本を読めなくなっちゃって……!」

 海洋小説で書店大賞を取った作家がどうして……。生徒会の一存にケントラルに、わたしがムジカレ。じゃあこのひとは何のモデルなんだろう。

『僕は、文学少女の井上心葉のモデルなんです』

「井上ミウ!」

 文学少女シリーズで、主人公の少年井上心葉は高校生。中学時代に井上ミウ名義で小説を発表したことで心をいためている。そうか、田上海だから、井上ミウ……。

『その名前やめてください! 井守さん! 一度喋ってみたかった……。本当に、くれないそのままなんですね』

 田上さんがそういうと、一斉に画面に映っている人たちが頷いた。わたしはくれないを知らないが、この人達は全員がムジカレを、くれないを知っているらしい。

「その、わたし、自分がくれないのモデルだということを知らないんです」

『三笠晴子よりずっとくれないの声ってイメージだよね』

『画面のキャプチャしていいですか!?』

 だめです! とは言えなかった。まだ、全員の自己紹介が終わっていない。それぞれの登録名はめいめい自分の使いやすいものにしているらしく、わたしは本名の井守千尋のまま。なんだか、ずるいな、とも思う。

『皆さん、いますね? いますね? じゃあこれより、第一回、非実在ライトノベルをレビューする会、全体ミーティングを開始します!』

 カーディガンを羽織った女性が、その落ち着いた容姿とはまるでかけ離れた元気な声で場を取り仕切る。その言い回しどこかで。

「ハルヒだ……。もしかして」

『やっぱり井守さんもわかりますか?』

 パイク氏がわたしの一人言を拾ってくれた。涼宮ハルヒの憂鬱時系列放映第三話にあたる涼宮ハルヒの憂鬱Ⅲにて、古泉一樹がSOS団に合流した際にあげた掛け声。あるいは、番宣ラジオのSOSラジオ支部でも平野綾が放送回数を言う時のトーン。

『ベータさん、ハルヒの2人めの担当編集の方なんですって』

『こんばんは、ベータです。今回の、そのラノ2021では涼宮ハルヒシリーズのレビューをすることになりました。でも、ハルヒのことをまるっと忘れてしまいました。今、消失まで読んだところですが、めっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっちゃ面白いですね! こんなにおもしろいラノベ、そりゃあスニーカー大賞ですよ!』

 弊社の係長か、副課長クラスの女性が、ハルヒをベタ褒めしている。そりゃあ面白いだろうけど、大のオトナがそこまで強い感情を込めて面白い、と言えるなんて。

 そして、もう一つの感情がわたしを襲った。

『もう一度、記憶を消してハルヒを読めるだなんて……。羨ましいです』

『それは、ムジカレでも、イリヤの空でも一緒ですよ』

 田上さんが言う。そうなのだ。おそらく、それぞれの作品のレビュアーは、成り行きはそれぞれでも、その作品を誰よりも愛している、といえる人間たち。何度も読み込んで、あるいは作品そのものとして生きてきた。わたしがどれだけムジカレに影響を受けているのか、正直なところ記憶にないのだが、少なくない影響だろう。自分が大学時代に書き散らしていたブログを見たところ、「アマデウス・メディアミックス」という言葉を作ってやたらめったら発信していたし、そしてその言葉がのちに公式にも使われるようになった、とはしゃいでいたし、なんとアニメのロケハンを行ったフィンランドのタンペレの街に行った写真まで残っている。バイト代をつぎ込んで50万で、しかもムジカレのフィギュアを持っていってオーロラの下で写真まで取っていやがった。バカなのかともかく影響を受けまくりの井守である。

 そんなムジカレ、記憶を消してもう一度読める、と考えるとすごいことなのかもしれない。だって、イリヤの空も、人類は衰退しましたも、当然ハルヒも、記憶を全部消して一から読み返したい。自分が高校生のときに高校生が主人公のラノベを読めば影響を受けるが、大人になって高校生のラブコメに出会ったらまた別の感慨があるのだろう。今、仮にハルヒを初読したら朝比奈さん(大)の気持に感情移入して泣くかもしれないが。

「みなさん、読み返すというか、レビュー作品、読んでいるんですか?」

『当然』

『三度読んだ』

『今なら最高のレビューが書けるよ!』

『むしろ井守さんはどうして……』

 サングラスの男があっ、と言ってすみません、と付け加えた。ちなみにズコーさんがこの人だ。ここにいる人達とわたしの決定的な違い。それは、今あらたに一から作品を読み返すことができるかどうか、である。

『ミスリル経典テロ、大変でしたね』

「はい。わたしもあわや、でした」

『井守さんが無事で本当によかったです』

「パイクさんには心配をおかけしました」

 ムジカレだけが、今あらたに読み返すのが非常に無理な作品なのである。なにせ絶版、事件の原因でもあるのだから。

『そうだ、どなたか井守さんにムジカレを貸して差し上げてはどうでしょう』

 杉山さんがそう言った。そうか、借りればいいのか。別に自分で買って読む必要はない。持っている人が貸せばいい。わたしが早霧谷に貸したことと一緒。そもそも、である。この初対面の「非実在~の会」の人に借りるよりも、ラノベをそこそこ読んでいる友人・知人に貸してくれと言えば良かったのではないか……、いや、それは違うか。わたしがムジカレについての記憶を失っていることを、あまり多くの人間に悟られたくはない。それを考えると、ここにいる人に借りるのが得策なのかもしれない。

「いいのですか?」

『もちろんですよ。僕のはもうボロボロだから、誰か別の人に借りるのがいいのでしょうけど、この中でムジカレ持っている人どれくらいいます?』

 全員が挙手をした。

『さすがですね。ちなみに、今回のレビューに上がった10作品全部読んでいる人は……』

 5人だった。ごめん、わたし終わりのクロニクル読んでいないから……。

「じゃあ、お願いしようかな。わたしに、ムジカレ貸してもいいよって方います?」

 誰かが手をあげるだろう、と思った。しかし、誰も挙げはしない。どうして。

『井守さん、ごめん。ムジカレ、ぼろぼろすぎて』

「パイクさんも? いいですよぼろぼろでも、大切に読むから」

『もうページが取れちゃっていて』

 それは読みすぎなのではないか。

『私のは、全部電子書籍になっちゃっているから。ゴメンね』

 ウィンクしながらベータ氏が謝る。そのポーズ含めてハルヒの新刊延期の告知そっくりじゃないか! と一人狂乱するわたし。結局全員、何かしらの理由をつけて貸したくは無いと言った。

「そんなぁ!」

 仕方ない、出版社が再販するのを待つしか無いか……、ってそれじゃあそのラノに間に合わない。そうだ、そのラノ編集部によこせ、といえばいいのでは。そうだ。それがいいわ。

『井守さんのムジカレの話もいいですが、本題に入りましょう。どうして、私たちが、書くレビューの記憶を失ったか、という内容です』

 ベータ氏が進行を続ける。

『そもそも、集団で特定の作品について記憶を失う、っていうのがおかしいんですが、全員にまず質問をします。そのラノ、一般レビューについて応募した方はどれだけいますか?』

 これはわたしも挙手。今年からオープンで様々なレビューを載せたいということで公募があった。

『ありがとう。じゃあ次に、一緒に感想文を送ったという人は? 編集部はその感想文があったから選んだと言っていますが……ゼロ、ですか』

 記憶の断絶はこのあたりにあったといってもいいだろう。一般レビューの締め切りは8月31日。つまり、わたしたちは8月31日から9月11日までのあいだ、何かしらをして、記憶を失ったというわけか。わたし一人でなく、10人がこのような状態になっているのだから、間違いなく記憶喪失である。

 でもどうやって?

 誰が? なんのために?

『そのラノ編集部が、新しく読んだ感動をもってレビューを書かせるためにやった、とは考えられませんか?』

 この中の最年長。ロマンスグレーの目立つ男性が発言をした。秋山瑞人の学友だと言う。

『その理屈は通りはしますが、そのラノ編集部にそんな力があるでしょうか?』

『超能力ですよ。記憶をいじくるだなんて』

『野﨑まどなら書きそうなシナリオですね』

「そうですね。最原最早的なシナリオをわたしたちに送りつけて来て……」

 パイク氏がいちばん話しやすいわたしに言うものだからつい、普段どおりに返してしまう。そんなラノベのような話、あってたまるかっての。

『記憶をいじる、ねえ』

 キーになっているなにか。例えばサブリミナル的な映像とか、音声とか、共通したなにかがある……っていうことは無いな。7月31日から9月11日の間、われわれ10人が間違いなくやっていることがキーになるだなんて、飯と風呂と睡眠とトイレくらいなのだろうから。

『みなさん、本は読みますよね。その10日間のあいだに読んだ本、それぞれ挙げていきませんか。そろそろ22時になるので、チャットで構いません。共通の作品があったら、それがキーになるのかも』

 ベータ氏のコメントでその日はお開きになった。その間に読んだ作品だって? 古野まほろのオニキスとか、はたらく魔王さま!の最終巻とか、今村昌弘の屍人荘の殺人とかいろいろあるな。読書メーターを見てみよう。

 読書メーターには、いつ何の本を読んだか、10年分の蓄積がある。まだ今年は200冊に到達していないから例年よりペースが圧倒的に遅くて困ったものだ。


 翌日、9月25日金曜日。それぞれのレビュー担当が読んだ本のリストを書き込んだ。そして、その中で唯一、わたし以外の9人が呼んでいる作品があった。それがきっとトリガーで、わたしはそれを読んだことすら忘れているのだ。だって、読書メーターには再読の記録をつけていない。だって、読んだことすら忘れているのは当然の作品だったから。


 全員が、その期間に「ムジカ・レトリックの園」を再読していたのだ。

 きっと、6年ぶりの新刊が出るニュースとともに、復習のために。

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