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(呂街くん猫は好きですか。私は好きです。今度は猫を飼います。
猫はサバトラで太っていて、鰯が嫌いだった。先生がかつお節しかやらないので猫は飢えていた。骨をやったらひっかかれた。犬とは違う。白飯は喜んで食った。変な猫である。先生は上機嫌で庭を弄っている。
鳥を捕まえましたよ。
雀をぶら下げて先生はいう。目玉は転がっている。先生が気にしていないようなので僕も忘れることにした。猫が雀を食い先生は喜んだ。
良い文章が書けそうです。
よござんした。
呂街くん猫を大事にしてください。呂街くん呂街くん。
なんでしょう。
ねずみは好きですか。
好きです。
じゃあたくさん飼いましょう。増えたらエリーが食べます。
鯖トラの猫もといエリーが笑ったように見えた。先生は上機嫌で部屋に引っ込んだ。タイプライタの音がする。
僕はねずみが好きだからエリーがねずみを食べたら悲しい。
でも先生には言えなかった。
呂街くん元気かいと隠れていた高野さんが顔をだし、名前も分からない白い花の枝を置いて帰った。花瓶がいっぱいだったので庭の土に刺しておいたらエリーが枝と戯れているうちに怪我をした。
呂街くん。
先生が叫ぶ。呂街くんエリーに気をつけてやってください。はいと叫んでエリーに包帯を巻いた。
呂街くん。呂街くんは優しいですね。りょがいくんのそういうところが好ましいと思います。
呂街くん。
先生はうるさくそういってから窓を閉めた。腹が痛くなった。キッチンで豚肉が焦げてしまった。水が少なくてエリーの面倒を見ているうちに鍋の底で焦げ付いていたのだ。
ソースでは誤魔化しきれず紙束を抱えて戻ってきた先生が失敗は誰にでもありますよと言った。)
件の家を猫がうろちょろしていると思ったら、どうも飼っているらしいのだ。
「先生が突然連れてこられて」
いつも通りリビングの椅子に通された俺の膝に、のすりと当然のようにデブ猫が陣取る。かわいげのない顔つきのサバトラは、撫でても文句を言わずに大きなあくびをしただけだった。
「あれが出かけるのか」
「ええ。ずっと部屋に籠っていてはなんだから、たまにはお外に出たらいかがですかとおすすめしたんです」
そんなことが可能なのか? 悪魔は触媒である花によってこの家に存在を固定されているはずではなかったのか。
嫌な予感を覚える俺に、呂街くんも神妙な顔で相槌を打ったが、それはどうやら別件に対する神妙さのようだった。
「最近先生が、あまり良くない可能性ばかり見えると言って塞がれているんです」
「別に、悪い可能性なんて大体いつも出てただろうに」
悪魔が打ち出した『不確定事象』とやらを解釈したり対策を講じたりするのはもっと上の立場の人間の仕事だ。
俺たちが気にするだけ無駄だ、という投げやりな気持ちで放った言葉に、呂街くんは少し表情を緩めると、俺の膝の上でまどろんでいる猫の耳をくすぐった。
「でも良かった、高野さんが触れるなら、エリーはちゃんと生きてるんですね」
「呂街くんだって触るだろう」
「そうですけど」
触れるのならそれは生きている。触れないならそれは死んでいる。絶対の法則を、それでも不安に思うのだろうか。
「悪い可能性って何なんでしょう。僕にも、先生にも、高野さんにも、エリーにも、何にもないといいけれど」
ああなんて狭い世界に彼は生きているのだろうと思う。そしてその狭い世界に自分が含まれていることに、恐ろしいほどの高揚を覚える。
「ね、大丈夫ですよね、ずっと一緒にいられますよね」
縋るような不安げな目つきに、あいまいに微笑み返すことしかできない。
「僕がいなくなったら、先生はどうなってしまうんでしょう」
どうもしないさ、とは口が裂けても言えなかった。
呂街くんがいなくなれば、また代わりがやってくるだけだ。俺の代わりに呂街くんがやってきたように。
そうして先生は先生ではなくなる。それだけだ。
「……しかしこのぶさいくがエリーか」
「先生がつけたお名前です」
自分のことでもないくせにちょっぴり自慢げな呂街くんであった。
家を出ようとすると、ちょうど悪魔が地下から上がってくるところだった。
「お前、いったい何を考えているんだ」
猫と外出のことを問い詰めようとしたが、真剣な表情で詰め寄った俺に対して悪魔は、ふん、と短く鼻で笑って見せた。
「お前の思うようなことは、何も」
「ふざけるな」
「俺はお前のしたいようにしてやってるのに?」
片眉を跳ね上げ、芝居がかった驚きを表する顔をなぜか似合わない、と感じた。
「憎むのも憎まれるのも、お前にとっては愛するよりもよほど楽だろう」
「お前に俺の何がわかるんだよ」
「何もかもさ」
奴の言うことは雲をつかむようで不快感が煽られる。
「……お前は何になろうとしているんだ」
「何になったって、どうせ見たい面しか見ないだろう? 安心しろよ、お前が望む限り俺は残酷で、彼は愚かでい続けるさ」
「俺がお前を望んでいるとでも?」
「そうだろう、でなければこうも言葉を尽くしはしない。あれは、何もお前に言いはしなかった」
そういって薄い唇が笑みのように歪む。俺は果たして本物の兄貴がこんな顔をするところを見たことがあるだろうか。もの言いたげな目で俺を見る、それ以外の表情を思い出せるだろうか。
じっと、言葉を押し包んで、言いかねて、まるで言葉を待つように俺の方を見つめる表情だけが脳裏で膨らんで消えていく。
「そのはずだ」
嘲りも苛立ちもない平坦な声が短く断言し、そうして悪魔は俺の脇をすり抜けてリビングへと入っていく。先生、と呂街くんの上げる声が聞こえた。
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