第3話
――――その熱は、誰が奪い、誰が温めるのだろうか。いつまでも止まない雨を遮ってくれる者は、果たして現れるのだろうか。
彼女の通り名は《葬祭のマリア》。本名は誰も知らない。
だから彼は『マリア』と呼び、拾ってきた犬っころみたいに飯と布団を与えていた。
今年の夏で二十六歳になった水神龍二は、《狩人》を生業として生計を立てている。無辜の民をアンデッドから守る仕事だ。
さまざまな歴史を刻んだ二十世紀も終焉を迎え、ほんの数年が経った頃のこと。世界は唐突にそして確実に、混沌の闇へと染められた。
ヒトのなかに突如として発症した屍症候群は、健常な体がある日突然に屍となって死に至る病だ。遺伝子異常だとか動物を介した伝染病とか、研究者の間でさまざまな憶測が飛び交う間に、恐ろしいくらい世界中に拡散され、猛威を振るった。
しかしそのわずか数ヶ月後、その屍症候群に免疫を持つヒトがぽつぽつと現れ始め、彼らの抗体細胞からワクチンが作られる。
事態は呆気なく、しかし急速に終息へと向かった。……かのように思われた。
『屍人加速細胞性免疫』。
一般人のなかでもっとも深く浸透している通称は【アンデッド化】。それが抗体細胞の恐るべき正体だ。
アンデッド化すると屍の身体になっても死に至ることはないが、屍のまま生き続けることを余儀なくされる。しかもその身体が求める栄養は、普通の食事ではなく。
――――『ヒトの死』である。
屍とは身体に栄養が回っていない状態で、脳にのみ活発な活動が見られる状態を指している。脳にさえ栄養が渡れば、彼らは幾らでも生き永らえることが可能だ。
身体に栄養が回っていなければ外的活動ができないはずだが、彼らアンデッドにその理屈は通用しない。
つまり視覚的、聴覚的にでも栄養となるものを摂取すれば、それで腹は満たされて活動可能だという道理。
もちろん身体的な成長は止まってしまい、ある意味合いでは不老となる。
が、じゃあなんでも観たり聴いたりして生きればいいじゃん、というわけにもいかない。
ヒトが新鮮な食糧を求めるのとまったくの同義で、彼らは眼前に新鮮で生々しい【死】を求めるのだ。
この屍人加速細胞性免疫に対して政府が行った対策は、すぐにワクチンの供給を止めることだった。
既にワクチンを接種した者は隔離され、アンデッド化の経過を観察する『保護施設』と言う名の檻に放り込まれた。我が子可愛さに保護施設への入所を拒否した親も多くいたが、大概がその可愛い我が子に殺される結末を迎える。
かといって、ワクチンなくして屍症候群が蔓延した世界に生きることは、不可能でしかない。
屍症候群で人類を滅亡させるか、屍人加速細胞性免疫でアンデッドを増やすか。人類の歴史を更新する、その選択肢。
決断したのは当時の政治的トップ勢ではなく、日本の研究者だった。
屍症候群の患者にワクチンを接種させ、アンデッド化を遅行もしくは免疫を停止させる新たなワクチンを開発するための、時間を稼ぐ。
それが一連の研究者トップを独走するひとりの男の、確固とした決断だった。
彼の英断にもちろん、意を唱えるものは大勢いた。
結局のところな多くのヒトをアンデッド化させるわけだから、危険が増大するのではという不安が常にある。
結果として世界が崩壊し、アンデッド化したヒトが退廃した街に跋扈しているこの有様を見ている龍二も、男の英断は愚鈍だったと評価せざるを得ない。
世間の批判に追い詰められた男が自殺したのは、ある意味では自明の理かもしれない。
アンデッドたちが蔓延した日本は、こうして首都圏の一部だけを守るように強固な壁を建設して封鎖。
大勢の国民を見捨てたうえ、小さな国家の再建と【化け物】からの解放を切に願って現在に至る……というわけだ。
「傲慢、か」
思い返せば随分と昔のような気がする、中学三年生の春先。長く屍症候群に苦しめられてきた母がワクチンを受けてアンデッド化し、父と妹を殺した様を見せられた。ふたりの断末魔と母の変わり果てた姿は、永遠に纏わりついて離れそうにない。
案の定、成人してからもその地獄は龍二の心を苛んで、時折嗚咽に変わることがある。
苦渋を飲んだように奥歯を噛み締め、龍二はふと隣を歩いているはずのマリアへ目を向けた。
彼女はどことなく、あの頃の母に似ている。
死を深く受容しているつもりで、本心のどこかでは怯えている瞳――――間際に感じる死神の口付けは、果たして彼女の味覚をどう刺激する?
季節は秋へと移りつつあり、風の冷たさも少し痛いくらいに身体へ響く。
路面のここそこには落ち葉が転がっている。古びたコンクリートを覆う樹木も、冬へ向けての準備を始めているようだ。
今朝の天気予報では雨が降ると言っていたが、本当になりそうな重い曇り空だと思いながら、龍二は空を見上げる。
折りたたみの傘を一本、持ってきてよかった。マリアは余計な物を持って歩き回ることを嫌うので、龍二のバックパックに忍ばせてある。ほかにも、鞄のなかはマリアの化粧ポーチや暇つぶしの文庫、ゲーム機でいっぱいで、龍二の持ち物は携帯食糧や応急キットくらいしかない。
それからすぐに、前へと視線を戻した。
すっかり憔悴しきってとぼとぼ歩くマリアの姿は、輝く美しさをすっかり台無しにしている。
「…………」
龍二は伸ばしかけた手を、しかし寸前で止めた。
一端の男であれば、ここは肩でも抱いて慰めるべきであろう。
しかし龍二と彼女は恋人でなければ兄弟姉妹でもなく、一滴も血の繋がりはないどころか……お互いの素性さえ知らない。まさしく【赤の他人】だ。
その受け入れ難い現実を突きつけられ、龍二は虚しく空を切った手を引っ込めて黙々と前に向かって足を運んだ。
――――いつかこの地獄を終わらせたい。
龍二はその一心で研究職に就いた時期もあったが、半年ともたなかった。アンデッドの数が健常者の数を上回り、もはや研究どころではなくなったのだ。
新体制をようやく整えた政府は研究機関の規模縮小を宣言し、代わりにアンデッドから物理的にヒトを守る対策を講じた。それが現在の《狩人制度》であり、実際に健常者の死は微量ながら減ったという報告がある。
狩人に特別な能力があるわけではない。自衛官などの、国に身分を保証された存在でもない。その身で戦う術を政府公認の自衛機関に叩き込まれ、ライセンスを得た暫定的民間警備員という位置付けだ。
武器も旧時代に製造された物を、危険蔓延る居住区外から発掘してメンテナンスされたもので、特別にレーザービームが出るとか炎が吹き出すといった仕掛けは一切ない。
現在の日本に新しい武器を製造するだけの生産力はなく、メンテナンスオイルや弾薬などの消耗品はもちろん、壊れた武器の部品や代替品が尽きる日は近いとさえ囁かれている。
狩人の役目はその身を賭して、一般人民からアンデッドを守ること。
研究者として三流だった龍二は新たな食い扶持を求めて、狩人のライセンスを得た。
幸いにして体力や運動神経に自信があった龍二は、これまで戦ってきてどうにか生き延びることができている。
研究によって得た中途半端な医療知識も、命懸けのまさに危機的状況では活きる場合ばかりだ。狩人は研究職よりも天職だったのかもしれない。
親戚筋も件の病気によってとうに途絶えており、本当の意味で天涯孤独となった龍二だが、むしろ生活は豊かだと感じている。自分で稼いで、衣食住も困らない程度に整っていて、煩わしい人間関係も一切ない。
恋人のいない侘しさを痛感するその気持ちも、もはや麻痺してしまった。
なのにどうしてか。年齢や本名すら知らない彼女と出会い、いまでは共に一つ屋根の下で暮らしている。
血の雨に濡れそぼったマリアと出会ったのは、龍二が狩人になって二年が経った日のことだった。
以前から《葬祭のマリア》の噂はよく耳にしていた。
とりわけて可憐な容姿なだけに、やっていることは他のアンデッドと変わらないはずなのに、悪目立ちしているように思える。
よくあるシスター服みたいな黒装束も特徴的で、見かけた瞬間にすぐ彼女とわかった。
しかしこれまで排除してきたアンデッドと彼女が違うことも、ほんの一瞬でわかった。
彼女が落とした涙は、決して自己中心的でヒロイックな陶酔や憐憫ではない。
他の誰かの命を守るために、わたしを殺してほしい……偶然その場に居合わせただけの、初対面の龍二に向かって彼女は縋った。
アンデッドを殺す術は単純明快だ。彼らの『急所』を探り当て、どんなにひ弱なナイフを使ってもいいから傷つければいい。
しかし彼らの『急所』には個体差がある。心臓がそれの奴もいれば、極端な例を挙げれば指の先や髪が急所の奴もいる。
アンデッドの本能なのか。大抵は戦っている最中にその場所を庇う癖があるから、狩人は戦いながら観察するのが常だ。動きながらの観察はひと苦労ではあるが、慣れてしまえばどうにでもなる。
しかし《葬祭のマリア》には、そういった特徴が見受けられない。
急所がわからなければ、アンデッドは殺せない。それは彼女も例外ではない。
彼女が龍二のアパートに転がり込むようになったのは、それからすぐのことだ。
少女を『マリア』と呼び、常人のそれと同じように食事を与え、数少ない共通の話題を絞り出して口にし、同じ部屋で眠る。――――まるでひとつの家族のように。
龍二のなかでマリアの存在が、日々を追うごとに大きくなっていったのは自然なことかもしれない。
いつしかマリアに『死なないでほしい』と、『共に生きてほしい』とさえ……密かに願うようになっていた。
その感情は罪なのか、或いは罰か。
龍二の首を優しい真綿のように、少しずつ締め上げていくことになる。
ようやく二十一世紀を迎えたばかりの日本は、しかし発展とはほど遠く、すっかりうらぶれてしまった。
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