葬祭のマリア

雨霧パレット

第1話

 銀月を映しだす景色はいつも、悲嘆の濃い色味を帯びている。

 滑るように柔らかな湖面を撫でる指は、静謐で華奢なラインを描いて月に触った。

 翡翠の瞳が映しだす光は、いつだって闇を内包している。

 この美しい箱庭の先はきっと……誰も立ち入ることを許されなかった、神々の楽園が待っているのだ。

 盲目の金糸雀たちは捥がれた翼の痛みも気づかず、空想にばかり浸るうちに――――。


 一九九九年七月—―――。

 誰とも知れない予言の通りに【恐怖の大魔王】が舞い降りたこの世界は、呆気なく崩壊した。

 救いを求める声は聞き届けられることなく、丸三年を過ぎたいまでも混乱は停滞している。ひび割れて朽ちかけのコンクリートが乱立する廃都市、世紀末の東京都心部はすっかりうらぶれていた。

 全盛期に着々と増え始めていた超高層ビル群は、いまやすっかりもぬけの殻となって完全に放置。ビル内部にはデスクやら電化製品やら家具やらが、そっくりそのまま残されていた。

 その上から這うように咲いている草花だけが、この空間で生き生きとしているように見受けられる。

 このずっとずっと遠方には、赤き果実のように禁じられた【世界】が存在する。

 東京都、神奈川県、千葉県の一都二県を完璧に覆う巨大な壁は、蔦や苔にびっしりと包まれていながらも、一部の隙もなく強固に立ちはだかっていた。かつてなんの隔たりもなく隣接していた他県は【奴ら】によって滅び、日本列島は砂礫と化している――――そういう言い伝えだ。

 実際に壁の外がどうなっているのか、現在の状況を目にしたという一般人はいない。政府関係者やその手の研究者や自衛隊などの限られた者たちが代表して壁外へ赴いているようで、その様子の一端が噂程度に流布するくらいだ。

 壁外にもはや生存している人類はいない、という絶望視が広まるほど、【彼ら】による打撃は深刻なものとなっている。

 あの壁がなかった頃。どこまでも広がる街の様子など、人びとの記憶から風化し始めているかもしれない……閉ざされたこの箱庭では、羽ばたくための翼すら退化していくのだ。

 壁の内側でも最外周のこの辺りは、生きたヒトの気配はすっかり息を潜め、物々しい風が耳に痛々しく吹きすさぶ。

 敏感に危険を察知した動物たちは、この街に寄り付くことを恐れてしなくなった。いまでは鳥の囀りさえ聴こえない。

 完全なる静寂が、広範囲にわたって支配している。朽ちかけた高層ビルの隙間で、目に余るその光景は惜しげもなく繰り広げられていた。

 阿鼻叫喚、死屍累々、冷酷無残、残虐非道、八大地獄。

 大小あらゆる臓物と血の華々を灰色の無機物に咲かせた、禁断の花園。生々しい殺戮の世界。この世のあらゆる言葉を駆使しても、この煉獄を表現しきれることはない。

 まず四肢の自由は即座に奪われ、爪は一枚ずつ剥がされ、白い皮膚は掻き切られ、指が一本ずつ引き千切られ、鼻は削がれ、目玉は抉られる。ふくよかな腹は裂かれて長い小腸が無感動に引き摺られ、大量の血液とともに桃色の肉が掻き出されて、白く健康な骨がまる見えになった。

 今回の犠牲者は女性で、妊娠していたらしい。成長しきっていない豆粒のように小さな胎児が、子宮から産声をあげることなく無惨に引き出される。

 生きたまま内臓を引きずり出された感覚って、どんなだろう。自分の肚のなかを生まれて初めて見せられたその、感情は。

 なんて……彼のなかでぼんやりと浮かび上がる疑問は、果たして場違いなのだろうか。

 そこまで考えて、彼は本日何度目かわからない苦笑を浮かべた。その笑いは至極、人間らしい感覚をどんどん失っている自身への嘲弄にも似ている。

 ――――俺も焼きが回ったのかな?

 そもそも女性はとうに目玉を刳り抜かれており、その時点で視力そのものを失ったのだから、光景もくそもない。

 光も音も嗅覚さえ失った真っ暗闇の世界で、女性は次々と襲い来る痛みの奔流へ呑み込まれる。まさに雁字搦め。

 彼が思考で遊んでいる間にも、彼女は『本日のディナー』を進める。

 悲鳴がお気に召さなかったらしい。叫喚する女性の小さな喉に無理矢理、手を突っ込んで乱暴に潰した。これで苦しみを訴えるすべは、余すことなく奪われたことになる。

 女性のなかに残されるのは千切れんばかりの強烈な痛覚、永遠かと思える苦しみ。そしてこの所業を成した者への深く暗い憎悪。

 黒く淀んだ世界に沈められたような、虚無的な死が女性を待っている。

 彼の眼前で繰り広げられるその煉獄は、あまりにも平和な日常とかけ離れていて、表現できる言葉がないくらいだ。煉獄地獄よりもなお恐ろしくて悍ましい。

 現実から離れすぎたものは、通常の感覚を大きく麻痺させる。


 いつからだろうか――――人の【死】がこんなにも『当たり前』になった日は。

 辺りに漂う生々しい血臭さえも、いまの彼にしてみたらもはやありふれた空気のようなもの。

 幾度も繰り返し見てきた、有り体な光景。

 初めて目の当たりにしたときは、見ているだけなのに彼らの痛烈な苦しみが伝播しているような気がして、胃の中がひっくり返りそうな思いを堪えきれなかったものだ。

 しかしいま、彼のこころは自分でも驚くくらいに、不思議と静まっている。

 凪いだ海のようにほとんど揺らぎのない、穏やかなこころ。

 自分でも相当に毒されたと感じて、たぶん今日はこれで百回目だろう苦笑を浮かべる余裕すらまだあった。

 人が死ぬという現実は、こんなにも呆気なく受け入れられる事実なのだろうか。

 人はこんなにも、簡単に死ぬものなのか。こんなに簡単に、肉体と魂は切り離されるのだろうか。

 両親と妹のときは――――もう忘れてしまった。彼らを想うのであれば決して忘れてはいけない過去なのに、いまの彼にとっては裏切りといっても過言ではなく、信じられないほどに色褪せている。

 頁を捲ってもいいし、別に先を急がなくてもいい。


いつ見たってその光景が変わることはなく、いくら想いを込めても家族は生き返ったりしない。太陽が沈んだら月がのぼるくらいに当たり前だ。

 それよりこの後の処理を考えなければ、後々に面倒ごととなる。それだけだ。

 その煉獄の光景を創り出した当人は大きな瞳に涙をいっぱい零して、細くて白い手を汚し続けている。形のいい爪の間にも、血が隙間なく這入り込んでいた。

 錦糸のような柔らかく美しい髪にも血がこびり付き、時間の経過とともに凝固して黒ずんできている。

 鮮血のように濁った光を放っていた瞳は、水彩絵の具を水に溶くような様相で徐々に本来の色を取り戻しつつあった。

「ごめんなさい」と啜り泣く彼女のために、彼は何度も止めようとする。なにより彼のなかでほんの僅かに残った塵芥のごとき正義感が、この景色を許してはいけないと鬩ぎあい喚くのだ。

 しかし彼女自身にも、もちろん彼にも。誰にもこの蛮行は止めることができない。

 神様というものがいるというのなら、と。

 何度も祈ってみたけれど、どうやらその祈りは届いていない。いくら流れ星を見つけても、願いを聞き届けるものはこの世のどこにもいない。

 彼女は殺戮の限りを尽くし、望まないのにこの世に留まっていた。

 天使のように可憐で清純な見た目で、彼女の手は残酷にもヒトを黄泉へ送り続ける。

 光を受けると白金に近く見える長い銀髪、宝石の光をそのまま閉じ込めた翠緑の瞳、柔らかそうに潤んだ白磁の肌。唇は桜の花弁を思わせる瑞々しさと可憐さが同居していて、触れたら壊れてしまいそうなほど儚げ。

 髪と同じ色の睫毛は豊かで長く、化粧を施さなくても人形のように美しく精緻に整った顔立ちは甘く、見るものを一瞬で虜にさせる。

 その身に纏う黒装束は一見して修道服みたいな形で、神へその身を捧げた敬虔な使徒のよう。なのに血に染まりきったその華奢な背は、まるで死神か悪魔だ。

 《葬祭のマリア》。

 それが彼女の通称であり、忌み名でもある。

 あまねく生命の葬祭を執り仕切る、艶美なる死神の名前。

 惨虐と死の芳香が多分に溢れるこの世界で、もっとも死を求める、痛々しい悲しみを湛えた少女。

 冷たいコンクリートに打ち棄てられた肉片は、もはやなんの音も奏でることがない。

「早く……早くわたしを殺して」

 異常で理不尽な殺戮を終えた彼女は、いつも彼に縋る。

 鳥籠から解き放たれて狂った金糸雀みたいに、彼からの、或いは神からの断罪を求めて呼ぶ声。普段であれば甘露のごとく透き通った美しい声も、いまは悲嘆の色に染まりきって掠れている。

 彼女に降り注ぐ雨をしのぐための、傘は誰が差し出すのか。


 彼は彼女の願いを叶えるべく、彼女の身体に鋭いナイフを振り下ろす。ひびの入ったコンクリートに鮮やかな赤い花が散った。

 何度も、何度も、何度も。

 彼女の身体を切り刻む。痛めつける。陶器のように白く滑らかな肌に無数の赤い傷を、その手で刻み続けた。

 運命の赤い糸、などといったロマンティシュな表現は似つかわしくない、その赤く痛々しい痕。

 彼女の願いは、しかし叶うことがない。

 ヒトを殺すことでしか生き永らえられない彼女。だけど本当の彼女は、優しすぎる普通の女の子なんだ。

 だから幾度も、数え切れないほどに、その生を棄てようと足掻いてきた。

 誰も彼女の本当の名前など知らない、本当の心なんて知らない、こんな世界で。彼女は泣きながら、悲しみながら、後悔しながら、或いは諦念の境地か。残虐にヒトを殺し続けていた。

 彼女に傘を差し出すのは、俺であってほしい……と彼は密かに祈っている。

 ――――これは俺と彼女が出会い、殺しあい、愛しあうまでの物語。

 狂った世界で確かに生きていた彼女のことを、俺は忘れたりしない。

 だけどいつか君を追い越して、見えないくらい距離が離れていってしまうかもしれない。

 どんどん、どんどん。君との距離は開いていき、やがて俺の目の前は真っ白になる。

 俺が生きる限り、君との距離は無限に離れていく。だけど俺は君が手放した『生きること』を、決して棄てないと誓った。

 いつか色褪せる君との毎日を、古いアルバムみたいに捲りながら。

 遠ざかってしまった君の面影を、指でなぞって。どんなに遠い遠い世界へ消えてしまっても、あの日の道を違えても。湖面に映る月が雲に覆い隠されたとしても。

 俺は君を、こころの片隅で想い続けるよ。

 夕焼けの空にぽっかり浮かんだ、白い月みたいな君との思い出。誰にも染められない、汚されないあの日々。

 雨に濡れてもなお輝きを失わない、その尊くも美しきたったひとつの光。

 君に染まった俺のこころを、君に狂ったその魂を。

 君にそっと……見せてあげる。

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