10日間の<死に戻り>
矢作九月
第1話
遠くで、火災報知器のサイレンが鳴っている。
猛烈な熱風に吹き付けられて、田中は我に返った。
既に室内には、煙の塊が充満している。煙草の煙などとは比べ物にならない、やけに立体感があって、黒い蛇のような煙。視界のところどころ、明るいオレンジ色の炎が上がっているのも見える。
脱出しようにも部屋一面の煙のせいで、出口の方向はおろか、今室内のどのあたりにいるのかさえが分からない。なんとか呼吸を整えようとして息を吸うと、灼熱の煙が肺を焼いた。思わず咽せ込んだ拍子に、よろめいて、なにかに躓いて倒れた。
(自分は、ここで死ぬのか…。)
脱出するどころか、もう、立ち上がることも難しそうだ。炎は勢いを増し、轟音が建物全体を揺さぶっている。田中は床にうずくまり、今しも終わりを迎えそうな自分の人生について思いを巡らせた。
最後だというのに、つらいことばかりが頭をよぎった。とりわけ人生で経験したいくつかの死別、悲しみ、やり場のない怒り…思えば、暗い人生だった。ここで終わったって、なんの未練もない。
(しかし、よりにもよって、業火に焼かれて死ぬとは…クズみたいな人生を送ってきた自分には、ふさわしい死に方だ。)
田中はごろんとうつぶせになり、目を閉じた。
この後、炎に包まれた天井が落ちてきて、そこからの意識はない…自分はそこで死んだのだろう。
田中はふと引っかかりを感じ、目を開けた。
自分は、死ぬ瞬間のことを「覚えている」。まるで死んだ後、死ぬ瞬間の記憶を「思い出している」かのように。
(そうか、これは…。)
きっと夢を見ているのだ、と思う。
自分が死んだときの記憶を、夢として見ている。死んだあと、夢を見ることがあるのか、分からないけれど。どちらにしろ…俺はもう、死んでいる。
思い出した瞬間、田中は夢から覚めた。
◆◆◆
そうして、田中悟は死んだ。42年の生涯を、不運な火災で終えた…はずだった。
(自分は死んだはずでは…?ここはどこだ…?)
夢から覚めた田中は、目だけを動かして、ゆっくりと周囲を見渡した。どうやら室内のようだが、やけに薄暗い。天井は高く、ドームのような球形になっていて、曇った灰色と黒のガラス片がモザイク状に貼られている。田中自身は、硬くて黒い床の上にあおむけに寝ているようだった。上半身を起こすと、何本かの柱がむき出しになって見えるほかは、壁も窓も扉も見えない。当然、黒い煙も燃え盛る炎もなかった。
「目が覚めましたか。」
声につられて振り向くと、男がいた。
がらんどうの空間に、ひじ掛けのない椅子がぽつんと置かれ、そこに男が座っている。
年のころは読めない。よく見て観察しようとしたが、不思議なことに、うまくピントが合わない。ただ細身の男性が、足を組んで座っている…そんなシルエットが、何重もの靄ごしにかろうじて見える、そんな奇妙な見え方だった。声からすると、中年を超えているようにも思えるし、逆に少年のようにも感じられる。
とにかく、今まで、田中が会ったことのないタイプの男だ…少なくとも、死ぬ前は。
死ぬ前は。
そうだ、と田中は大事なことを思い出した。自分はあの火災の中で死んだはずではなかったのか。
とりあえず、目の前の男に疑問をぶつけてみる。
「俺は死んだはずでは…。」
「そうです。貴方は死にました。ところで、ここがどこだか知りたくないですか?」
男の問いにはじかれるように、田中はもう一度、周囲を見回した。そんな田中の様子が面白かったのか、男がくすくすと笑う。
死んだ後に来る場所で、何もなく、ほの昏い世界。明らかに、天国ではなさそうだ。ということは…
「地獄、ですか…。」
「当たらずとも遠からず。ここは地獄の前室です。本当の地獄は、向こう。」
男が田中の背後を指さす。田中は振り向いて確認したが、ただ薄暗い空間が広がっているだけで、何も見えない。ずっと奥に地獄の入り口があるのかもしれない。だとすれば、前室とはいっても、この空間はかなり広そうだ。
何もない空間に目を凝らしながら、これから自分が地獄に落とされようとしているのだと気づき、田中はやや身じろいだ。その一方、この状況を冷静に受け止めている自分もいることに気づく。
この後地獄に落ちるにしても、今のところ、この男との会話を続けていてもよさそうだった。
「あなたは…?」
「わたしですか?わたしはまぁ、管理人のようなものです。…それにしても落ち着いていらっしゃる。まるで自分が地獄に落ちると確信しているような反応ですね。」
「それは…。クズみたいな人生を送ってきましたから。」
「…なるほど。」
男はしばし間を置いた。
「もし、10日間の<死に戻り>を許す、と言われたら、貴方はどうしますか?」
◆◆◆
「<死に戻り>ですか…?」
予想外の男の言葉に、田中はあっけにとられた。
「それはどういう…。」
「貴方が死ぬ10日前に、世界そのものの時間を巻き戻します。そこからやり直していい、ということです。」
世界そのものの時間を巻き戻す。男はそんな荒唐無稽なことを、至極淡々と説明していく。
田中が死ぬ直前10日間をなかったことにし、10日前からやり直す。もちろん田中以外の世界はすべてリセットされるので、周囲の人々をはじめ、世界中の誰一人その10日間の記憶はない。単純に世界中が10日前の状態に戻り、そこからまた、改めて時間が流れ出す、ということだ。
だが、田中だけは、<死に戻り>以前の記憶を保持できる。そしてやり直した結果、死ななかったら、そのまま生き残り、人生の続きを生きていくことができる。
つまり、うまくいけば、死ななくてすむかもしれない。その権利が田中にはある…。男の説明をまとめると、ざっとそういうことだった。
一通りの説明を聞き終えた田中は、最初に脳内によぎった素朴な問いを、そのまま口に出した。
「それにしても、どうしてそんなたいそうな権利が、俺に?」
「貴方が条件を満たしているから。」
条件、とは何だろうか。田中は少し待ったが、それ以上の説明はないらしい。シンプルな答えに、田中は腕を組み、しばし思案を巡らせる。
(とはいえ、生き延びたところで、ねぇ…。)
…正直なところ、乗り気がしない、というのが最初の感想だった。
クズのような人生だった、と自分でも思う。
最愛の者たちと死に別れた後は、本当に空虚だった。好きで始めたはずの仕事も、いつしか惰性になっていた。やりがいの感じられない仕事をして、一人ぼっちの家に帰る。人生にほとんど意味が感じられず、楽しみもなかった。
それを、たかだか10日巻き戻したとして、何になるだろう。たとえばなんとか、死なずに済んだとして、「やり直してまで生きる価値のある人生」を手にできるものだろうか。もう少し長い期間、たとえば1年単位で戻れるならともかく…そこまで考えて、田中は男に質問してみた。
「…1年前に戻る、というのはできないんですか。」
「1年はさすがに。10日間でも大サービスなんですから。」
男の返答はにべもなかった。田中はぽりぽりと頭をかく。
「うーん…せっかく貴重な権利をいただいても、俺には勿体ないような…ほかの人に譲ってあげたいくらいなんですけど。」
「これに関しては、誰でもいいというわけではないもので…。」
男は困り顔で続ける。
「多くの方は二つ返事で承諾するものですが…貴方は人生に未練がないのですか?」
「未練、ですか…。」
男に問われ、田中はまた、つらつらと思い返す。まずは直近から…やり直していいと言われた、あの火災の10日前から。
…そして、思い出した。
あの火災現場にいたのは、田中だけではなかった。
どうしてこんな大事なことを、一番最初に思い出さなかったのだろう、と後ろめたく思う。あまりの奇妙な状況に、すっぽりと記憶から抜け落ちていたのか…とにかく思い出したからには、聞かずにはいられない。
「彼女は…美冬さんはどうなりましたか。」
榊美冬。あの火災現場にいた、もう一人の人物だった。
「彼女は死にませんでした。一命は取り留めましたが、重傷です。」
「けがは…」
「かなり重度の火傷を負っています。一生跡が残ることになるでしょうね…また、治療がひと段落したら、警察の取り調べを受けることになるでしょう…田中悟殺害の容疑者として。」
男はまるで愉快な物語を聞かせるかのように続けた。
「俺の…殺人、ですか?」
「それはそうでしょう。彼女が火をつけて、貴方が死んだのですから。」
確かに言われてみれば、それは当然のことだった。なぜなら、あの時、火を放ったのは、彼女なのだから。
放火犯で殺人犯ということになれば、もう今後、普通の暮らしはできないだろう。火事で負った火傷に加え、一生を殺人犯として、その償いで終えることになる可能性が高い。だが、しかし…田中はしばし考え込んだ。
「物足りませんか?自分を殺した人間が受ける罰としては…。」
男が、田中の内心を見透かすように問う。
田中は、答えなかった。
「そんなものです。人間の命の重さは平等ではない。他人の人生を奪っておいて、自分はのうのうと生き続ける人間もいるのです。そんな相手の人生も奪ってやりたいと思うのは、貴方だけに限った話ではありませんよ…。」
「その話は止めましょう。」
まるで歌でも歌うように述べ立てる男の話を、田中はたまらず遮った。そんな話は聞きたくもなかった。
「…人生に未練はないですが、<死に戻り>する理由は、見つけたかもしれません…。」
田中は、絞り出すように、呟いた。
◆◆◆
田中の言葉に、男は我が意を得たりとうなずいた。
「ではさっそく10日前へ時を戻しましょう…おっと、この期間中は、こちらから見張りをつけさせていただきます。」
男は言うと、ぱちん、と指を鳴らした。
どこからともなくそこに現れたのは、ひとりの少女だった。その姿を見て、田中は、目を見張った。
「死神の見習いをしております。
…まず目を引くのは、左頬の刺青。タトゥーというより、どこかの先住民の「文身」のイメージに近い。まるで燃え盛る炎のような文様が、藍色の線で、目の下から顎にかけて刻まれている。刺青のせいで、ただでさえ勝気な印象を与える鋭い瞳が、ぎらぎらと殺気を放っているようにすら見えた。
そして何より、肩甲骨あたりから生えている翼。腕をいっぱいに伸ばしたのより少し短いくらいの横幅で、少女の腰回りあたりまでを覆っている。灰黒地にところどころ白い斑が入っている。
その2点以外は、街で見かける中高生と何ら変わりなかった。
「君は…。」
「死に戻ってから10日間は、彼女とともに過ごしてもらいます。ほら木菟、ご挨拶なさい。」
「…。」
木菟は男に促され、田中にちらりと目をやった。鋭い眼光を一瞬だけぶつけ、すぐに顔を背ける。まるで反抗期の女子中学生が、嫌いな父親に対するみたいだな…と、田中は訳もなく思った。なぜか出会った瞬間から嫌われているようだった。
「死神の見習い、というのは…。」
「そのままですよ。もうすぐ死神になる者です。死んで、本当は天国に行くはずだったのですがね…。現世に強い未練があると、天国に行けず、死神になるのですが…。」
「そんなことこいつに言わなくていいだろ!」
木菟は、かみつかんばかりの勢いで話を遮った。男は慣れているようで、ひらひらと躱すように手を振った。
「…まぁ、いいでしょう。おいおい本人から聞いてくださいな。根はいい子ですから。そうだ、最後に。この<死に戻り>に際して、一つだけ条件を提示させていただきます」
相変わらず殺気を振りまく木菟をまったく気にするふうもなく、男は何でもないことのように言葉を続ける。
「<死に戻り>前と後とで、死者の数を変えないでください。もし<死に戻り>の結果、死者の数が減るようなことがあれば…貴方の命で贖っていただきましょう。」
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