本日、隙間は雨模様

七夕ねむり

第1話 大嫌いな音だけ置いて

「眠い?」

「別に」

「ああそう」


 スプリングが軋み、ファスナーを引き上げる音がする。

僅かに耳に届く衣擦れ、枕元に置いた目覚まし時計、再びしなるベッド。

この時間、俺の部屋には音が溢れすぎている。


「雨人」


その音は別れの合図だ。

笠野はいつも寸分違わぬ正確さで、短い別れを置いてゆく。ささやかで静かなその音は猛烈に痛いので、俺は布団で阻止に努めることにしている。


「雨人ってば」


背中越しに掛けられた聞こえてるんでしょという呆れた声は聞こえていない。

断じて。

行くならさっさと行けばいいのだ。俺のこともこの部屋のことも置いて、元の場所に帰ればいい。何も無かったかのように。

そんな思考をぐるぐる巡らせる俺はどうしようもなく子供っぽい。

頭では理解はしているのに、自分を自分で抑え込めなくなる。特にこんな夜は。

「雨人」

狭いベッドは、俺の背中半分から向こうがぽっかりと空いている。堅いクロスの壁に頭を押し付ける。隣で使われていた毛布まで手当たり次第にかき集めた俺の姿は、さながら蓑虫の様だろう。

まだ微かに残る温もりが煩わしい。


早く冷めてくれ、はやく。


「雨人」


困ったなあ。

笠野が溜め息混じりに呟いた。子供じみた俺に手を焼いているのだろうと思える音だった。

こんなことをしたって何にもならないことは、俺自身が一番よく知っている。出来ることならだるいと悪態でも吐きながらインスタントのコーヒーなんか淹れてやって、笠野を気持ち良く送り出してやりたい。

俺のことなどこの小さな部屋に居る間以外は、思い出してくれなくても一向に構わない。困ったなんて笠野の口から言わせたい言葉じゃないのだ。


「あまと」


 寝返りを打つのさえ煩わしい身体に力が加わって、視界が少し明瞭になった。

唯一の大きな窓からは薄く月の光が差し込んでいる。

「雨人、泣かないでよ」

整った笠野の顔が鼻先まで近づいた。再び、月明かりは遮られる。

「な、泣いてねえし!」

慌てて叫んだ声はやたらに大きくて、耳を塞いでしまいたくなる。

そんな俺にお構いなく、じゃあ、寂しくもない?と囁く声が脳内に響く。その意図が分からなくて、別にと俺は目を逸らした。


本音を言ったって、またはぐらかすくせに。そしてそれは笠野の優しさだとわかっているから、俺が何も言えないことも知っているくせに。


「じゃあ、足りない?」

くつくつと楽しそうな声が耳元で鳴る。

「な!」

「おかしいなあ。雨人がもう無理って言うから止めてあげたのに」


 言われるこちらの方が恥ずかしくなることをさらりと口にして、笠野は綺麗に微笑んで見せる。こうなればすっかり笠野のペースだ。

口喧嘩で彼に勝てたことなど一度も無い俺は、この争いが不毛なものになることを熟知していた。しかしふと思う。

笠野の言い分は強ち間違ってはいないんじゃないか。


そうだ。もし、意地とか子供じみてるとかそういうものを全部取っ払ったとするならば。


「…………足りない」

「へ?」

「お前が足りないつってんだよ、ばか」


お前がいつだって足りないって、もっと側にいて欲しいって、本当はそう思ってんだよ。


 再び、薄い毛布を被った。隣の熱はもう逃げてしまったはずなのに、爪先から頭の天辺まで駆け上るこの温度は一体なんなのだろう。

「雨人?」

俺はまだ子供の端くれだ。笠野とは七つも年が離れているし、恋人らしい夜を過ごせば笑って送り出してやることも出来ない。口では笠野に勝てないし、蓑虫みたいに包まって寂しさを耐えるのがやっとだけれど。それでも少しは。

「困ったなあ」

「っ、」

ああまた困った、だ。

「雨人」

「…………」

「あまと」

困ったと言う声に反して名前を呼ぶ声は優しかった。根気強く呼び続ける声に顔を上げて、それから俺は息を呑んだ。


「か、さの…………?」


暗がりでもわかる、柔らかな光を宿した目が俺を真っ直ぐに見下ろしていた。

伸びてきた左手に指を絡め取られて、彼の頬にそっと添えられる。


「今のは、困ったなあ」


〝本当に可愛くて困っちゃうよ、雨人〟


触れた指先が孕む熱を伝える。俺を見つめる瞳が繰り返す言葉の意味を補うように揺らめいた。


ああ、なんだ。笠野も、もしかして。


「どうしよう雨人。これじゃあ帰れない」

俺の首元に鼻を埋めて笠野は小さく呟いた。知らねえ、俺のせいじゃないと俺もぼそりと言い返す。そして、それから一言付け足した。


「…………帰らなきゃ、いいんじゃね」


 再びかち合う視線と、一瞬の間。

今度はこちらが赤面する番だった。

耐えきれなくて目を逸らすと、視界が真っ暗になって何も見えなくなる。

確かなものは同じシャンプーの香り、背中に這う腕の力強さ、それからどくどくと流れて打つ心臓の音。

「……心臓、速い」

「うん」

「……うるせえ」

「うん、ごめんね」

頼りない笠野の声がぼたりと落ちる。


 この部屋に残る音が嫌いだ。

特に笠野が短い別れと共に置いてゆく音が、俺は嫌いだ。

だけど、もし。


もし、それさえもが愛なんてものなのだとしたならば。


「でも……嫌、じゃねえ」

「……ふは、我儘だねえ雨人」

「……うるさい、子供は我儘なんだよ。悪いか」


まあこんな夜があっても悪くはないと。

そう、俺は思うのだ。



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