ー弐ー

「僕は自分の気持ちを彼女にぶつけるつもりは毛頭ありません。最後に言いたいことを言えばスッキリとするかもしれません。でもそれは僕のエゴでもあると思うのです。彼女は思いをぶつけられて悩んでしまうかもしれない。こちらはスッキリしたとしても、相手はそうとは限りません」


 こずえのことだ。3年も付き合った僕に、新しく好きな人ができたと言うのであれば、それは別れる覚悟を決めているに違いない。悩んで話をしてきたわけではないのだ。どこか僕が改善する余地があるのであれば、そんな別れ話を持ち出したりはしない。けれどこずえは持ち出した。ならば僕は手も足も出しようがない状況だったということだ。

 そして彼女は泣いていた。しゃくりあげながら、声を殺したくても殺しきれず、僕の目の前で泣きじゃくっていた。それが全ての答えじゃないか。


「すみません、部外者の私がわかったような口を聞いてしまって……」

「いえ、こちらこそすみません。なんかすごい私情なことをこんな真剣に聞いていただいて。今は僕のことよりも凛花ちゃんのことを考えましょう。明日の朝には貼り出すんですよね?」

「あっ、はい。でもそれは追記するだけなので簡単ですから」


 みーこさんは社務所の窓際にある小さな机の上からすずりと筆を持ってきた。御朱印の時に使う筆のセットだ。それをちゃぶ台の上に移動させて、さらに窓辺の机の引き出しから紙を取り出した。それはよくよく見てみるとあやかし新聞の原紙だ。


「毎回みーこさんが手書きで書いてたんですね?」

「はい。時々父にお願いしてますが、基本的には私です」


 もしかすると筆文字を使ったパソコンアプリで作成しているのかとも思っていたが、前回の新聞の時とは筆で描かれたネズミのイラストが若干異なっている。それもみーこさんが毎回描きあげているのかと思うと、思わずまじまじと原紙を見つめてしまう。


「手書きの方が味わいが出る気がするので、私はいつも筆で書いてしまうんです。だからちょっと綺麗とは言えないのですが……」

「いえ、十分ですよ。僕も手書きの方が好きです。手紙でもなんでも、手書きのものにはその人らしさがあらわれるような気がするので」


 みーこさんは可愛らしい顔で微笑んだ。愛らしいみーこさんが書く優美な文字。達筆と言ってもいい。書道をきちんと習っていた人の文字だ。


「あの方の依頼には、なんて書かれてたんでしょうね?」


 みーこさんは筆を置いて、ふうと息をついた後ふとそんな言葉をこぼした。だけど声に出すつもりはなかったのだろう。すぐにハッと我に返り、僕に視線を投げかけながら慌てた様子で手を振った。


「あの、すみません。深い意味はないんですけど、やっぱり気になってしまって」

「ははっ、大丈夫ですよ。みーこさんの立場からすれば気になりますよね」


 正直僕も気になっていた。というよりも、気になり始めていた。

 さっきまでは出会ってしまった衝撃と、戸惑い、気まずさなどが先行して依頼のことなどどうでもよかったのだ。

 けれど一旦落ち着いてしまえば、彼女が何を願っていたのかが気になる。別れた相手のことをいつまでも考えるのは女々しい奴だと思う反面、そもそも僕は忘れられなかったから、今ここにいるのだ。ここに逃げてきた地点で女々しさ大放出中だ。


「もしかしたら……」


 そこまで口に出して、僕は苦笑いをこぼした。

 もしかしたら、その好きな人とうまくいっていないのだろうか——。

 そんな風に思うと、思わず胸が苦しくなる。決して僕はこずえの恋がうまくいってほしくないと願っているわけではない。そう願いたくもない。だって彼女は、僕が生涯をかけて大切にしたいと思った相手なのだから。

 たとえ彼女を大切にできるのは、もう僕じゃないと分かっていたとしても。


 けれど彼女を大切にできるのはもう、僕じゃないと理解している。そう分かっているだけに苦しいのだ。


「僕、そろそろ帰りますね」

「あっ、体調はもう大丈夫ですか?」

「はい、みーこさんのおかげで元気です。あっ、お見送りは大丈夫ですので、みーこさんはこのクーラーの効いた社務所でゆっくりしていてください」


 僕が本心でそう言っているにも関わらず、相変わらずみーこさんは社会人の鏡のような行動を取る。


「いえ、あまりクーラーに当たってると逆に体が固まってしまうので、いい機会です」


 いつもの麗しい笑顔を向けられ、僕は同じように微笑みを返す。けれどやはり、今の僕はまだ心が病に蝕まれているらしい。

 そんな笑顔を見ても心が全く和まないのだ。


「しっかし、左右はどこまで行ったのでしょうね。依頼がない限り、あまりこの神社から出ることもないんですが……」


 結局みーこさんは鳥居の下までお見送りをしてくれた。鳥居のところから見える田園風景と、ポツリポツリと木造の家が建つこの村の景色を見下ろしながら、みーこさんが首を小さく傾げていると……。


「あれ、左右帰ってたの?」


 鳥居の上に座る左右の姿が目に入り、みーこさんは遠くを見つめている左右に向かってそう声をかけた。

 すると左右の膝の上からちょこんと顔をのぞかせたのは、白と黒がまだらに混ざり合ったぶち猫だ。


「って、何その子猫? どこから拾ってきたの?」


 左右は猫と同じように鳥居の上から僕たちの顔を見下ろしている。けれど珍しくみーこさんの問いに対しても返事をせずに、再び目の前の景色を仰ぎ見ている。

 返事をしない左右の反応にも気分を害した様子もなく、みーこさんは気を取り直して僕と向き合った。


「ではまた、明日もよければ遊びに来てくださいね」

「はい、僕の散歩コースなのでまた来ます」


 にこやかに手を振り、軽やかに階段を降りていく。階段を降り切った後、あの掲示板に目を向けるといつものあやかし新聞の文字が目に飛び込んできた。みーこさんの達筆な文字で書かれたそれを、なぜか僕は暫くの間ぼーっと見つめていた。


 ——何かで困った人はいませんか?


 こずえも、何かで困っているのだろうか。

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