パンドラは二度闇に眠る

しまおか

美樹が若竹学園へ~①

 和多津美樹わだつみきは、気付くと亡くなった“アキラ”のことを考えていた。

 あれから一年以上が経ち、思い出す頻度も徐々に少なくはなっている。それでも意識的に忘れようとする美樹を責めているかのように、突然あの時のことがフラッシュバックして頭の中を支配するのだ。

 そんな美樹の目を覚ますかのように、四時限目の終わりを告げるチャイムが教室に鳴り響いた。ウン十年と変わらない、うんざりするあの田舎のものとは全く違う。ポップな電子音による洒落た音色は、中間テストの終わりを告げる合図だ。

 美樹がこの若竹わかたけ学園がくえんに来て、最初に経験した高一の一学期における大きなテストも、今日が最終日である。窓の外を覗くと、早くも夏を感じさせるほど日差しが強く、清々しい青空が広がっていた。

 チャイムが鳴った途端、ほんの数秒前まで静まり返っていた教室には、溜息や悲鳴にも聞こえる奇声が響く。生徒達の抑圧され続けた体と心が一気に解放され、喜びを爆発させた叫びが溢れ出した。

 先ほどまで流れていた優雅な音などすぐにかき消され、多くの雑音に置き変わる。そんな様子だけを見れば、中学から高校へ、ド田舎からほどほど田舎の地方都市にあるこの学校へと変わっても同じだ、と心の中で苦笑いをした。

「ああ、やっと終わったよ」

「疲れたぁ」

「マジ難しくなかった?」

「ここさあ、」

「もういいよ、終わったんだから」

「でもさあ」

 だがこの喧騒けんそうのおかげで重く圧し掛かっていた嫌な記憶が、頭の中から追い払われた。煩い嫌悪感より、抜け出せた気分が優先している自分に対し、また笑う。

 そこで教壇からクラス担任である早坂(はやさか)の大声が飛び、なかなか治まらなかった騒ぎがようやく断ち切られた。

「うるさい。さっさと答案を前に戻せ。そこ、まだ席を立つな。こら、もうペンは置け!」

 専門科目は数学だが、体育教師のように武骨で厳しい男性教師だ。彼の声で美樹の頭も一気に現実へと引き戻された。

 数名の生徒が、は〜いと返事をし、先程までの騒めきは小さくなったが、こそこそとした喋り声は止まない。代わりに答案を回収する際に紙が重ねられ擦れる音が、後ろから前へと大きくなりながら移動していく。

 縦六列から回収された解答用紙を最前列の生徒が机の上で束ね直し、順々に教壇へ届けて戻る。六人の生徒から集められたものに目を通しながら、視線を下に落したまま彼は生徒達に連絡事項を告げた。

「これで中間テストは終わりだが、昨日までと同様に放課後の部活動はない。だから昼食を終えたら、ホームルームを行って解散だ。各自寄り道せずに帰ること。買い食いやどこかへ遊びに行くようなことがないように。いいな!」

 そう言い終わると確認を終えた紙の束を抱え、起立、礼と号礼をかけさせた彼は素早く教室を出て行った。それまで無言だった美樹もようやくそこで小さく息を吐き自分も席を立とうとした瞬間、数人の女生徒達がわっと周りを取り囲んだ。

「和多津さん、今日行っていいのよね?」

 いつの間にか別のクラスにいた子達が集まって来ていた。答える隙を与える間もなく、話が盛り上がり始める。

「楽しみだよね」

「そうそう、下宿ってどんな感じだろう」

「和多津さんの部屋も、どんな風なのか知りたいからね」

 美樹のことなどそっちのけで、自分達の好奇心を満たす方が重要なのだ。それが彼女達の会話と表情から垣間見える。うんざりする気持ちを表情に出さないよう気をつけながら口角を無理やり上げ、愛想笑いしながら答えた。

「じゃあホームルームの後、もう一度ここに集まってから行こう。私、下宿のお弁当を購買部まで取りに行かないといけないから」

 まだ何か言いたげな彼女達を置きざりにし、さっとその場を離れた。残された子達も当然ながら昼食を摂る。学校給食が無い学園では、多くの生徒達は自宅から弁当を持ってきていたが、校内の購買部に置いてあるパンや、駒亭こまていが販売する弁当を買う生徒や教師達も少なくない。

 駒亭とは美樹がお世話になっている下宿屋兼食堂兼弁当屋だ。購買部に来る駒亭の販売部隊のパート達が生徒達への販売分とは別に、下宿生のお弁当を持って来てくれていた。その為お昼には、毎回そこまで自分の分を取りに行く必要があるのだ。

「私、今日はパンだから一緒に行こう」

 彼女達の中の一人が、そう言って追いかけてきた。他の子は家から持参した弁当を食べるのだろう。それぞれが自分達の席に戻っていく気配を背中で感じながら、心の中でふう、と溜息をついた。

 購買部までついて来たのは、高校女子陸上部一年の伊藤いとう千秋ちあきだ。彼女を含む女子陸上部の一年生五名が、親元離れて駒亭という賄い付きの下宿屋に住んでいる美樹のことを知り、物珍しさからか部屋を観たいと言い出した。ゴールデンウィークが明けてすぐ、中間テスト開始一週間程前のことだ。

 日取りはテストが全て終わり部活動のない今日の午後に、とその時点で決定した。正確には決められてしまったのだ。

 最終的にいいよと承諾したのも、学校側へ放課後彼女達が寄り道することや駒亭の女将に見学の許可を得たのも美樹自身である。しかしいざその日が迫ってきた今は正直気が重かった。

 人と群れることが嫌いだとかでは無い。以前はどちらかといえば社交的で、いつも複数の子達に囲まれ楽しんでいた。そんな性格が大きく変わったのは、実家の田舎で起こった井畑いばた中学時代のあの事件後からだ。

 あの件以来一年近く部屋に引き籠り悩み苦しんで考えた結果、故郷と同じM県だが距離の離れたこの学園へと逃げて来た。あの頃を思い出すと今でも眠れなくなる。だが今いる学校生活や社会生活そのものから逃れない限り、完全に解決することなどほぼ不可能なことも頭では理解していた。

 それこそ“アキラ”のように、自分自身を殺してこの世からいなくなってしまえばできるだろう。だがそんな度胸など無かった。だからこそ今も苦しんでいるのだ。

 思わず目を瞑り、頭を小さく振り払った。少しでもあの忌まわしい出来事から逃れたい一心で一年間苦しみ、あの学校を辞めてここへ来たのだ。完全に逃げられる訳などないが、それでも新天地でなら今度こそ違う人間に生まれ変わり、別の人生を送れるかもしれない。そんな僅かな希望を持ってここに移り住むことを決断した。

 その為かつて周囲の人達に見せていた姿を隠し、できるだけ他人と深く関わらないよう過ごそうとしていたのだ。

 それなのにわずか一カ月しか経っていないあの時、陸上部の面々の誘いをすぐに断れなかった。なぜこんな約束をしてしまったのかと後で悔やんだ。新しい環境に馴染み始めた矢先で油断し、気が緩んでいたのかもしれない。まだ弱い自分が残っていたのか、または自分ではないものになろうと無理をしていたからだろうか。

 いずれにしても敬遠していた道に足を踏み入れた事実は消し去れない。さらに遡れば元々陸上部に所属すること自体が間違いだった。それも回避しようと思えばできたはずなのだ。しかし陸上部顧問の教師である北上きたがみから

「和多津さんは前にいた井畑中学で陸上部に所属していたらしいね」

と声を掛けられた時、その話題を避けようとしたがマネージャーのような補助程度でいいからと、強引に引きずり込まれたのである。

 かつての自分なら嫌だとはっきり言えたはずだった。しかし誘いを断る理由や何故そんなに嫌がるのか、と更なる問いに対し重ねて説明する事が面倒だったことも確かである。  

 そう思った瞬間、口から出てしまったのだ。

「補助だけなら」

 しまったと後悔したがもう遅かった。ならばせめて顧問の補助という位置を超えず、目立たないようにするつもりだった。それなのに、である。

 教室や陸上部にいても適度に周囲から距離を取っていた美樹が、特別問題に巻き込まれることも無いまま四月が過ぎた。大型連休も実家に帰らず、下宿生活と新たな土地に早く慣れようと駒亭で過ごしたのだ。

 学園から徒歩十分余りの住宅地にある駒亭だが、周りのことも少しずつ知ろうと連休中は下宿で出される食事を断り、街をぶらつき外食したりもしてみた。色々な店舗にも立ち寄り、いくつかお気に入りのカフェやイタリアンのお店、雑貨屋などを発見できた。

 山と海、川と田んぼに囲まれたM県のはずれのドがつく田舎の井畑とは違い、若竹は地方都市とはいっても県庁所在地にある街だ。しかも特別区に認定され、様々な理由で有名観光地にもなり世界中から多くの人がやってくるため、小洒落たお店も多い。その為GW中の街は観光客でごった返し活気に溢れていたのだ。

 しかし充実し興奮状態から冷めやらぬ休み明けの放課後、冷や水を浴びることになる。陸上部の女子達から声をかけられたからだ。そこから悪夢は始まった。

「和多津さんが下宿しているって本当ですか?」

「下宿ってどんな風? 親元離れて一人暮らしするのとまた違うよね?」

「食事がついていて、何人かで共同生活みたいな形だっけ?」

「テレビでやっている、シェアハウスのようなもの?」

「別のクラスの一年生で、釜田かまたさんって子も下宿しているって聞いたけど」

「バレー部の石川いしかわ先輩も下宿だって聞いたことある!」

 一人の発言から、複数の女子が一気に盛り上がりはじめた。そこで知っている名前が出てきたため、思わずその話題に参加してしまったのだ。油断して話題に深く入り込み、調子に乗って喋り過ぎた。それが大きな後悔と問題を背負うことになるとは、この時全く考えてもいなかったのだ。

「釜田さんと二年生の石川さんの二人共、同じ駒亭の下宿生だよ。あと三年生で白谷しらたにさんって人もいるし。他にはM大に通っている加宮かみやさんって人もいてね。二階建ての二階部分に五部屋あって一部屋一人、女性ばかりで五人が住んでいるの」

「へぇ、食事は?」

「土日のお昼以外は用意して頂いて、平日のお昼はお弁当。購買部にお弁当を売りに来ているでしょ。そこへ私達下宿生は自分の分を取りに行くの。M大の子は朝食時に用意して貰ったものを持っていくんだけどね」

 興味を引いたのか次々と質問が飛んできた為、一つ一つ答えていった。

「一度に三、四人は入れる大きな共同風呂が一階にあって、時間制で三組に分かれて入るの。入浴は時間厳守で厳しいけど、共同風呂に入れなくてもすぐ近くに夜遅くまで開いている銭湯があるし、それほど不便じゃないよ。私はまだ銭湯に入ったことはないけど」

「一階は他に共同リビングがあってテレビも見られるから、そこはシェアハウスに近いかな」

「食事付きだからキッチンは無くて部屋の広さは八畳一間。一階にある台所は大家さん専用だから、基本的に下宿生は使えない。そこがシェアハウスとは違うかな」

「他の一階部分は大家さん達家族が住んでいるの。駒亭は離れに住居部分、中庭を挟んで二階建ての大きな食堂が道路に面して建っていてね。その食堂の一部を借りて、私達は朝食や夕食を食べるのよ」

「二階の五部屋とも広さは同じ。駒亭は昔旅館も兼ねた料亭だったようで、改築して下宿屋と食堂に分けたらしいの。以前は畳のある古風な和室だったみたいだけど、今はリフォームして五部屋ともフローリング。造りは古いけど部屋は奇麗だよ」

等と説明していると、気づけばいつの間にか

「じゃあ中間テストの最終日、部活が休みの時に下宿へ遊びに行っていい?」

との誘いを断れない空気が、すでに出来上がっていたのだ。

 横で歩いている千秋に気づかれないよう心の中で何度目かの溜息をついた美樹は、既に多くの生徒が集まって混雑している購買部の複数のブースから、弁当販売しているパートの姿を探した。

 人混みを掻き分けて進むと、ようやく視界の端に“駒亭”のロゴが入ったエプロン姿を捉えた。パートさんは全部で二十人以上いるらしく、その人達の何人かが交代で学校の購買部を担当しているらしい。今日は二人いるようだ。

 まだ全てのパートの名前と顔が一致できておらず、中には会ったことさえ無い人もいる。目の前の二人も以前見かけた気はするが、当然名前は判らない。それでも声をかければ用件は伝わる為、話かけようとした。

すると一人のパートが顔を上げて目があった瞬間、指差して叫んだのだ。

「和多津さん、ちょうど良かった。待っていたのよ。大変なのよ!」

 驚いたのは美樹だけではない。周りの生徒達も突然の大声に反応し、一斉に視線が集まった。戸惑いながら声を出した女性に慌てて近づき小声で尋ねた。

「何かありましたか。大変って? あの、私のお弁当は、」

 すると十数倍のトーンで返された。

「何がってあなた、女将さんが携帯に入れた伝言、聞いてないでしょ!」

 確かにまだだった。学園ではスマホや携帯の持ち込み自体禁止されていないが、学園内では皆大抵電源を切るか、留守電またはマナーモードにしている。厳しくそう指導されているし、教師や生徒もそのルールを守っていた。

 美樹も先程まで留守電にしていた。普段ならその後確認するのだが、テスト終了後そんな隙も与えられない間に声をかけられた為、忘れていたのだ。慌ててスマホを取り出していると、再び怒鳴られた。

「そんなの後で聞きな。あなたのお弁当はここにあるから。でもゆっくり食べている場合じゃないよ。まずは早く帰りなさい!」

「え?」

「駒亭の下宿屋の建物に車が突っ込んだってさ。火も少し出たらしいって」

「ええ!」

 何事かと聞き耳を立てていた周辺の生徒や教職員達も、これには驚いていた。

「だからお弁当を持って、今日はさっさと戻りなさいって女将さんからの伝言よ。もう職員室の方には事情を説明してあるけど、あなたからも早めに帰宅できるよう許可を得てきなさいだって。はい、これあなたの分のお弁当。急いで!」

「は、はい、あ、ありがとうございます」

 機関銃のように伝えたい事を連射し終わったパートは、もう済んだと言わんばかりの態度で、はい、あなたは? と生徒達の要求を次々とこなしていた。

「和多津さん、車がって、火事も?」

 一緒にいた千秋が会話を聞いていたのだろう。目を丸くして美樹の顔を覗き込んだ。その声で我に返る。とんでもないことが起きた。できるだけ早く帰ろうと考えた瞬間、大事なことを伝えなければと、ようやく頭の中が整理できた。

「という訳だから、今日は中止。他の四人にも伝えてね。私はもう行かないと。じゃあ!」

 昼食のパンもまだ買えずに呆然としている彼女に告げ、まずは職員室へと向かった。

「校内では走らない!」

 どこからか飛んできた男性教師の声を無視し、最悪の事態を想像した。恐ろしく不安な気持ちから逃れるように走る。と同時に一方では相反する喜びの感情が湧いていた。

 少し前まで重荷だった案件が無くなったからだ。陸上部の子達が下宿にこないと考えただけで、想像以上に気持ちが軽くなっていた事に自分自身驚く。彼女達の訪問が心に大きなストレスを与えていたかをそこで知った。そして決心する。

 千秋に伝えた通り、下宿訪問自体を延期ではなく完全に中止してしまおう。そうしないと私の心はあの頃のように、再び崩壊してしまうと気付いたからだ。

 駒亭の女将は、下宿させている生徒ら全ての保護責任者で親代わりだ。よって彼女の言うことは下宿生にとって絶対だった。その為先程の伝言通りまず職員室で早退を願い出ると話はすでに通っていたことから簡単に認められた。

 学園と駒亭との長年の深い関係に加え、女将の絶対的信頼度の高さと、事前連絡による的確な段取りのおかげだろう。

「話は聞いた。大変なことが起こったね。早く帰りなさい。女将さんが心配しているよ」

 近くにいた数人の教師からも声をかけられながら自分の荷物をまとめ、学園を後にした。といっても駒亭までは走れば数分で着く。そこで敷地から出ると、速足で歩きながらスマホを出して留守電のメッセージを聞いた。 

 しかし内容は早く帰ってきて、その前に職員室へ等と既に聞いた情報以外は入っていない。その為駒亭がどういう状況なのか詳細が判らず、不安を抱えたままだった。

 その時ようやく他の下宿生達には同様の連絡がされているのか心配になった。自分のことばかり考えていたが、同じ二階に住む三人の生徒はすでに話を聞いて早退したのだろうか。

 しかし駒亭に向かうなら、必ず通るだろうこの道の前にも後にも彼女達の姿はない。そういえば、三人にも伝えて欲しいとの伝言は無かった。もしかして連絡が入ったのは自分だけなのだろうか。

 そんな疑問が浮かぶ間にどんどんと下宿へと近づく。しかし学園を出てから救急車の音は聞こえたものの、駒亭の方角から煙が立ち上っている様子は無い。だったらたいした事故では無かったのだろう。

 そう思いながらもうすぐという地点まで辿り着くと、周辺には多くの人だかりができていて、騒然とした空気が漂っていた。

 何十人という野次馬達の人垣ができ、駒亭の側には消防車一台と救急車が一台、パトカーも二台停まっている。さらにここからは進入禁止という、ドラマやニュースで見るような黄色のテープが仰々しく張られていた。

 下宿へ突っ込んだと思われる車は既にレッカーで引きずり出され、車の後にあるトランク部分がグシャリと潰れている様子が見えた。状況から察するに、運転手が前進するところを誤ってバックで走行して衝突したことが判る。

 しかし火事も起こっていると聞いたが、煙などの匂いは無い。見える範囲からは、どこが燃えたのか判らなかった。救急車が来ているのなら怪我人がいるのだろうか。運転手だろうか。下宿の中の人達は無事なのだろうか。

 そんな心配をしながら、人混みを掻き分けなんとかテープまで辿り着いた。そこでやっと事故場所の全貌を見渡すことができた。車は下宿になっている二階建て住居部分の角にぶつかったようだ。

 下宿の建物と道路との間に設置された、膝上までの低いコンクリートの壁がなぎ倒され、一階部分の柱が折れている。その影響で建物の西側の壁が壊れ、南に面した一階の縁側にある大きなガラス窓も割れていた。そこから部屋の中が少しだけ見える。

 確か入居した時に一度だけ入ったあの角部屋は、仏間として使用されていたはずだ。仏壇には亡くなった大女将の旦那を始め代々のご先祖様達が眠り、仏壇の上の壁にはその方々の写真も飾られていたことを思い出す。

 よく観察してみると部屋の角、柱と壁の一部分がほんの少しだけ黒ずんでいた。おそらく火が出たというのは、衝突した際に少し火花が出たのだろう。その影響で家の壁が燃え、被害が大きくなる前に誰かが消したに違いない。

 耐火壁のおかげなのか少し焦げただけで、燃え広がらなかったのだろう。どちらにしても下宿全体に被害が及ぶような最悪の事態に陥っていないことは判明した。

 しかし問題はその上だ。ひしゃげた柱と壁の二階部分、仏間の上の南向きの角部屋は美樹が間借りしているところだ。外から見る限り、二階部分の壁や柱、窓ガラスなどの損傷は見当たらない。

 けれど下の柱が折れているため、支えを失った部屋は少し傾いているようだ。道路からは中までは見えない。大丈夫なのだろうか、と不安になった所でいつの間にか女将が近くまできており、突然話しかけられて驚いた。 

「美樹ちゃん、お帰り。連絡がついて良かった。部屋のことで早急に打ち合わせしなくちゃいけないのよ。この人は中に入れてあげて頂戴ね、この上の部屋の住人で被害者だから」

 進入禁止線の内側に立ち、野次馬を整理していた警察官を睨みながら、女将が指示を飛ばす。まだ若い警察官は彼女の迫力に押され、慌てて規制線を上に持ち上げ中に通してくれた。

 軽く頭を下げて礼を言おうとした美樹の腕に女将のがっしりした腕が絡む。そのままぐいっと引っ張られて下宿へと連れていかれた。

 そこで止まっていた救急車が、サイレンを鳴らしながら走りだす。そんな様子を引きずられながら眺めていた美樹は事故場所から少し離れた中庭を通り、被害が無かった下宿の玄関側から建物の中へと入った。

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