第五章 継ぐ者

継ぐ者

 カナカナカナカナ……。


 ヒグラシが鳴いている。そっと目を開けると、あふれんばかりの光は消えて、薄暗い。葉ずれの音がする。小夜子は竹やぶにいた。注連縄を張った岩屋の前に立っている。


「帰ってきたんだ……」


 ヒグラシが鳴いているから、明け方ではなく、夕暮れだ。

 いったい何日、小夜子は行方不明になっていたのだろう。早くお父さんとお母さんを安心させなくちゃ。

 そう思ってもなかなかここから立ち去ることができない。岩屋の向こうの世界での余韻が、小夜子をそこに引きとめていた。


 涙の跡が乾いて、頬が少しつっぱっている。あの世界でのできごとが現実であった証拠を探そうとしてみるが、身ひとつで帰ってきたのでなにもない。あるのはこちらの世界から持っていった『月読の掟』だけだ。


「それでも本当のことなんだ……」


 小夜子は岩屋の入口を優しくなでた。その時、頭の中で声がした。


『やっとわかったみたいだな』


 小夜子はあたりを見回した。あの白い小さな生き物が、そのあたりにいると思って。だが、そこには夕暮れの日差しがあるだけだった。でも……。


「気のせいなんかじゃない」


 小夜子は声に出して言った。たしかに今聞こえたのは管狐の声だ。タエが近くにいるのだろうか? あれは現実だったのだ。もう疑ったりしない。けれどもタエに会って確かめ合いたかった。天に昇っていったタエも、小夜子と同じところに行き着いたのかもしれない。


「タエちゃん、どこにいるの?」


 小夜子は竹やぶを出て、縁側を見渡したところで小夜子の動きが止まった。


「……なんで?」


 あの時のままだった。開いたままのガラス戸。小夜子が開けたのだ。あれから時間が経っていないというのだろうか?


 小夜子は表へ回った。玄関先に停めてある車のボンネットに触れてみる。まだ温かい。山の陰になって、日はあたっていないのに。やっぱり時間は経っていない。


 ドキドキしてきた。あれだけの旅をしたことを打ち消されていく気がして、悲しくなった。


「夢なんかじゃないもん」


 時間が経っていないのだって、この世界と時の流れがちがうだけかもしれないじゃない。向こうでは一日でも、ここでは一瞬だったのかもしれない。


 今までとは反対に、必死に信じようとする小夜子がいた。しかし、信じたくても自信を持てないでいた。全てが自分の頭の中だけで起こったことだと言われても、言い返す言葉がない。

 今なら、大ばあちゃんの昔語りを作り話だなんて思わない。きっと、タエちゃんのように不思議な体験が人より多いだけだったんだ。


 ふと、肩にかすかな重みを感じた。見ると、管狐が乗っていた。


『よ、小夜子』


 タエが連れていた管狐だ。小夜子は嬉しさと戸惑いで、ぶっきらぼうに声をかけた。


「なんでいるのよ?」

『なんでって……天つ山のふもとで別れる時、おれ、またなって言ったぞ』


 言われればそんな気もする。だが、そんなのはあいさつで、本当にまた会えるなんて思わなかった。


「あんたは、また会えるって知ってたの?」

『ああ、知ってたよ』


 管狐はあっさり答えた。


『それより、小夜子も声出さない方がいいぞ。タエも言ってただろ? ほかの人には、おれの姿が見えないんだ。ひとりごと言ってると思われるから気をつけろよ』


 小夜子も心の中で管狐に話しかけることにした。


『わかったわ。で、タエちゃんはどこにいるの?』


 管狐は黙った。小夜子は不安になって、もう一度たずねる。


『あんた、一緒なんでしょ?』

『……家の中にいる』


 管狐が言いにくそうに答えた。


『家の中? だって、ここは大ばあちゃんち……』


 小夜子は、玄関の表札を指しながら言いかけて、目を見開いた。


「まさか……そんな……」


 表札から目が離せない。


「わたし……知らなかった……大ばあちゃんの名前なんて……気にしたこと、なかった……」


 管狐は気の毒そうに小夜子を見た。


『……そうだろうな。知ってりゃ、もっと早くに気づいただろうな』

「……全然知らなかった……大ばあちゃんの名前が……タエだったなんて」


 雲の切れ間からサアッと光が射しこむように、一瞬にして小夜子は全てを理解した。もう大ばあちゃんの昔語りが聞けないということ。タエが天の浮き橋を昇っていった意味。管狐が小夜子のところに来た理由。


『これからよろしくな』


 管狐が言った。


 大ばあちゃんの次は小夜子なのだ。それがわかっていたから、大ばあちゃんは不思議な話をたくさんしてくれたんだ。なのに、小夜子は信じなかった。信じられるようになった今はもう……。


『大丈夫』


 小夜子の思いが通じたのか、管狐が言った。


『タエはわかってたさ。なにしろ、小夜子は狐使いを継ぐ者なんだからな』

『でも、なんでお父さんじゃないの? 大ばあちゃんの子供はおじいちゃんで、その子供はお父さんでしょ?』

『タエが言ってたのを忘れたみたいだな。狐使いは代々女が受け継ぐんだ。まあ、必ずってわけでもないみたいだがな』

『ああ、それでなのね』

『そうだ、おれの名前を教えてやるよ。おれは……』


 縁側の方で「小夜子、小夜子」と呼ぶお母さんの声がする。


『……そろそろ行けよ。おれは、おとなしくしてるから』


 小夜子を呼ぶ声が近くなり、玄関の鍵を外す音がした。引き戸がガラリと開いて、お母さんが姿を現した。


「ああ、いたいた。あのね、小夜子……」


 お母さんは小夜子の両肩に手を置き、なんと説明するべきか迷っていた。小夜子は神妙な顔でうなずいた。


「……うん。わかってる」


 お母さんは「どうして?」と言いかけて、「そう」と言い直した。


「それで、今は中には……」

「わかった。外にいる。平気、遠くには行かないから」

「じゃあ、しばらく待っててね。ごめんね」


 お母さんは再び家の中に消えた。電話をかけているらしいお父さんの声がかすかに聞こえる。


『いいのかよ? タエに会わなくて』


 管狐が言った。


『今はいい。なんか、大ばあちゃんとは、今でもつながってるって感じがするし』


 日はさらに傾いて、夜の闇がすぐそこにせまっている。ヒグラシの声も聞こえなくなった。小夜子はゆっくり家の裏へ回った。

 竹やぶを風が吹きぬけ、葉ずれの音がする。家の中からやわらかな明かりが縁側にもれている。闇は深まる。竹やぶの中はすでに真っ暗で、注連縄も岩屋も見えない。


 小夜子は濡れ縁に腰かけた。その拍子に風呂敷の包みがほどけ、背後でばさりと音がした。『月読の掟』を手に取る。

 なぜ神楽には白紙に見えたのか、今ならわかる気がした。人の心が作り出したものだからだ。空想する力のない者には見えないのだ。


「そういえば、最後まで読んでなかったな……」


 話の行く末を知ってしまった今では、その先を読むのは気が進まない。けれども知っておかなくてはならない気がした。


 管狐の気配が消えている。大ばあちゃんの傍にいるのかもしれなかった。


 小夜子は大きくひとつ深呼吸をして、『月読の掟』の後ろの数枚をめくった。

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