第四章 具楽須古の種

迷い

 森の中はゆるやかな上り坂になっている。木漏れ日の中、ひんやりと湿り気を帯びた山道を行くのは気持ちがいい。鳥が鳴き、小さな動物が走る。水は全ての源なのだと改めて教えられる。


 昨夜はこの旅で初めてふたりだけで夜を越したが、不思議と寂しさはなかった。森の中だったせいかもしれない。すぐそばに生命があふれていることで心細さがやわらいだのだろう。


 しかし、そんな心休まる森の中にいるにもかかわらず、小夜子は浮かない顔をしていた。しかも今朝から一言もしゃべっていない。悲しみともいらだちともつかないモヤモヤしたものが胸につかえている。なんとも重ったるい気分だ。


 一方神楽は、ものめずらしそうに木の幹をなでたり、しゃがんで苔に触れてみたりしている。


「岩戸が開いたら、多々良村もこのようになるのでしょうか」


 声を弾ませて振り返った神楽は、小夜子のどんよりした表情を見て、笑顔を消した。


「どこか痛むのですか? けがでもされましたか?」


 小夜子は首を横に振る。


「では疲れたのですか? しかし今朝はまだたいして進んでいませんよ」


 はやる気持ちが手伝って、神楽は思わずあきれた口調になった。小夜子はそんな神楽をひとにらみすると、くるりと背を向け、そのままスタスタと今来た道を引き返してしまった。


「さ、小夜子どの!」


 神楽はあわてて追いかけた。小夜子は早歩きになる。神楽が小走りする。小夜子は走り出す。神楽も全速力で追う。しかし袴が足にまとわりつき、袂が風をはらみ、なかなか思うように走れない。しかも慣れない森の中でもある。

 ふたりは木の根につまずいたり、苔で足を滑らせたりしながら走った。


「小夜子どの、いったいどうしたのです? なぜ逃げるのですか?」


 神楽は弾む息の下から必死に呼びかけるが、小夜子は黙って走り続ける。


「もうっ、なんなんですかっ!」


 神楽はイライラして頭をかきむしり、鼻息も荒く懐からたすきを取り出すと手早く袂をまとめた。動きやすくなった神楽は勢いよく走り出す。

 小夜子に追いつこうかというころ、神楽はつまずいた。思わずのばした手が小夜子の服のすそをつかむ。小夜子は神楽に引っ張られてしりもちをついた。

 ふたりは湿った土の上に転がった。もう走る力は残っていなかった。


「まったく、なんなんですかっ!」


 神楽はたすきをシュルッとはずした。

 小夜子は両ひざを抱えて座っている。神楽は小夜子の正面に移動し、あぐらをかいた。


「黙っていてはわかりません。なぜ引き返すのですか?」


 小夜子は小さな子供みたいに口をとがらせた。


「……だって帰りたいんだもん」


 神楽はため息をついて、小さな子供に言い聞かせるようにゆっくり言った。


「ですから天つ山の岩戸へ向かっているのではないですか。引き返したりしたら帰れませんよ」


 小夜子は神楽から顔をそむけた。


「そんなのうそよ」

「う、うそ?」


 思いもよらない言葉を投げかけられたのだろう。神楽はせわしなくまばたきを繰り返した。


「うそとはどういうことです? 岩戸を開くこと、それが小夜子どのが元の世界に帰る方法なのですよ?」


 小夜子は神楽をちらりと見たが、すぐにまた目をそらした。


「だまされないわ。そうやって多々良村のために岩戸を開かせたいだけなんでしょ? そこに具楽須古の種があるとは限らないじゃない」

「そんなこと……」


 口をはさもうとした神楽をさえぎって、小夜子はまくしたてる。


「言いなりになったのがまちがいだったわ。やっぱり昨日タエちゃんについて行けばよかったのよ。同じ世界から来たのなら一緒に帰れるはずだもん」

「ですから、あれは」

「天の浮き橋だって言うんでしょ? なによ、それ。天と地をつなぐはしご? どうせただの言い伝えでしょ? あれは帰り道じゃない、別のところへ通じているんだって言ったのだって、わたしを天つ山まで行かせるためだったんでしょ? なんであの時に気づかなかったんだろう……利用されているだけだって」


 あまりの言い分に神楽は目と口を大きく開いた。けれどもなにも言い返せず、口だけがパクパク動いた。小夜子はなおも続ける。


「だいたい、なんでわたしなの? 異形なる者はタエちゃんだったかもしれないじゃない。きっとそうよ。タエちゃんは今までにも不思議な体験をしているし、管狐なんて妙な生き物連れているし、どう見たってわたしよりタエちゃんの方が異形なる者にふさわしくない?」


 神楽は黙っている。森の奥でしわがれ声の鳥がギョエーギョエーと鳴いた。


「あんたは知らないだろうけど、岩根峡でだって大変な目にあったんだから」


 餓鬼に触れられた感覚が鮮やかによみがえり、小夜子は身震いをして両手で自分を抱きしめた。


「神楽やタエちゃんはなにごともなかったんでしょ? 不公平よ。わたしは帰りたいだけなの」

「……多々良村はどうでもいいということですか?」


 地面と話しているかのように神楽はうつむいたまま問いかけた。小夜子はすぐに答えた。


「そうよ。わたしとは関係ないもん。自分たちでなんとかすればいいでしょ」

「笹の庵でおっしゃったことを覚えていますか? わたしで助けられるなら助けたいと思う、ただこの世界を信じていないだけだ、と。あのお気持ちはどこへいってしまったのですか? この世界を信じた今ならなにも迷うことなどないはずです」

「あの時はあの時。これが現実なら、なおさら人助けしている暇はないの」

「ああ、なんということでしょう!」


 神楽は首を横に振り、額を手でおおった。


「まさか異形なる者がこのようにわがままだとは!」


 小夜子は「もう、頭にきた!」と叫んだ。


「わがままとはなによ! わたしはなにかのまちがいで来ちゃったの! だから早く帰りたいの! なのにあんたたちは寄ってたかって異形なる者とか勝手に呼ぶし! タエちゃんのことは帰したくせに、わたしのことは引きとめるし!」


「ですから昨日も申し上げたはずです。あれは天の浮き橋で、小夜子どのが行かれる場所には通じておりません」


「だからそれはわたしに逃げられたら困るからでしょ! 神楽はいいわよ。この旅に失敗しても今までの暮らしが続くだけじゃない。わたしだって、自分の世界に不満がないわけじゃないわ。夏休みの宿題だってやらなくちゃならないし、お母さんをうるさいと思うこともあるし、友達にむかつくこともある。でもわたしはその暮らしからも離れちゃってるの! わたしは――」


「いいかげんにしてくださいっ!」


 神楽の吠えるような大声に、小夜子はビクッとして口を閉じた。


「先ほどから小夜子どのはご自分のことばかり気にしておられます。一言だってタエどのや多々良村のことを思いやっておりません」


 たしかにその通りだった。だが、それがどうしたというのだろう。小夜子は自分の冷たさを恥ずかしく思いつつも、自分が大変な時に人にかまう余裕などないと開き直っていた。


 神楽は小夜子を見つめ、ため息をついた。この森で神楽は何度ため息をついたことだろう。しかし、今回のため息は自分自身の気持ちを落ち着かせるための深呼吸のかわりだったようだ。次の言葉を口にした時にはもういつもの神楽の口調に戻っていた。


「小夜子どのが異形なる者として現れることはすでにわかっていたのです」


 小夜子はやっと神楽の顔を見た。


「え? だって……」

「ええ、言い伝えではそこまではわかりません。しかし、巫にはわかっていたのです。巫はあなたを異形なる者と呼びました。その時からもう異形なる者としての使命を与えられたのです」

「そんな勝手な……!」

「勝手ではありません。巫が決められたわけではないのですから。巫はなるべくしてなることを知る力があり、それを示しました。そういうことです。わたしたちではどうすることもできない大きな流れがあるのです。その中でどれだけのことができるのか、それはその本人にかかっているのです」


 神楽の言葉は小夜子の心にしみこんできた。大ばあちゃんが電話に出なかったことも、大ばあちゃんちで管狐を見かけたことも、管狐を追って竹やぶの岩屋に入ったことも、全て逆らえない流れだったのかもしれない。

 電話をかけたのが一日早かったら大ばあちゃんが出たかもしれないし、お母さんたちと一緒に家に上がっていれば管狐も見かけなかったかもしれないし、そのまま管狐を見失ってしまえば岩屋に入ることもなかった。運命と呼ぶにはおおげさすぎるけれど、それでも不思議な流れに乗って今ここにいるのかもしれない。


「……昔、ある鬼がいました」


 突然神楽が語り始めた。木漏れ日が揺れながら神楽に集まり、まるで一人芝居の幕開けのようだ。小夜子は口をはさまず、神楽の語りに耳を傾けた。

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