〈月読の掟 雲海の章 其の三〉

 その様を志乃はまばたきもせずに見ていた。見届けようとしたわけではなかった。目をそらせなかったのだ。


 いつも穏やかな表情を浮かべていた彫りの深い雲海の顔は、苦痛にゆがめられている。

 一方、草太は返り血を浴び、息も荒くなっていたが、目はらんらんと輝き、勝ち誇った笑みさえ浮かべている。

 草太は肩で息をしながら志乃に近づいていった。


「さあ、志乃。村へ帰ろう」


 差し出された手を志乃は勢いよく振り払った。


「志乃?」

「……て……こと……」

「え?」

「なんてことをしてくれたのよっ!」


 志乃はいまにもこぼれ落ちそうな涙をたたえた目で、草太をにらみつけた。草太はわけがわからず、視線を泳がせた。


「え……どういう……?」

「雲海さんがどんな思いでいたか知りもしないで! 話も聞こうとしなかったじゃない! ひどすぎるわ!」

「おれは志乃を助けたくて……。ねえさんの仇も討たなければと……」


 志乃は墓を指差した。


「あそこで眠っているのはお信さんよ」


 草太は目を見開いた。志乃は草太につかみかかった。


「岩木村の人たちが勝手な思いこみで殺めてしまったお信さんを、雲海さんが埋葬してくれたのよ」

「雲海って……この鬼がか?」

「そうよ。雲海さんはみんなが思っているような鬼じゃないの。贄なんてほしくないのよ」


 草太は倒れている雲海に目をやった。

 雲海は弱々しい息の下から志乃を呼んだ。志乃は、あっけにとられる草太をつきとばし、雲海の元にかけよった。


「雲海さん、しっかりして」

「志乃……」


 雲海が激しくむせた。それだけでもうぐったりとしてしまった。消え入りそうな声で雲海は言った。


「岩木……村へ……帰れ」


 志乃は雲海の手を握りしめ、首を振った。


「いやよ。やっと雲海さんと暮らせるのに」

「いや、おれは……もう……だめだ。鬼だって……不死身じゃない」

「そうだわ、善さんに薬をもらいましょう。前にけがしたときもよく効いたもの」


 ドスッ。


 草太の手から刀が離れ、草の上に落ちた。


「そんな……信じられない……」


 草太は、志乃と雲海の姿から視線をはずせないまま、じりじりと後ずさった。


 志乃は雲海の頭を膝に乗せ、優しく額の髪をのけてあげる。真っ白な小袖を雲海の血が赤く染めていくが、志乃はかまわず雲海の髪をなでる。雲海の呼吸が小さくなっていく。もはや雲海に声を出す力は残っていなかった。


 ぽつりと一粒の雨が雲海のほほに落ちた。それは志乃の涙なのかもしれなかったが、雲海にはもう目を開けて確かめることもできない。痛みよりも寒さが身にしみた。おそろしく寒い。体の中心から冷やされていくようだ。


 寒い。寒い。志乃の体温も感じられない。


 ごく普通の夫婦のように暮らしてみたかった。できることなら、一度くらいは志乃を連れて多々良村へ里帰りなどもしてみたかった。


 だが、それももうかなわない。雲海は討たれ、岩戸は閉じようとしている。


 いつの日か、再び岩戸が開くときが来るのだろうか。きっと来るにちがいない。ふたつの世は行き来がかなわずとも、それぞれそこにあるのだから。いつかまた、この岩屋が多々良村への道となるだろう。人々が異界を信じる心を思い出すだろう。そうであれば、おれは幸せだ……。


 雲海の意識は、二度と光を見ない深い闇の中へと落ちていった。


「雲海さん!」


 急に重みの増した雲海の頭を抱きかかえ、志乃は何度も夫の名を呼んだ。帰ることのない夫の名を。


 大粒の雨が降り始めた。雨は容赦なく志乃の肩をぬらす。いよいよ本降りになってきたころ、草太は志乃の背後に立った。


「……帰ろう」


 志乃は黙って首を振る。


「罪もない鬼に斬りかかったのは、おれが悪かった。真実を話すためにも村へ帰ろう」

「……いまさらなにを話すというの? 雲海さんはもういないのに。わたしは岩木村になんか帰らない」

「帰らなくてどうするんだ? 志乃ひとりで山に住むわけにはいかないだろう?」

「……多々良村へ行く」


 草太はけげんそうに片方の眉を上げた。


「多々良村? 聞いたことがないな」


 志乃は雲海の角に触れた。ざらざらしているが、けして不快な触り心地ではなかった。


「雲海さんの故郷よ。わたしは多々良村へ行って、雲海さんのことを伝えなければならない。そうしなければ、多々良村では雲海さんの最期を知ることができないもの」

「それは遠いのか? すぐに帰ってこれるんだろう?」


 志乃はそっと目をふせた。たぶん、帰ることはできない。それでもいい。雲海の亡骸を残していくのはためらわれるが、異界を信じる自分があちら側へ行くことで、再び岩戸を開く方法が見つかるかもしれない。

 行こう。志乃に迷いはなかった。岩戸を開くこと――それが、雲海のもっとも望んだことだったから。


 志乃は雲海の額にくちづけをした。雨をふくんで重くなった髪が顔にかかる。


「雲海さん、いつかあなたの望みがかないますよう。どうか見守っていてください」


 ていねいに雲海の頭を膝から下ろし、志乃は立ち上がった。小袖は雨にぬれて血がにじみ、真っ赤に染まっている。

 志乃の目の前には岩屋がある。その入り口は岩戸がほとんどふさいでしまっているが、通れないことはないだろう。


「志乃、いったいどこへ」


 岩屋に向かう志乃を、草太は不思議そうに見ている。志乃は岩戸に手をかけ、草太を振り返った。


「もう行くわ」

「待てよ。どこへ行くつもりだ? おれと一緒に岩木村に帰ろう。鬼のことなら謝るよ。知らなかったんだ」


 志乃は雨にぬれた前髪を左右になでつけた。冷たい瞳が草太に向けられる。


「知らなかった? 知ろうともしなかったじゃない」

「こんなことになる前に、教えてくれればよかったんだ」

「どうせ聞く耳を持たなかったでしょ? 山へは行くなってそればっかり」

「それは……」

「それは、鬼がいるからよね? ほら、鬼を悪しき者と決めつけていたじゃない。姿がちがうだけで、いみきらっていたじゃない」


 草太はうなだれた。なぜもっと志乃を知ろうとしなかったのだろう。止めるばかりでなく、理由を聞くべきだったのだ。お信が帰ってきたときの村人と同じだ。真実を知ろうともせずに、見えぬものにおびえていた。ほんとうの悪しきものは人の心の中にあったのかもしれない。


「……悪かった」

「それは雲海さんに言うべきだったわ」

「そうだな」


 最後に志乃は静かで美しいかすかな笑みを浮かべた。


「さようなら」


 深紅の小袖を翻し、志乃は岩戸のすき間に消えた。


「志乃っ!」


 すぐに草太が手をのばしたが、なにもつかめなかった。その細いすき間に入ろうにも、肩がつっかかる。体を横にしてみたところで、志乃より胸板が厚いため、通ることはかなわない。


「志乃ーっ!」


 草太の叫びに答えるかのように、岩屋の奥から生温かい風が吹いた。草太は何度も何度も岩をたたいた。人のこぶしで壊せるものではないとわかっていても、たたき続けずにはいられなかった。

 だが、岩戸は開くどころか草太の目の前でゆっくりと動き、草太の手に血がにじむころには完全に閉じてしまった。


 雨はいっそう激しく降り出した。あたりに雨音が響き渡る。草太はその場にうずくまった。永遠の眠りについた雲海の血が洗い流されていく。雨に煙る山の中で、ふたつの影がぼんやりと浮かんでいた。

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