〈月読の掟 志乃の章 其の三〉

 夕闇の中を村へ帰ると、志乃の家の前に人だかりができていた。


 もしかして……。


 志乃は鼓動が早まるのを感じながらも、しっかりとした足取りで家を目指した。


 村人たちの話し声が聞こえるあたりまでくると、近くの幾人かが志乃の姿を認め、道を開けた。次々と志乃に気づいた人がそれにならう。興味深そうな目や同情的な目の並ぶ奇妙な花道を、志乃は堂々と歩いた。

 やがて、軒先に白羽の矢が立っているのが見えた。


 ああ、やはり……。


 それは今年の贄の家に立つものだ。とはいえ、受け取り手であるはずの雲海は贄を望んでいないのだから、人ならざる者の力で選ばれるのではない。矢を立てるのは村人の役目だ。ばばさまに命じられた適当な男がやったことだ。もちろん、ばばさまが贄を選ぶのではない。選ぶ力を持っているのは月読の掟だ。ばばさまは、月のない晩に生まれた娘を十六年間覚えていて、贄となるその年に示すだけだ。


 軒下で白羽の矢をじっと見つめる志乃に声をかける者はひとりもいない。なにを言っても慰めにもならず、贄を逃れさせられるわけでもない。村のために犠牲になる憐れみと、ありがたみをかみしめるだけなのだ。


 毎年、贄となった娘は、我が家に白羽の矢が立てられると、半狂乱になって泣き叫ぶ。その姿を予期していた村人たちは、落ち着きはらった志乃の姿に戸惑いを隠せない。


「志乃は白羽の矢が立つとはどういうことか、知らないわけではあるまい」

「そりゃあ知っているだろう。だが、あの落ち着きようはどうしたもんだ」

「いや、あれは泣くことも忘れて呆然としているんだろうよ」


 村人たちはあれこれ耳打ちしあっている。志乃はただ真実を知っているから、月読の贄となることは少しもも恐れていないだけなのだが。


 贄になっても死が待っているわけではない。しかし、もう岩木村には戻れないだろう。戻れば五年前の再現となる。自分だろうが、ほかの人だろうが、お信のようなことは二度とあってはならない。


 村に帰らないということは、晴れて雲海と暮らせる一方、両親に二度と会えないことでもある。そのことだけが志乃を悲しい思いにさせた。


 志乃は家に入った。ばばさまが届けにきたのだろう、贄が着る白い小袖が上がりかまちに置いてある。部屋の隅では、病でやせ細った権蔵が、すすり泣く喜久の背を優しくなでている。


「とうさん……かあさん……」


 志乃が両親のそばに座ると、権蔵は志乃と喜久を一緒に抱き寄せた。やせた体に似合わず力強い腕だった。


「志乃……すまない」

 母も涙声で謝る。

「おまえを月のない晩に……その年最初の月のない晩に……」

「謝ることじゃないわ。わたしはとうさんとかあさんの娘でいられて、うれしいもの」

「まあ、この子はなんてうれしいことを言ってくれるのかしら。こんなにいい子が贄にとられるなんて……。ほんとうに鬼が憎いわ」

「まったくだ。鬼から見たら人など獣と同じなのだろう。血も涙もないやつだ」


 それは誤解よ……。志乃は心の中で訴えた。雲海のせいじゃないわ。真実を知ろうとしない岩木村のせいなのよ。


 どんなに言葉にして両親に伝えたいか……。だけど、長い間、岩木村の風習になじんできたふたりには、いくら言葉をつくしても理解してもらえないだろう。

 わかってもらえないもどかしさと、両親との別れと、誤解されたままの雲海とを思うと、志乃の澄んだ瞳は涙にぬれた。しかし、そんなこととは知る由もない喜久は、志乃の涙にさらに心を痛めた。


「ああ、かわいそうな志乃。お願いよ、泣かないで。かあさんも涙が止まらなくなってしまう……」


 志乃は母の泣き乱れる姿に心が引き裂かれそうだった。父の病も自分のせいにちがいない。育っていく娘を見て、贄となる日が近づくのを感じずにはいられなかったのだろう。それを裏づけるかのように、父は志乃に頭を下げた。


「志乃、ふがいないとうさんですまん。大切な一人娘を守ることもできないとは……。許してくれ」

「とうさん、よしてよ。許すも許さないもないわ。とうさんにもかあさんにも感謝している。わたし、ほんとうに大切にされてきたもの」


 いっそ真実を話してしまおうか。信じてもらえないだろうが、それ以外に両親を安心させる方法を思いつかない。いや、わたしが恐怖のあまり作り上げた話だと思い、娘の気が狂ったと思われるかもしれない。それでは悲しみを深くするだけだ。


 それとも、志乃がなにも知らない贄として、恐れ、おびえ、泣きわめいて見せたならば、かえって諦めもつくのかもしれない。自分たち親子だけがわがままを通せるわけはないのだと。けれども、そんなことをしたら、雲海を裏切ることになる。あの心優しい鬼を悪の権化にしてしまうことになる。


「もっと顔を見せておくれ。わたしのかわいい娘の顔を……」


 喜久は荒れた手で志乃のほほに触れた。温かかった。その温かさにもう触れることはできない。


「とうさんにもよく見せてくれ」


 権蔵も骨ばった手をのばして、小さな子供にするように志乃の頭を何度もなでた。

 急に幼いころの思い出がよみがえる。まだ権蔵が畑仕事をしていたころのことだ。

 村の子たちにいじめられていたところを草太に助けられた。とはいえ、草太が悪童をけちらしたわけではなく、かんしゃくを起こして両手両足を振り回す草太にしらけた子供たちが勝手に去っていったのだが。しかし、結果として志乃が助けられたことに変わりはない。志乃が礼を言うと、草太は志乃に背を向けてこう言ったのだ。


「志乃のことはおれが守ってやる。だから、大人になったらおれの嫁になれよ」


 志乃があっけにとられていると、草太は志乃の返事も待たずに走り去った。

 志乃は畑にいる両親に報告した。

「草太がね、大きくなったら志乃をお嫁さんにしてくれるんだって。そうしたら、ずっととうさんとかあさんのそばにいられるね」


 うれしそうに話す志乃にうなずきながら、権蔵と喜久が悲しみの色をたたえた目で見つめていたのを、志乃は子供ながら奇妙に思えたのだった。


 あれから十年あまりがたち、志乃は村を出ることになった。それも月読の贄として。志乃が嫁入りしたのは岩木村の草太ではなく、山の鬼雲海で、ずっと両親のそばにいられるどころか、二度と会うことはないだろう。


 でも……。志乃はふと思った。


 でも、一年後、月読の祭でわたしが帰ってきたらどうだろう。贄が生きていたのに、一年間、岩木村になにも災難がなかったとしたら……?


 きっと月読の贄がなんの意味もないのだとわかってもらえるにちがいない。そして、すべてを話そう。来年の月読の祭でわたしが元気に帰ってきたら、みんな、ちゃんと話を聞いてくれるはず。そうよ。わたしが身をもって証明すればいいのよ。一年間でいい。わたしにも岩木村にもなにも起こらない。そのことがわかればいいだけ。


 志乃はその考えに夢中になった。涙ながらに別れを惜しむ両親が目に入らなくなるほど、思いついたばかりの名案にとりつかれていた。


 すてきだわ。一年よ。たった一年とうさんやかあさんと会えないだけ。来年の月読の祭には、すべてがうまくいくの。月読の贄もわたしでおしまい。そして、心配事がなくなったら、とうさんも元気になって、雲海とお酒を飲み交わせるかもしれない。わたしは岩木村に帰って雲海と暮らすのよ。

 たった一年、わたしと岩木村が無事であることを祈るだけ。贄に生まれたことも悪くないわ。


 志乃は上がりかまちに目をやった。その白い小袖は、質素な花嫁衣裳に見えた。

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