善意

江川太洋

1

 彼は五十代の会社員で、無闇に中庭の広い借家に一人で暮らしていた。彼は三十年近くもそこから片道二時間をかけて通勤し、誰かの送別会でもない限りは真っ直ぐ帰宅するのが常だった。

 そもそも彼には親しい人間が一人もいなかった。元々ある女と暮らすつもりで先に彼が借家に移ったが、結局女は別の男と同棲を始め、人伝に聞いた話では今や三児の母とのことだった。彼は疑問も挟まずに自らの状況を受け容れ、大過なく日々を過ごすことだけを念頭に生きてきた。

 たまに気晴らしが必要な時は、各路線の中継拠点の駅で途中下車して、飲食街の外れにあるいつ来ても客足の悪いバーで一杯引っ掛け、酔いに任せて全てをうやむやにするとすっと気分が楽になるのだった。

 今年一番の冷え込みという一月半ばのその晩、店は珍しく盛況で、数人の若者が喧しく騒ぎ立てていた。彼は盗み見るように彼らを窺いながらグラスを煽った。彼らの存在が目を射るほど眩しかった。笑顔、嬌声、生命力に溢れた旺盛な身振り、全て彼の掌からとうに零れ落ちてしまったものだった。マフラーとコートを羽織って寒空の下に出てようやく、彼は一心地付くのを感じた。

 駅前のロータリーで信号を待つ間、彼が頭上の歩道橋に顔を上げると、そこに佇む女性の姿が目に留まった。背後を通行人が忙しなく行き交うせいで、手摺の前で静止した女だけが浮き上がって見えた。女は若く、灰色のコート姿で、長い髪を胸元まで垂らし、眼下の車列を見下ろす顔がまるで幸せそうに見えなかったことが、彼の印象に深く残った。

 信号が青になって人が溢れた歩道に彼が目を転じた隙に、女はいなくなっていた。

 何となく忘れ難く、帰りの車中でも彼はその女のことを反芻していた。いかにも人生を謳歌していそうで、自分とはまるで無縁に思える群衆が行き交う中、彼は女を見て自分だけではないという慰めを得たように感じたが、それは向こうも同じだったのかも知れなかった。彼が歩道に目を転じる間際に女も彼に気が付いたように見えたが、それは気のせいか記憶の捏造かも知れず確信が持てなかった。

 翌朝はいつも通りに目を覚ました。何となく悪寒がくすぶっている感じがあって、彼は真っ先に風邪を疑った。朝食後にいち早く市販薬を飲み、勤務中は安静を意識したが咳や鼻水といった初期症状も特になく、寝れば治ると考えてその晩は早めに布団に潜った。

 妙な気怠さは翌朝も続き、明らかに風邪とは症状が異なっていた。特に明確な不調もなく、全体的にぼんやりとした気怠さに包まれる感覚だけがあった。業務に集中すれば症状も消えると思ったが、根を詰めるほど普段以上に身体に疲れが残り、急に使い勝手が悪くなったような自身の体調に内心彼はたじろいだ。

 悪い病気を疑ったがこの程度で医者にかかって業務に穴を開け、他人に後ろ指を差される方が彼にとっては遥かに深刻な事態だった。彼は困った時に常に自分が取る行動――即ち何事もなかったように過ごすことを選んだ。そうすればいつか状況が改善されて平時の生活が戻ると思ったが、数日経つと状況はむしろ悪化の一途を辿っていった。

 自身の認識以上に業務が捗っていないらしく、主に上司から必要な資料や報告書の提出を煽られる回数が増えてきた。彼の感覚では周囲の行動のペースが日を追う毎に早くなり、ミーティングで会話に着いていけずに思考停止に陥り始めた。議題が頭に滲み込まないうちに、同僚たちの嘲る顔が次々と彼の視野を掠めていった。

 社に戻れば疎んじられている気配を察し、帰宅しても無人の家が彼を待つばかりで、これでは辛い空間から別の辛い空間に移っただけで、辛さの量自体には何の変化もないと彼は思った。

 眠りが浅くなり、電車に乗ってもテレビを見ても気鬱に塞がれて胸が晴れず、次第に全てが億劫になってきた。身だしなみに気を遣わなくなり、白髪だらけの髪は毛先が方々に跳ね、頬や顎に無精髭をまぶし、まとう衣類も日を追う毎に脂じみてきた。

 眼は血走り、顔色はコピー紙の色合いになり、周囲の疎ましがる視線を黙殺すると勝手に決めてからは目に見えて外界への反応が鈍くなり、自席で仏像のように超然と固まることが増えた。そのうち酸っぱい体臭と荒んで口を聞き辛い空気を発散し始め、特に女子からの評判は最低ラインにまで下落した。

 煩雑な書類提出の迫った月末の午後、彼はふいに机に突っ伏して号泣したい衝動に駆られた。それを堪えてモニターを凝視していると、向かいの女子社員が遠慮がちに彼に声をかけてきた。癇に障って大丈夫と邪険に返してからふと頬を撫でた彼は、そこで初めて自分がとめどなく涙を流しているのに気が付いて完全に動転した。指先に乗った涙の雫を彼は呆然と眺めた。彼の口から「あーあー」と呟きが漏れたが、それが他人の粗相を見た時に発する呆れ声程度の感情しか籠っていなかったことが、一層周囲を凍り付かせたらしかった。

 女子社員が他の一人と席を立って小走りにオフィスの奥に消え、しばらくして上司を引き連れて戻ってきた。彼は上司から個室に呼び出された。

 鼠顔で齢下の上司は、彼の元部下だった。彼はこの上司にだけは付け入る口実を与えないよう細心の注意を払ってきたのに、その口実を与えた自身への憤りで視界が一瞬真っ赤に染まるのを感じた。

 実際の上司は彼の色眼鏡に映る陰湿な策謀家などではなく、むしろ人一倍気遣ってやんわりと診察や休暇を勧めてきたが、彼が断ると個室に気まずい沈黙が漂った。上司は単に会話を続ける為に質問を発した。

「じゃあ今は、何をしたいとか考えはあります? どうしたいとか?」

「死にたい」

 即座に彼が呟いたので上司は目を剥いた。

「え? 今何て?」

 反射的に上司が訊き返すと、彼こそ上司の言葉を聞き咎めた顔をして訊き返してきた。

「え? 今? 何がですか?」

 上司は彼が本心で訊き返しているのを察したらしく、急に一切の表情が失せた替わりに内から決意の色が滲み出てきた。上司は彼に本日の早退と心療内科への通院を命じた。その為に明日の休暇も許諾した。彼は抗弁しようと口を開きかけたが、上司の顔にみなぎる断固たる決意の前に意欲を挫かれた。

 まだ陽があるうちに社を出たことが現実味に乏しく、つまり自分は体良く会社から放逐されたと感じ、袋小路に追い詰められた感じがした。いよいよ自分は生きる価値がなくなったらしかった。

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