(鍬形・・・・どこかで聞いたことがあるような・・・・)俺は頭の中でその苗字を反芻してみた。だが、思い出せん。まあ、取り合えず脇に置いておこう。

『まるで”姿三四郎”ですな』俺は彼女の話を聞き終わり、立ち上がってキッチンに行き、何杯目かのコーヒーをカップに注いで戻って来ると、ソファに座りなおして独り言のように言った。

『え?それ、何ですか?』

 不思議そうな顔をして奈津美が聞き返す。

『いや、何でも』

 俺は苦笑してコーヒーを飲む。

 そりゃそうだろう。今時の女の子は、あんな古めかしい柔道小説なんか知らないだろうからな。

『・・・・つまり、貴方の依頼はその鍬形龍之介くわがた・りゅうのすけという柔道少年を探し出して欲しい、という事なんですね?』

『はい、そうです。会ってもっとちゃんとお礼を言いたいんです』彼女ははっきりとした声で答えた。

 俺はもう一度奈津美の目を見る。

 いや、礼なんてもんじゃないな。

『恋をしたんでしょう?』

 俺の率直な問いに、彼女は頬をバラ色に染め、軽くうなずき、

『はい』と答えた。

『しかし、貴方が目撃したその鍬形という少年の見た目からすると、彼は・・・・』

『高校二年生くらいだと思います』

『ふん、となると貴方より四~五歳は年下ということになりますが・・・・』

 彼女はカップを置き、うわずった声で、

『年齢は問題じゃありません。あんな男性に会ったのは本当に初めてなんです。確かに見た目はぱっとしませんけれど、でも男らしくて、紳士で・・・・』

 明らかに恋をした乙女の響きだった。

 俺は少なからず興味を持った。

 はばかりながらガキの頃から武道は幾つかやっている。

 今時そんなアナクロな武道少年が本当にいるのかどうか、この目で確かめたくなったのだ。

『よろしい』

『えっ?でも・・・・』

『興味を持ったんですよ。私もその”姿三四郎くん”にね』

 俺が笑って見せると、彼女も口を押え、それに同調した。

探偵料ギャラについては真理から聞いているとは思いますが、基本一日六万円、他に必要経費と、あと万が一拳銃がいるような事態に遭遇した場合には、危険手当として四万円の割増料金を加算します。詳しくは・・・・』

 そういって俺は隣のデスクに手を伸ばし、ブックエンドに立てかけてあった縦型のファイルケースを取り、中を開けて書類を一枚出して彼女の前に置く。

『この契約書を読んで、納得したらサインをお願いします。まあ、どうでもいいことなんですが、一応決まりでね。』

 俺がそう告げる間もなく、彼女はペンを出して手早く署名欄にサインをした。

『結構、それでは仕事にかかります。まず、その鍬形と言う少年について、他に何か分かっていることはありませんか?それを聞いておけば、より調査がしやすくなります』

 彼女は少し考え、それからメモ用紙を出すと、そこに何やらひし形をした絵を描いてみせた。

『学生服の襟に、こんなバッジがあったんです。おそらく校章ではないかと思うんですが・・・・』

 ひし形でエンジ色の地に金文字で『城南』という漢字が浮き彫りにされていたという。

『有難う。それで十分な手掛かりになります』

 俺はそう言ってソファから立ち上がった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

『どういう風の吹き回しだ?お前ら探偵にとって、警察オマワリなんざ呼び出しを喰らった時ぐらいしか来たくない場所じゃなかったのか?』

 渋谷南署の生活安全課のフロアで、そいつは俺をまるで迷い込んできたハエを見るような目つきで見ながら言った。

『仕事だよ。お座敷が掛かれば、何でもやるのがプロってもんさ』

 俺が言うと、彼は口の減らない男だ。と、妙な笑いを浮かべながら、

『で、何だね?俺達警官だって公務員の端くれだ。公務員にゃ、”守秘義務”って奴がある。私立探偵なんかに情報を垂れ流したら、また口さがないマスコミ連中から、情報漏洩のヘチマのと言われかねん』

と、いつもの俺のセリフを逆手に取った皮肉を口にする。

 彼は渋谷南署の生活安全課副主任の渡辺警部補、俺とは何だかんだと、付かず離れずの腐れ縁を何年も続けている。

『大したことじゃない。五日ほど前、この近くのS公園で何かもめ事があったかどうか教えて欲しい』

 彼は呆れたような顔で俺を見ながら答えた。

『お前、ここをどこだと思ってんだ?新宿ほどじゃないが、渋谷だぜ?この節、もめ事なんざ一日50件以上は軽くある。いちいち取り上げてたらきりがねぇよ』

 なるほど、彼の言うのももっともだ。

 それに女に悪さをしようとしたチンピラ風情が、怪我をさせられたからって、いちいち警察オマワリに泣きつくなんて間抜けな真似はしないだろう。

『分かった。じゃあこの校章を知らないか?それと”鍬形くわがた”って名前に心当たりはないか?』

『ああ、これは城南高校だな。この近くだよ。歩いて20分てとこかな。私立で以前は別の場所にあったんだ。割といい学校だぜ。それと鍬形?おい、お前も少しは柔道やってたなら、その名前に聞き覚え位あるだろ?』彼はちょっと呆れたような顔で俺を見た。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 渡辺警部補の言った通りだ。

『私立城南高等学校』は、あか抜けた建物で、とてもじゃないが彼女の言うようなバンカラ生徒が通う学校には見えない。


 中へ入ろうかと思ったが、無理だった。

 二つある校門はどちらも固く閉ざされており、門の脇には『本校に御用のない方の立入りは固くお断り致します』という馬鹿でかい立て看板が掲げられてあった。

 もっとも、俺にとって学校と言うのは苦手中の苦手な場所だからな。

 出来れば近づきたくない。


 腕時計を見ると、具合のいいことに時刻は午後二時四十五分。

 あと15分もすれば、放課後のチャイムが鳴る。


 俺は道路を隔てて反対側の歩道にある街路樹の陰に隠れ、校門を凝視し続けた。

 程なくして、警備員のおっさんが出てきて重々しい門扉のカギを開けて開く。

 すると中から大勢の学生が一斉に出てきた。

 驚いたことに全員私服である。

 確かに中にはブレザーにベスト、ネクタイという、今風高校生のスタイルをしている者もいるにはいるが、大半は街中でよく見かけるような少年少女たちばかりだった。

(後になって知ったことだが、この学校は校則が緩く、制服はもうかなり以前に廃止され、私服通学が許されているのだという)


 俺は固まって出てきた、二年生以上と思える人相の男子生徒に声をかけ、認可証ライセンスとバッジを提示し、己の身分を明かした上で鍬形龍之介について訊いてみた。


『鍬形?ああ、あの”柔道バカ”のことですかぁ』彼らの口から出たのは、からかいとあざけりが入り混じった言葉だった。


 何でも、この学校には柔道部は無いという。

 いや、正確には”以前はあった”らしいのだが、もう今から十年以上前に廃部になってそれっきりだそうだ。

”汗臭いし、痛いし、カッコよくありませんからね。あんなものやりたがる奴の気がしれませんよ”

 かつて道場があった場所も、今では体育倉庫と化してしまっているのだという。

 そんな中にあって、鍬形龍之介は放課後にたった一人でその体育倉庫を片付け、青畳を引っ張り出し、黙々と打ち込みや受け身の稽古を続けているらしい。

”でも、あくまで今あそこは体育倉庫ですからね。使える時間も限られていますよ。物好きもいたもんだよな”

”だから柔道バカだなんていわれるんだよ”

”そうそう、おまけにダサいガクランなんか着てさ”

 彼らは口々にそう言って嗤った。

『今日もまだいるのかい?』

 俺の問いに、

”いや、今日は使えない日ですよ。確かもう帰ったんじゃなかったかな”

 彼らによれば、鍬形の家は学校から歩いて20分ほどのところにあり、接骨院と柔道場を経営しているそうだ。

”でも、接骨院の方はともかく柔道場は相当に稽古が厳しいから、誰も通ってこなくって、家に帰っても一人で稽古してるって聞きましたよ”

 俺は彼らに鍬形家の場所だけ聞き、礼を述べて歩き出した。

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