第5話 新しい人生(2)

 次の日の朝、牧夫は病院の前にいた。今日は退院だ。病院の前には医者やナースが集まっている。太郎も来ている。みんな、牧夫の退院を喜んでいた。


「どうも、お世話になりました!」


 牧夫はお辞儀をした。助けてくれてありがとう。生きる勇気を与えてくれてありがとう。心から感謝していた。


「元気でな。自殺なんかすんなよ!」


 太郎は牧夫の手を握った。たった一度だけの人生を無駄にしてほしくない。精いっぱい生きてほしい。太郎はそう願っていた。


「はい!」


 牧夫は元気に答え、病院を後にした。荷物は太郎が自分の家に運ぶという。今夜は太郎の家に泊めてもらい、明日の出発の準備をする。その前に、大阪を巡って今の風景を記憶しておこう。


 牧夫は御堂筋線の動物園前駅に着いた。ホームには何人かの人がいる。目指すは太陽の塔。大阪万博を記念して建てられたモニュメントだ。


 牧夫は幼少期に大阪万博で見た太陽の塔のことを思い出した。有休を使って一家で万博に行った。難波から御堂筋線に乗った。車内には多くの人が乗っていた。みんな万博に行く人たちだ。着くと牧夫は太陽の塔を見上げた。その塔を見て、何だこれはと驚いた。


 牧夫は千里中央行きの電車に乗った。今日も御堂筋線は多くの人が乗っている。この御堂筋線は大阪メトロの中で最も古い路線であり、最も混雑する路線だ。何度この路線に乗っただろう。次に乗れるのはいつだろう。地下鉄のトンネルを見ながら、牧夫は考えていた。


 難波駅からはより一層車内が混雑してきた。ここから梅田駅までは特に混雑する。牧夫は彼らの姿を見ていた。昔は彼らよりぜいたくな生活を送ってきたのに、パワハラで何もかも失い、転落してしまった。でも明日からは新しい人生に入る。和歌山で人生をやり直そう。


 中津駅の先で地上に出た。道路の間を走り、淀川を渡る。その向こうには阪急電車の鉄橋も見える。小学校の頃、卒業記念に宝塚ファミリーランドに行った。牧夫は鉄橋を渡る阪急電車を見ていた。でも宝塚ファミリーランドはもうない。また行きたかったな。


 東海道山陽新幹線と接続する新大阪駅を出ると、そこそこ車内が空いてきた。牧夫はロングシートに座った。


 牧夫は目を閉じて、今までの生涯を振り返っていた。鉄工所を経営する家に生まれ、順調に大学を卒業することができた。鉄工所に就職して、いろんなことを学び、多くの友達に恵まれた。だが、パワハラで社員が自殺して、自殺した社員の父によって鉄工所を閉鎖に追い込まれた。そして、両親も、妻子も失った。あんなことさえなければ。だが、それも自分に与えられた使命であり、十字架だ。私はそれを一生かけて償わなければならない。絶望し、自殺しようとした時もあった。でも、ようやく新しい人生を歩むことになった。今度は悔いのない日々を送りたいな。


「お客さん、終点ですよ!」


 車掌の声で目が覚めた。電車は終点の千里中央に着いていた。太陽の塔へはここで大阪モノレールに乗り換える。


 牧夫は千里中央駅のホームに降り立った。北大阪急行の駅では、この駅のみ地下だ。地下だが、上の階と吹き抜けになっていて、広く感じる。


 牧夫は改札を抜けて、大阪モノレールのホームに向かった。大阪モノレールは少し離れたところに駅舎がある。


 牧夫は大阪モノレールのホームにやって来た。ホームには何人かが待っていたが、北大阪急行に比べると少ない。


 ホームで待っている人の中には、家族連れもいる。牧夫は妻子のことを思い出した。今、妻子はどうしているんだろう。もし会えるのなら、また会いたいな。でもそれは叶いそうにない。


 しばらく待っていると、モノレールがやって来た。モノレールにはある程度の乗客が乗っている。子供は一番前から車窓を見ている。子供たちは嬉しそうだ。


 牧夫はモノレールに乗った。太陽の塔は2つ先の万博記念公園駅にある。モノレールは高架線を走っていた。大阪の街並みを見渡すことができる。牧夫はそれを食い入るように見ていた。もう帰れなくなるかもしれない。生まれ育った大阪の風景を目に焼き付けておかないと。


 牧夫は太陽の塔を見上げた。緑に囲まれて経っている。今はそんなに人が来てないが、万博の時は多くの人が来た。その面影はないけど、太陽の塔はここでかつて万博が行われたこと、多くの人が集まった事を伝えていた。


 牧夫は太陽の塔を後にして、難波に向かった。目的地はなんばパークスだ。南海電鉄の難波駅に隣接したこの施設は、大阪球場の跡に建てられた。大阪球場は戦後、南海電鉄が持っていたプロ野球チーム、南海ホークスの本拠地として建設された。南海ホークスは50年代から60年代にかけて全盛期を迎えたものの、それ以後はBクラスが多くなり、昭和の終わりとともに福岡に移転した。大阪球場はその後、住宅展示場になり残っていたものの、解体された。


 牧夫は難波駅にやって来た。ここは天王寺駅と並ぶ大阪ミナミの交通の要衝だ。3つの私鉄と3つの地下鉄の路線が乗り入れている。JRも乗り入れているが、影が薄い。


 難波周辺には多くの人が行き交っていた。とても賑やかだ。入社すると、週末は父とよくここで飲んだものだ。そんな父はもういない。豊かだったあの頃が懐かしい。戻りたくても、もう戻れない。


 牧夫は南海難波駅の近くにあるなんばパークスにやって来た。ここにはかつて大阪球場があった。子供の頃からホークスファンで、よくここで野球を観戦したものだ。だが、その頃は全盛期を過ぎており、毎年Bクラスの球団となっていた。父の頃は強かったそうだが。横にいた父は強かった頃の南海ホークスの話をしたものだ。牧夫にはそれがとても信じられなかった。1988年10月15日、南海ホークスとして最後のホームゲームになった試合も見に来た。いつもはガラガラの球場が満員で、異様の雰囲気だったのを覚えている。この年も南海ホークスはBクラスで、来年から本拠地が福岡になった。再びAクラスになるのは98年、優勝と日本一は99年まで待たなければならなかった。その頃はもうファンはやめていて、近鉄バファローズのファンになっていた。今はどっちもなくなり、現在はオリックスバファローズのファンだ。時の流れは早いものだ。


 牧夫は驚いた。大阪球場があった名残が全くない。牧夫は栄華を極めた南海ホークスと自分の歴史を重ねてみた。鉄工所を継いで社長にまでなって栄華を極めたのに、パワハラで全てをなくした。そして、今が大阪から和歌山へ旅立つ時だ。


 次に牧夫は歩いて心斎橋に向かった。お好み焼きが食べたかった。大阪を代表する料理で、社長だった頃は週に1回食べていた。でも、会社が廃業して、何もかも失うと、お好み焼きを食べる余裕もなくなった。


 牧夫は道頓堀にやって来た。道頓堀は今日も多くの人であふれていた。とても賑やかだ。昔と変わっていない。牧夫はほっとした。


 牧夫は道頓堀のグリコのネオンを見ていた。このネオンは道頓堀の名物で、今日もここで写真を撮る人が多かった。撮っている人の多くはグリコと同じポーズをしている。これは昔と変わらない。ただ、ネオンは変わった。


 牧夫はここの近くのお好み焼き屋で昼食をすることにした。カウンターの目の前には鉄板があり、お好み焼きなどを焼いていた。カウンターの人はそれをおいしそうに見ている。


 20分後、ようやくお好み焼きが出来上がった。店員は牧夫の目の前にお好み焼きを置いた。牧夫はそれを食べ始めた。社長だった頃は何度も食べた。懐かしい味だ。もうここでお好み焼きを食べることはできないかもしれない。牧夫はゆっくりとかみしめながらお好み焼きを食べた。


 次に目指すのは森ノ宮だ。ここには日生球場があった。日本生命の従業員の厚生施設として建設された球場らしいが、近鉄バファローズの本拠地としても使われたという。ここで行われた最後のプロ野球の試合のことは今でも覚えている。南海ホークス改め福岡ダイエーホークスのふがいない戦いにファンの怒りが爆発し、卵を投げつけられたという。今、そんな日生球場はどうなっているんだろう。胸躍らせながら牧夫は地下鉄で森ノ宮を目指した。


 長堀鶴見緑地線に乗って、牧夫は森ノ宮にやって来た。だが、そこに日生球場はない。あるのは、大阪球場同様ショッピングモールだ。跡地は2015年に『もりのみやキューズモールBASE』となった。モニュメントや周辺歩道のパネル、わずかに残った球場の跡がここが野球場だったことを表している。最上階には人工芝のトラックがあり、多くの人が歩いている。


 古くて人のあまり来ない日生球場とは違って、キューズモールは多くの若者が訪れていた。彼らはここが球場であったことを知らないようだ。


 牧夫は肩を落とした。大阪はこんなに変わってしまった。そして、自分もこんなに変わってしまった。一生、鉄工所で働ける、社長としてやっていけると思っていたのに、ある日を境に全てを失ってしまった。そして、街が変わっていくように、自分も変わろうとしている。今までの自分をリセットして、和歌山で一からやり直そう。

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