記憶

口羽龍

 一也(かずや)は孤独だった。家族はすでに住み慣れたマンションの部屋を出ていった。心のよりどころは会社だった。でも、今年の春、定年退職を迎えた。定年退職して間もなく、住み慣れたマンションを手放し、息子夫婦の家で余生を送ろうと思い、そこに引っ越した。心のよりどころを探すためだ。しかし、近所は知らない人ばかりで、なかなかなじむことができなかった。ほぼ毎日、周辺を散歩したり、家でゴロゴロしていた。


 一也は今朝のワイドショーを見ていた。水不足のことがニュースで取り上げられていた。水不足により、干上がった林沢(はやしざわ)ダムの様子が上空から映されていた。何日も夏日が続いていた。何日も雨が降っていなかった。ダムは干上がり、貯水率はほぼ0だった。


 その上を人が歩いていた。普通では歩けないところだからだ。その中には写真に収めたり、湖底に沈んだ橋を渡る人もいた。


 一也はその様子をじっと見ていた。何かを思い出しているようだった。


「お父さん、どうしたの?」


 化粧をしていた息子の妻、文子(ふみこ)が聞いた。


「あの橋・・・」

「何かあったんですか?」


 文子は首をかしげた。


「いや、何でもない」


 そう言うと、一也は部屋に戻っていった。文子はそのニュースを見ていた。文子はそのニュースを見て、ミネラルウォーターを買ってこなければと思った。


「水不足か・・・、ミネラルウォーターを買っておかなくっちゃ」


 すぐに文子は車に乗って昼食と夕食を買いにスーパーに出かけた。息子の敦夫は仕事で家を出ていて、2人の息子は小学校に行ったので、家には一也1人だけだった。


 文子が部屋を出ると、一也はテレビを消して、隣の自分の部屋に向かった。


 5分ほどして、一也が出てきた。一也はリュックを背負っていた。リュックの中には携帯電話とそのACアダプタ、歯磨きセット、数日分の着替えだった。何日間か旅行に出かけるようだ。


 会社に行くのに使っていた白い軽自動車に乗って、一也は自分の車に乗ってどこかに出かけていった。今日、旅行に行くなど、誰にも言わなかった。




 昼近くになって、文子が帰ってきた。文子はレジ袋を両手に持っていた。いつもは片手だけだったが、今日はミネラルウォーターを買ったので両手にレジ袋を持っていた。


「ただいまー!」


 文子は玄関の前で言った。しかし、声がしない。いつもだったら、一也の声が聞こえるはずだった。


 文子はカギを回して開けようとした。しかし、閉まった。一也がいるので、空いているはずだった。文子は首をかしげた。いつもと違っていたからだ。


 文子は中に入った。家の電気は全部消えていた。テレビの音もしない。


「お父さん?」


 文子は首をかしげた。


「どこに行っちゃったのかしら?」


 文子は一也に電話をかけた。




 その頃一也は、住宅地を離れ、高速道路のパーキングエリアにいた。一也はかけそばをすすっていた。夏休みということもあってか、パーキングエリアには平日ながら多くの人が来ていた。


 かけそばをすすりながら、一也は、盆休みに遊んだ故郷のことを思い出していた。高校生になって、ダム湖に沈んで以来、故郷のことを考えたことは全くなかった。ただひたすら勉強のことだけを考えていた。社会人になると、仕事のことばかり考えていた。まるで思い出が沈んでしまったかのように。


 突然、携帯電話が鳴った。一也は電話に出た。


「はい」

「お父さん?」


 文子だった。文子から電話が来るとは思っていなかった。


「そうだけど」

「急に家を出ちゃってどうしたの?」

「いや、何でもない。急にいなくなってごめん。じきに帰るから」

「そう。待ってるわ」


 文子は受話器を置いた。文子は安心した。でも、1つ疑問に思った。一也はどこに行ったんだろう。テレビで情報番組を見ながら、文子は考えていた。


「あのニュース・・・」


 文子は今朝見たニュースを思い出していた。一也が反応していたからだ。ひょっとして、あそこに向かったんだろうか。


 文子は夫の会社に電話をかけた。


「もしもし、あなた?」

「うん」


 電話に出たのは偶然にも夫だった。


「しばらく出かけるから、炊事洗濯頼むね。ごめんね」

「いいよ」


 文子は受話器を置いた。


 文子は数日分の衣類等を持ってきた。これからあのダム湖に向かうからだ。あのダム湖に行くには最低でも1日はかかる。


 文子は戸締りを確認して、家を離れた。文子は車庫に停めてあった自分の軽自動車に乗った。


 文子は車を走らせた。文子はあのダム湖に向かった。




 一也はさらに先に進んでいった。高速道路を走り、田園地帯を離れ、山間の集落の中を走っていた。ここに車で1日はかかった。途中、パーキングエリアで車中泊をした。その向こうには、朝のワイドショーでやっていたダムが見えていた。低い民家ばかりの集落にあって、この集落ではよく目立っていた。


 しばらく走ると、山の中に入った。この先は無人の山林だ。何年も整備されてないらしく、道の状態は良くなかった。木々は生い茂り、晴れているのにそんなに明るくなく、涼しかった。車は全くと言っていいほど通らない。しかし、干上がったダムを見に来る人の車が多少いた。


 一也はダムの横の林道を走っていた。ダムには今朝も人がいた。昨日も今日も雨が降らず、ダムの水はさらに干上がっていた。沈んでいた地面を歩き、ダム湖に沈んだ橋を渡っていた。危ないからやめなさいと言われているにもかかわらず。


 ダムを見下ろす橋に、1台の軽自動車がやってきた。一也の車だった。今朝のワイドショーを見て、一也は湖底に沈んだ故郷を思い出し、ここに来ようと思った。ダム湖に沈んで以降、一也は故郷のことを考えたことが全くなかった。沈む前の年に亡くなった祖母も、引っ越した家も。


 一也は湖を渡る橋の近くに車を停めた。一也は車を出て、橋から干上がった湖を見ていた。干上がった部分には草木が生えていなかった。


 一也は今はなき故郷を見渡した。民家等の建物は1戸も残っていなかった。沈む前に全部解体されていた。でも一也にはどこに実家があったかわかった。


 ここには林沢と水鳥川(みどりがわ)の2つの集落があって、今から半世紀近く前にダム建設のため湖底に沈んだ。水鳥川の名前の由来は、この集落の中心を流れる川の名前だという。しかし、ダムの建設で、集落は川も含めて湖底に沈んだ。一也はこの集落の出身で、6歳まで過ごした。小学生になる頃、父が東京に転勤になり、東京郊外のニュータウンに引っ越すことになったため、この集落を離れた。それでも盆休みや年末年始になるとここに遊びに来ていた。


 一也は盆休みになると訪れた少年時代のことを思い出していた。

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