02

 気付いたら、病院のベッドの上だった。


 でも。


 不思議と、どこもいたくない。


 もしかしたら、すべてうまくいったのかも、しれない。


 そうだと、いいな。


「起きたか?」


 ベッドの左のほうから、彼の声がする。


 でも、誰もいない。


「カーテンを開けろ」


 手を伸ばして、左のカーテンを開ける。


 腰にコルセット、片腕と片足を吊った、彼の姿。


「え、なんで」


「覚えてないんだな。よいご身分だこと」


「どういうこと」


「おしえて」


「何を教えるっていうんだ」


「すべてを」


 なぜ、わたしが無傷で。


 彼が傷ついているのか。


 理解ができない。


 どうして。


「誰かに、やられたの?」


 許せない。


 彼を、傷付けるなんて。


「おまえ、何考えてんの?」


「あなたをそんなふうにした敵を、倒す。わたしは、逃げない」


 彼の前で清く正しくいるために。逃げない。立ち向かう。


「ばかだな、おまえ」


「ねえ。おしえて。あなたをそんなふうにしたのは」


 彼。


 だんだん表情が崩れて。


 わらい出す。


「ねえ。おしえてよ」


 彼。


 ひとしきりわらったあと、こちらを向いて。


「おまえのせいだよ」


 ほほえみを残しながら、こちらを見る。


「わたしの、せい」


「そうだ。おれがこうなったのは、おまえのせいだ。だから、おまえはおまえ自身をゆるしちゃだめって、ことに。なるな。あはは」


 また、わらいだす。


「どういうことなの。わたしがまさか」


「いいや、おまえだ。よく聞けよ」


 吊られてないほうの腕が、もぞもぞと動く。


「おまえは、別なひとがはしごを持ってくるのを待てばいいのに、それを待たずに、逃げないとかわけのわからないことを言ってさ」


 彼。腕で、何かを抱えているのか。


「木の上から落ちそうになっていた猫を、助けに行った」


 彼の腕から。


 猫。


「俺は何度も言ったぞ。無駄だって。まず猫は高いところから落ちても大丈夫だし、はしご持ってきてから助けに行った方が安全だし、救助のひとが助けた方がもっともっと何倍も安全だって」


「にゃあ」


 猫。彼に撫でられている。

 いいな、わたしも猫だったらいいのにと思ってしまう、わたしがここにいる。


「そしておまえは、制止するおれの声も無視して、木に登りはじめた。猫のところまでたどり着いたのはいいけど、そこで猫を助けて安心して、木から落ちた」


「あ」


 そうだ。いま、思い出した。


「んで、おれがナイスキャッチと。おまえと猫は無傷で、おれは片腕片足肋骨を派手にぶっこわしましたと。全部ひび入っただけだから、全治二週間ぐらいだけども」


「あ、あの」


 彼。


 真面目な顔。


「おまえさ。逃げないっていってたけどさ」


 あ。


 これは、やばい。


 しかられるやつだ。


「例えばさ、踏切の前で、電車が来てるのに、逃げないとか言って踏切の中にとどまったり、するか?」


「しません」


 轢かれちゃうし。


「しないよな」


 彼の声。だんだん、真剣味を帯びて。低く静かになっていく。


「横断歩道が赤信号なのに、逃げないとか言って渡ったりは、しないよな」


「うん。しない」


 轢かれちゃうし。


「車が」


「交通ルールばっかり」


「聞きなさい?」


「はい」


 彼の声。低く静か。それでいて、こちらを萎縮させるだけの、圧倒感。


「車が。猫の前に飛び出すとか。そういう、一刻を争う、時間の猶予がないときは、おまえのような逃げない姿勢は評価されます。良い結果を出します」


「はい」


「しかし、いったん立ち止まって、考えることができるとき。待ったり、助けを呼んだ方がいいとき。そういうときは、逃げるとは言いません」


「はい」


「あなたがやったことは、いいですか。よく聞きなさい。正義の味方と同じ、正義の押し付けです。勇敢な行動に、あなた自信は酔いしれるかもしれない。気分がいいかもしれない」


 たしかに。逃げないわたしは、かっこいいと、思っていた。実際。


「しかし。あなたが勝手に突っ込んで、自分に酔っているとき。その下で。その周りで。必ず誰かが。おれみたいな人間が、けがをします。いいですか。あなたは、おれを、傷つけた」


 言葉が。刺さった。


 わたしが。


 彼を。


 傷つけた。


「ふう。いてて」


 彼が、顔をゆがめる。


「言いたいことは以上です。さすがにおれも無謀だった。あの高さから降りてくる60キロの物体を受け止められるわけがない」


「55キロです」


「どっちでもいいよ。いや、よくないか。5キロ違うだけで、けがの程度も変わってくるしな」


「いちおう、理想の体重をキープしてます」


 彼が、ふとっているのもやせているのも好きじゃないから。適性な体重、適性な肉付きを意識していた。


「あの」


「はい。なんでしょうか」


「すいません、でした。ごめんなさい」


「猫ちゃん。こいつに裁きを」


 猫。


 彼の腕から、解き放たれる。


 こちらに走り寄ってきて。


「うわ」


 顔の上に乗っかって。


「にゃあ」


 気分良さそうに、日向ぼっこをはじめる。


「どうやら、猫ちゃんはおまえを許すみたいだな」


「ありがとう、ございます」


 でも。


 彼は。


 わたしを許すだろうか。


 わたしのせいで。


 彼の身体には、結構な量の、ひびが入って。


 そして。


 彼とわたしの関係には、無数のひびが入った。


「あの」


 彼。


 無言。


 まだ、告白もしていないのに。


 わたしを助けてくれて。


 彼は、けがを負って。


「はあ」


 だめだな、わたし。


 逃げないとか。


 わけのわからないことを言って。


 彼の前では。


 好きだと言えない。

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