第34話 立場
スリーパーなのか?
その言葉を聞いた瞬間、サヤの手はぴたりと止まった。一テンポ遅れて、少女は目を上げる。大きく見開かれたその茶色がかった瞳に、見る見るうちに涙が浮かんだと思うや、サヤは唐突に勢いよく立ち上がった。
(――えっ?)
そのまま数秒の間、ハルの顔を見つめ。膨らんだ涙の粒がこぼれそうになった時。
(えええ?)
身を翻し、床を蹴るようにして部屋の外に駆け出していくサヤ。
「えええええ……」
(泣く? おれが泣かせたの?)
取り残されて、呆然と首を捻る。
泣くほどのことを訊いたのだろうか? たしかに、ちょっと唐突だし不躾だっただろうか? 訊かれてはショックなことなのだろうか? 他人からそう訊かれたことがないから分からないけれど。……というか、本当にスリーパーなのか?
あの年頃ということは、二十年前に目覚めたわけはないだろう。それより後で、ハルの前に四人起こしたとトキタは言っていたが、男か女かまでは聞いていなかった。まさか砂漠に放り出したうちの一人……? もしもトキタがあんなか弱そうな女の子まで一人でシェルターから追い出したんだったら、計画は中止だあのジジイは絶対に信用するなとナギたちに言ったほうがいいだろうか?
わけが分からず疑問符をいっぱい並べたところで、また足音がしてナギが入ってきた。
折りたたんだ紙を片手に持ったナギが、戸口のところで廊下の先を振り返りながら、
「サヤが走っていったようだが……」
「え、ええと……」
「泣いていたようだが……きみは、まさか……」
「えっ、いや、おれは何も……」
ナギはハルへと視線を向けて、剣呑そうに眉を寄せる。
「きみは……オキの娘と婚約するのではなかったのか」
「ええっ? それも違っ……」
「このことを、オキに伝えるべきか……いや、しかし……」
「ナギさん! だからおれは何もしてないし、オキさんの娘と婚約もしないって」
あたふたと否定すると、ナギが急にククっと小さく笑いだした。
「きみも、そんな顔をするのだな」
(……こいつ)
さんざん皮肉を言った仕返しをされているのだと気づいた。
「なんというか」拳を口元に当てまだ顔に笑いを残しながら、「きみは肝が据わっているというのか、据わりすぎているというのか……どうも普通の子らしくない感情の読めないところがあったので、安心した」
「……何か用事?」
「ご挨拶だな。きみに頼まれていたものを持ってきたのだ」
言いながら、ナギはベッドの上に大判の紙を広げた。
「ああ、食事をしながらでいい」
ハルが作った、シンジュク周辺の村の手書きの地図――それは地図というには少し図々しい、村の名前とおおよその位置を記しただけのものだったが――。
村の名前とだいたいの場所を覚えたいので、これにハルのまだ知らない村の名前を書き足して空白を埋めてくれと頼んであったのだ。
「ああ、ありがとう。すごいね、こんな短時間に。へえ……こんなにあるんだ」
預けた時よりもかなり書き込みの増えた紙を見つめて、目を見張った。
この時代の人々に「地図」という概念があるのかどうか判然としないところがあったが、見た感じ、求めている情報が得られると思う。
食事も忘れて食い入るように見つめているハルへとナギはしばらく黙って目をやっていたが、少しして、
「私の個人的な作業として引き受けたが――」腕を組んで俯き加減に、ハルへと真剣なまなざしを向けた。「それはヤマトに持ち帰ったら、しまい込んで持ち歩かないようにしろ」
「え?」
「きみがそれを持ち歩いているのが村の者たちに知られれば、シンジュクの手の者が諜報活動をしていると誤解されかねん。さっきの代表者たちの反応を見ただろう? それに私も――」
言いながら、目を伏せる。
「最初にきみがそれを持っているのを見つけたら、もっと酷いことになっていただろう」
「……分かったよ。ありがとう」
自分の立場を改めて認識させられる。コールドスリープから目覚めた前時代の人間という、他人には言っていない素性だけだって厄介なのに、村の人間からはシンジュクの間者と受け取られかねない――というよりも、そう思われるほうが自然な立場になっていた。
「誤解されかねん」などと言うが、それどころか「当然そう思われる」というほうが適切なレベルだろう。
「あのさ、ナギさん」
「ん?」
「なんでおれの話、信じてくれたの? オキさんに説得されたから?」
「いや、それもあるが――」
ナギは顎に手を当てて、考えるようにしながら、
「きみはあの日、われわれの暴力を受けながら、一切の抵抗も偽りの言い逃れもしなかった……。私は甘いのかもしれない。本物の諜報員なら、敵を欺くために命くらい簡単に投げ打てるのかもしれないからな。だが、なにぶん……攫われた者たちと同じ年頃の子供なのだから、きみは……おそらく、オキも同じようなことを考えたのではないかな。もしもこれが、きみ自身さえも欺かれているようなシンジュクの罠であったとしても……われわれは、それに縋ってわずかな可能性に賭けるしか、ほかにない。きみが命を賭けたのだ。私にもそれができなくてどうする」
それはあまり説明になっていなかったのだが、その強い瞳から、なんとなく伝わってくるものがあって、
「ナギさん」
また呼びかける。
「ん?」
「信じてくれて、ありがとう」
真面目な顔をして言うと、
「いや……それより食事を進めろ。村の自慢のシチューがすっかり冷めてしまうぞ」
(照れたのかな……)
勧めに従ってシチューとパンを口に入れて、「あれ?」と思う。
やはり最初に思った通り、ヤマトにはないふわりとした食感パンなのであるが、ほんのりと香るそれは、昔の世界にあった――、
「バニラ?」
「知っているのか? あまりこのあたりの村では生産していないのだが」
「へえ……いい香りだね。アスカの特産物なの?」
「いや。砂地で勝手に繁殖したものを、村内での消費用に少しばかり結実させ収穫しているだけだ。育てる自体はそう難しくはないのだがな、加工に手間がかかるので量産するには向かん。珍しい香料や調味料は高価で取り引きできるので、商売に使おうかとも考えたのだが、もっと効率的に量産できるほかの生産物も多くあるので、ほかに出してはいない」
「アスカは豊かな村なんだな」
「ここは地形の関係か、ほかの村々と比べて砂の堆積の浅い場所が多いのだ。地形に特色があるから、ほかではできないものがあってな。そこは恵まれていると言っていいな」
「ふうん……」
煮込んだシチューも、バニラの香りの柔らかいパンも、美味かった。
都市の調味料には食欲が湧かなかったのに、いまこの世界で初めて口にするバニラの香りに懐かしいような気分になっているのが、自分で不思議だった。
「砂地の水はけの良さはバニラの生息にいいんだが、寒さにはあまり強くないんだよ。ま、それでも自生しているうちに適応してきたみたいでね、枯れてしまうことはないが」
バニラ畑を管理しているという、髪も髭も白い年配の男。――正確には、ほかの作物の畑の脇の砂地にバニラが勝手に繁殖しているのであって、この男はその畑の管理人らしいが。
砂の斜面の上に柵が設えてあり、バニラはその柵に蔓を絡めてそこから伸び放題にあちこちに伸びていた。
「ただ、自然に受粉しないんでな。そこは人の手でやってやる必要がある。加工もちょっと手間だが」
「こんなものが欲しいのか?」
横に立ったナギが、軽く首を傾げた。
歩けるなら村を案内してやろう――。ハルが村に興味を持っているのが分かったらしいナギは、朝からそう言ってアスカの産物の農場や加工場、村の中のあちこちにハルを連れて行ってくれた。
あれから数日大人しくベッドに収まっていたら、だいぶ体の痛みもなくなっていたので、ハルは朝から連れまわされて村の中を見聞している。
ヤマト以外の村に数日も滞在するのは初めてだった。
面積も人口も、アスカは大きく、比較的どこでもできる野菜などを産物にしているヤマトと違ってほかの村では見たことのない珍しいものも多かった。
――持ち帰りたいものがあれば言ってくれ
――今後、ヤマトとの通商を優遇するように取り計らおう
村を案内しながら改めてそんなことを言うナギに、ハルはバニラについて教えてくれと頼んだのだ。
――アスカがこれで商売をしないんだったら、ヤマトで検討できないかなと思ってさ――。
そうしてナギに伴われ、このバニラ畑に連れてこられた。
「ヤマトは男手が少ないってオキさんから聞いたんだ。言われてみれば、そんな風に思ったこともあるなって」
「ああ。そういう話は聞いているな」
「グンジさんは生産量を増やしたいって言ってたけど、女の人のほうが多いんだったら重労働が必要な野菜畑を広げるよりも、栽培自体は簡単で加工に手間が掛かるもののほうが合ってるんじゃないかって」
「……ふうむ。それはたしかにな」
「調味料とか香辛料って、重宝されるだろ?」
シンジュクから持ち帰った調味料に喜んでいたリサたちを思い出して。生産物に限りのある村々の暮らしでは、ちょっと変わった味というのが求められるらしかった。
バニラ畑の老人が、二人を振り返って頷く。
「たしかに、一度にたくさん使うものではないからな。大量に生産しなくてもそれなりの高値が付くと思うよ。物々交換よりも、市場に出して金にしたほうがいいかもしれん。実はキャベツや白菜よりも断然軽いし、力仕事でもないから女の働き手が多い村なら丁度いいかもしれんなあ」
「なるほどな。こちらは構わんぞ。どうせ自家消費用だ。好きなだけ持ち帰れ。シブ、いいだろう?」
「ああ。おれのタバコ用に何本かは残してってくれよ」
シブと呼ばれた老人は、相好を崩した。
「それにしても、こいつを商売にしたいなんて人が現れるのは嬉しいね。わしは好きなんだけど、どうにもこうにも役に立ちそうで立たないんで、もどかしかったんだよ」
「ありがとう。ヤマトに帰ったら、グンジさんとも相談してみるよ」
「ああ、ただな」
シブは軽く手を上げた。
「苗からだと実をつけるのに時間がかかる。そうさな、二度目か三度目の夏を越したころだろか」
「そうか……」
それじゃ、村に持ち帰って生産が決まっても、おれはその実が成るところは見られないかもしれないな……。
不意にそんなことを考えて。
ヤマトの商売や農業政策のことや、数年後にこれが実をつけたら……などということまで考えている自分に気づき、内心で少し慌てた。
簡単な農作業を手伝って、多少は役に立てているだろうかと思っているくらいが、ハルにはきっとちょうどいいのだ。それ以上踏み入っても、先々までの責任を持つことはできないのだから。
「ならば」そんなハルの内心をよそに、ナギはシブと交渉する。「今季収穫した実を持ち帰るのはどうか? ヤマトで植え付けた株が成長するまで、実はアスカから卸そう。ヤマトはそれを加工して販売すればいい。今期のものはもうそれほど多くないから、無償で持ち帰れ。ものになりそうなら来季から正式に取引しよう」
「ああ、いいよ。今期は特に実の付きが良くてね。収穫はしたんだが、加工が間に合わなかったんだ。これが役に立つんなら、嬉しいもんさ。あるだけ持ってくといいよ」
「うん、ありがとう」
胸につかえるものを感じながらも、ハルは頷いた。
ひと通り案内を終えて仕事に戻っていくナギに礼を言って、ハルは先日発見した小川にまたやってきた。
清流は、昼の日差しを受けて輝いている。
落ちないように気を付けて、岩に腰かけてしばらく水の流れを眺めていた。
やっぱり、キレイだなあ。
昨日の暮れかけた景色とはまた違う表現ができそうだ。
無意識に、膝の上で指が動く。
もやもやと考えなければならないことも。自分の立場も。やらなければならないことも。忘れられない人々のことも。
全部洗い流されて、今だけこの流れの奏でる音楽に浸る。
ピアノが上手くなることだけを考えていたころの自分を、頭の片隅に思いだしていた。それは手の届くほんの少しの距離にあったはずなのに、すごく遠くなっていた。
「あなたは、ピアノを弾くの?」
頭の中の音に集中していたハルは、その言葉にハッと目を上げた。膝の上で手が止まる。
それは古い時代の言葉だった。
三つほど離れた岩に、いつの間にかあの少女――サヤが腰かけていた。
気づかないほど集中していたことに、我ながら呆れて苦笑する。
「ああ、うん」
「あなたもスリーパーなんだね」
「うん。きみも?」
「そう。こないだは、ごめんなさい」
サヤは水面に視線を落とすように顔を伏せた。
「突然訊かれたから、びっくりして」
「こっちこそ、ごめん、唐突に」
久しぶりにトキタ以外の口から聞く前時代の言葉も、自分が話すのも、なんだかこそばゆいような気がした。
「ううん」
ゆっくり首を振って、サヤはハルへと瞳を向けた。
「嬉しかった。あの時代の人と会えて。砂漠に来てから、初めて」
その切なげな微笑みはやはり美しくて、ハルは胸が鳴るのを感じた。
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