第8話 発露
階段を降り切って廊下に出ると、突き当りの部屋からほんのり明かりが漏れているのが見えた。
その部屋から、ピアノの音とともに、何人かが談笑するような声が聞こえる。
ルウの高い笑い声が混ざっている気がする。
壁を伝って暗闇の中を進み、光のある広間に出た。
ゆっくりと、その部屋へと足を踏み入れる。
「ハル!」
ルウが勢いよく立ち上がり駆け寄ってきたが、それはもう目に入らなかった。
ひたすら、広間の真ん中の、黒く輝く大きなものに視線はくぎ付けになっていた。
「ピアノ……」
(会いたかった、会いたかった、会いたかった)
(どうしよう、また泣きそうだ)
(ピアノがある)
「ハル?」
気づけば心配するような、不可解そうな瞳でルウが下からのぞき込んでいる。
ピアノの周りを車座に囲んでいる、男女十人近くの大人たち。その中にはリサと、グンジと紹介されたルウの父親らしき大男もいた。
そしてピアノを前にして椅子に座っている、年配の男性。
「あ、……」
ルウと視線を合わせて、
「ピアノが……」
それを手で示す。
「触っても、いい?」
「ピアノっ?」
ハッとした顔で、ルウはピアノを一度振り返り、大声で大人たちに向かって何かを説明しだす。
それから背後に回ったルウに背中を押されて、ピアノの前まで歩かされる。
椅子に座っていた男が立ち上がり、席を譲ってくれた。
目の前に、夢にまで見た――それはもう、起きている時だってずっと見えていた、白と黒の鍵盤があった。
信じられない気持ちで、それに触れる。
(会いたかった……)
その場にいる全員が、息を詰めてこちらを見守っている気配を感じたが、もう視線は鍵盤から外すことはできなかった。
(弾きたい)
(弾ける。ピアノが)
震える指を鍵盤の上に並べて。
けれど、そこで指が固まる。
心臓がせり上がってくるみたいな緊張を感じていた。
(弾けない……)
指が動き出さない。
だめだ――。
一体どれくらいの間、弾いていない?
きっと弾けない。
怖い。
弾けない自分に絶望するのが。
目の前の楽器に、失望されるのが。
それは慣れ親しんだこの大きな楽器を目の前にして座って、かつて感じたことのない恐怖だった。
(どうしよう。弾けない)
泣きそうだった。実際に涙が浮かんできた。
(怖い)
と。
ぽつりと高い音が鳴る。
一番右の、ド。それをルウが人差し指で押していた。
やっぱりずっと調律されてない。ヘンな音。
そんなのドじゃないよ。
ルウはこちらをのぞき込みながら、人差し指で次々にいろんな音を出していく。
人生で初めてその鍵盤に触れたときに、たぶん自分もそうであったように。
とても楽しそうで。それは曲なんかじゃないのだけれど、飛びっ切りの音楽。
(違うよ、ルウ。ピアノはこうやって弾くんだ。すごい音が鳴るんだから)
目の前のドをそっと押さえる。
なあ。
ミ
呼び掛ける。
ソ
おまえも待ってただろ、おれのこと。
ド
ヘンな音。
ブヨブヨしてるよ。
(おまえ、自分がピアノだってこと、忘れてたんじゃないか?)
やっぱり涙を堪えきれない。目覚めてからさんざん泣いたし、なんならずっと泣いてたって言ってもいいかもしれなくて、情けなかったけれど、これはさっきまでの涙と違う。
ずっと、ここで。
何百年待った?
(鳴ってくれるだろ?)
もう一度、おまえの音楽を思い出させてやるよ。
鍵盤の上を滑り出した手を、みんなが見ているのが分かった。
でもそれはやはり目に入らなかった。鍵盤さえも、もう見えなかった。涙がぽろぽろと零れて。
嬉しかった。
そして悔しかった。
またピアノの弾ける喜びを噛みしめるほど、もう戻ってこない者たちのことが思い起こされて。そしてあの絶望を思い出す。
ちゃんと指は動いている。音は鳴っている。旋律が、紡ぎだされる。
けれどあるべきだったはずのものが――。
一緒に演奏するはずだった仲間。聞いて欲しかった人たち。
悔しいだろ、みんな。
たくさんの夢を、もう少しで手が届くはずだった夢を。わけも分からずに奪われて、奪われたことも知らずに眠った者たち。
鍵盤を打つ手に、知らず知らず力が入っていた。
傷の痛みなんか感じない。
怒り? 憎しみ? 悲しみ? 後悔?
音が叫ぶ。怒号が渦を巻く。今のこの音楽は、行き所のない感情の発露。
そんな気持ちでピアノを弾いたことはなかった。
唇を噛む。
(なあ、悔しいだろ、おまえら)
ごめんな、おれだけ。
弾いてて。
どうして?
いないんだよ。
オーケストラの演奏も、あの舞台の照明の光も、熱も、観客の喝采も。
どこに行ったんだよ。
何曲も、何曲も、弾く。
手が壊れそうだ。
調子はずれの音。ペダルもあんまり効かない。酔いそうだ。ああ、気持ち悪い。
だけど、手が止められない。
音が……狂ってる。人間みたいに。
だからおれもおかしくなってんのか?
いいよ、分かったよ。それなら。
踊らされてやるよ、この狂った世界に。
半年――。
『私を憎め』
トキタ――。
『きみをこの理不尽で過酷な境遇に追いやっているのは、私だ』
あんたもそれを望んでいるんだろう?
『怒りを糧にして』
いいよ、殺しに行ってやる。
どのくらいの時間が経ったのか、分からなかった。覚えているありったけの曲を弾いたような気がした。
最後の音を弾きあげて、そのままのけ反るようにして椅子にもたれ掛かる。
息が切れていた。
疲れ果てて動かなくなった指に、再び力を込めて。拳を握り締める。
フジタ、タカハシ、エモト……クラスのみんなに、もう一度会いに行く。
ちゃんと送ってやる。
そしてトキタに。
聞いてきてやるよ。
おまえらが弾けなくなった理由を。おれだけがここにいる理由を。
それから、トキタを殺して、
おれもそっち行くから、
もう少しだけ、待っててくれるか?
その間だけ。ほんの少しだけ、弾いていてもいいか?
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