きっと、うまくいく? ⑤きっと、うまくいく

 レーに到着した翌日は、一日中、寝たり本を読んだり食事をしたりコーヒーを飲んだりして、頭痛のつらさはほとんどなくなった。本当にそれくらいしかしていないので、ここにそれを面白おかしく書けといわれても、やめておこうと思う。とにかく、あっという間にゆったりと(?)時間は過ぎて、ぼくの身体は、富士山山頂ほどの高度に慣れたのだ。思いっきりトレッキングできるではないか。

 というわけで、到着三日目。目指すはパンゴン湖である。

 前に書いたとおり、パンゴン湖は、映画『きっと、うまくいく』のロケ地である。詳しくは書けないけれど、重要なシーンで登場する。

朝七時にホテルのロビーにいるように、とメハクのオーナーから言われていた。そこでぼくを拾ってもらい、合流する他のツアー客と合わせて合計五人で向かう予定だ。

 時間どおりにその場所にいると、外から黒人の女の子が入ってきた。テントや自炊道具など、重たそうなアウトドア用品の入ったらしいバッグを三つほど抱えている。同行者かと思ったが、日帰りのツアーなので、そのような準備はいらないはずだ。不審に思っていると話しかけられた。

「あなたもパンゴン湖へ?」

 そうだ、と答えると、私もそうだと言う。そうなんだ、よろしくね、くらいの会話をしていると、パンゴン湖行きのSUVがやってきた。ぼくたちが乗り込むと、先にインド人の男三人が乗っていた。パーミッション(通行許可証)をドライバーに渡し、車は順調に走り出した。

 パンゴン湖までには、三ヶ所のチェックポスト(国境警察や軍隊がいたりする)がある。インドから中国チベット自治区という微妙な地域へと通じる道なので、その要所要所でパーミッションが必要となるのだ。そう聞いただけで、ぼくは少しわくわくしてきた。このような身の危険(?)に自分を置いてみるという経験は大切なことだと思う。いつまでも「待ち時間」を謳歌するわけにはいかない。

 都合上、車の最前列にドライバーとガイド、真ん中の列にインド人男三人(二人組と一人)、後部席にぼくと黒人の女の子という形になったので、ぼくは彼女と話しながら乗っていた。彼女は名をドゥドゥという。南アフリカから一人でやってきた、小柄で威勢のいい二十六歳である。はきはきとしたわかりやすい英語を話し、その話の内容からもかなり聡明そうだというのがわかる。インドに来たのは二回目だが、一人では初めてだという。ぼくは、南アフリカどころか、アフリカ大陸の人間と話すのは初めてだったので、やや興奮気味。未知の人類との遭遇のような気分である。ぼくは、フェラ・クティが好きだと言うと、彼女ももちろん知っていて、

「彼はナイジェリア出身ね」

「ナイジェリアか……。どの辺だろう?」

 と言うと、彼女はおもむろに左腕の袖をまくって、手首のあたりにあるシミを示し、

「この辺ね。ちなみに南アフリカはこの辺」

 と言うものだから、ぼくはわけがわからなかった。しかしよく見たら、彼女の左手首にあるシミのようなものは、まぎれもないアフリカ大陸のタトゥーだったのだ! しかもご丁寧に右下にはマダガスカル島まであるではないか。シミなんていって申し訳ない。アフリカを愛するあまり、それをかたどったタトゥーまで入れるとは。彼女のアフリカ愛が伝わってきた。

 さらに話していると、彼女は仏教に興味があり、昨日はシャンティ・ストゥーパに泊まったのだという。シャンティ・ストゥーパとは、ぼくも去年観光した、塔がある僧院で、勤行をすることを条件に宿泊ができる所だ。そこが日本人によって設立されたことも彼女は知っていた。禅にも興味があり、日本人であるぼくにいろいろと質問を投げかけてくる。

「師匠と弟子との質問と答えの投げかけ合い」(禅問答のこと?)

 とか

「バンケイを知っているか?」

 などと言い、ぼくはそこまで詳しくないので、閉口することが多かった。ちなみに、後に調べたところによると、バンケイとは「盤珪和尚」のことで、江戸時代の禅僧である。庶民に対し、わかりやすい言葉で教えを説いたという。これに関しては全くもって知らなかった。恥ずかしい。

 さらに、彼女は、行き先のパンゴン湖のさらにその先、ダラムサラまで行くのだという。先といっても、東の先はチベット自治区なので、南にそれて、途中何ヶ所かキャンプをしながら三百キロほど先のインド・チベット人の亡命政府の街まで行くのだ。それであの大荷物だったのだ。なんとタフな二十六歳女子。日本の男は軟弱でいけませんね。


 そんなことを話しながら、車は相当険しい道に入り始めた。まるっきしのオフロードである。車は前後左右上下に三次元の揺れを呈する上に、そんな道を時速五十キロも六十キロも出して走るので、相当つらかった。それが五時間以上も続くのである。途中ヤクをはじめとする、野生の高原の動物に癒されながらも(全く癒されない)走っていると、一文字当たり五メートルくらいはあるだろうか、でかでかと「NEVER GIVE UP」と書かれた看板があった。そうだ、諦めてはいけない、あと少しだと、吐きそうな気持ちを抑えていたら、その看板のすぐ先はパンゴン湖だった。諦めないでよかったと思っていたのだけど、数日後に、ある場所でダライ・ラマの「NEVER GIVE UP」という詩を見かけて、ああ、あれはこれのことだったのかと納得した。吐きそうな観光客を励ますためのものではなかった。

 さて、そのパンゴン湖が、非常に美しいのである。

 ささやかに波を立てる湖面の碧く清廉な姿は、雲ひとつない濃い青のチベットの空を映し、見る者誰もの心を落ち着かせるだろう。厳しく乾いた岩々の目立つ山を背に、世界一美しい鏡は、ただ黙ってその母性を湛えていた。

 ここでわれわれは何をするわけでもない。ただ呆然とその水を眺めたり、踝あたりまで浸かりながら記念撮影をしたりするだけだ。ドゥドゥは、若い女の子らしくはしゃぐわけでもなかったが、その美しさにずっと見惚れていたようだった。声をかけようかどうか迷うくらいだったが、彼女方が話しかけてきた。

「あなた、明日はどこに行くの?」

「明日はヌブラ渓谷というところ。一泊二日の予定だよ」

「それはいい! 私は昨日行ってきたところ。あの砂漠が忘れられないわ。そういえば明日は満月。ヌブラで満月を拝めるなんてなんて素敵なんでしょう!」

 ぼくは、南アフリカ人も月が好きなのかと感心したのだけど、それは言わなかった。しかしヌブラ渓谷がどんなものかは知らないが、それはいい。なんとなく素敵な予感がする。

パンゴン湖の周りには、数件のプレファブのレストランがあるだけで、全く人の住む気配はない。純度百パーセントの観光地で、人の営みがあるわけではない。とにかくこの湖を楽しむしか方法はないのだ。ぼくはそのレストランの一つで「モモ」を食すことにした。

 モモとは、チベット料理の代表格で、分厚い餃子のような皮で様々なものを包んで蒸したものだ。ぼくのいちばん好きな食べ物で、味的には中華の味だけれど、インド風のスパイシーなソースをつけて食べることになっている。ぼくはチキン・モモを注文した。思いのほかの辛さにびっくりしていると、ドゥドゥが入ってきてぼくの前の席に座った。

「私はこれから先に進むわ。あなたとはこれでお別れ。日本に行ったとき会いましょうね」

 日本に行く、というのは結構本気らしく、彼女には行きたい国が四つあるのだという。このインド、エチオピア、エジプト、そして日本がそれだ。ぼくは「日本に来たら案内するよ」と言い、アドレスを交換した。そして、ぼくのメモ帳に「Zen Master BANKEI」と記して、あとで調べるようにと言った。

「じゃあ。今度は日本で!」

 お互いそう言って、彼女は小気味のいい足取りでパンゴン湖を後にしていった。

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