きっと、うまくいく? ④トレッキングとは?

 そのレーについたのは午前九時半ごろだった。富士山の山頂ほどの標高があるので、飛行機で急にやってきた者は、まずこの高度に身体を慣らさなければならない。すぐに運動するのは禁物なのだ。

 レーでの滞在先のホテル「メハク」(ハにアクセント)のオーナーに「トレッキングの旅」の予定を提示された。

 滞在期間は、移動日を含めないで五日間(前後の移動日を含めると六泊七日)なので、まず今日と明日は高度に身体を慣らす日とすることを勧められた。去年で勝手は知っているので、ぼくもそのことには賛成。そして明後日から三日間、好きなところへと「トレッキング」して結構だと言われた。候補は「パンゴン湖」と「ヌブラ渓谷」の二か所。前者は日帰りが一般的だが、後者は現地で一泊することになるらしい。テントを張って野営するのだろうか。そんなことぼくにできるだろうか。そういえばキャンプは高校生のときにしたけれど、人里近い海水浴場だったし、管理された場所でのものだった。日本語の通じないヒマラヤの山で一夜を明かすなど、ぼくにできるのだろうか。

 そう心配するぼくに、オーナーは優しく言ってくれた。

「何を言っている。そこまではエアコンの効いた車で行くし、ちゃんとしたホテルに泊まる。途中一万八千フィートの山越えはあるが、目的地は高度的にはこことほとんど変わらない。女こどもでも誰でもみんな楽しく行って帰ってくるぞ」

 そうか、そうなのか。何を案じていたのだ。「トレッキング」とは、防寒着も持たずに、車で行ってホテルに泊まって車で帰ってくることだったのか。なんと手軽で楽しいものなのだろう。ぼくは、パンゴン湖とヌブラ渓谷、その両方に行くことにした。

拍子抜けするとともに、安心して、軽い気持ちになった。ゆっくりと町でも歩こう。

 レーの町は(街というよりは町)、今がシーズン真っ盛りだが、冬は雪こそ少ないもののマイナス何十度にまで下がる厳しい不毛地帯だ。その季節はおそらく、活気づいているこの店々もシャッターが下り、人々はシーズン中に稼いだお金を持って過ごしやすいところへと移ったり、田舎に帰ったりするのだろう。

 町を歩くのは、ほぼ全員欧米からの観光客といってもいい。半袖短パンの者もいれば、冷え込む日暮れに備えて防寒着を着ている者もいる。皆カラフルで、チベットの日差しと相まって、目に眩しく、それが心地よい。アジア系の顔も見られるが、ごくわずかで、その全員の顔を把握しているかもしれないくらいだ。

 ぼくにとって、ただ歩くことは愉しい。今は高度に身体を慣らすためだけに、ここにいるのだ。無理な運動はせずに、ただいるだけでいい。われわれの日常でこういった時間はあるだろうか。長大な「待ち時間」を謳歌しよう。猫のように、ただその時をじっと待つ。それが今のぼくのすべきことなのだ。待ち時間は大好きだ。

 そんな時間を利用して寄りたかったのが、レストラン「ジェスモ」である。去年、日本に帰れなくなりひどく落ち込むぼくを笑って対応してくれたお店で、おかげで陰気にならずに済んだ記憶があったので、今年もそこに「帰って」きたかったのだ。

 店内は、ちょうどお昼時を過ぎたあたりだったので、客はほとんどいない。のんびりとした空気が漂っていて、雰囲気も去年と全然変わっていなかった。この落ち着く感じが好きだったのだ。メニューを見て、ヤクの乳で作ったチーズのサンドイッチとコーヒーを頼むことにした。コーヒーはもちろん「ブラックで」お願いした。そうでないと……。

 ヤクというのは、ここのような高山に住む、大きなヤギのような生き物で、荷物の運搬に使ったりもする。砂漠でいうところのラクダのようなものだ。それから取れた乳で作ったチーズは、思ったほどの癖もなく、食べやすい。いや、美味しいといっていい。すんなり体に入ってきて、二枚をぺろりと平らげてしまった。「ブラックコーヒー」との相性もいい。

 その料理を運んで来た店員が、すぐに帰らずに何やら言いたそうな雰囲気を漂わせている。ぼくが視線を向けると、彼はこう言った。

「間違ってたらごめん。もしかして去年も来てたよね? あの席でコーヒーを飲んで……」

 まさか。ぼくのことを覚えていた。そう、彼の言うとおり、ぼくは日本に帰れない間中、この店でコーヒーを飲んだりして気を紛らわしていたのだ。たった三、四日の「常連」の顔を一年経っても覚えているとは。それがこの店の繁盛するゆえんだろう。ぼくも彼の顔は覚えていた。三十歳くらいのイケメンで、今風のサッカー男子のような格好をしている。髪型も日本でも流行っているような、サイドを刈り上げたあれだ。

「そう! また来たんだよ。ここが気に入って。去年は飛行機の欠航で大変だったけど、今回は一週間くらいいる予定だよ」

 パンゴン湖やヌブラ渓谷に行くことを話したり、滞在するホテルことを話したり(あそこは良い、と彼は言った)、インド映画のことを話したりして、けっこう楽しかった。普段日本にいても、全然おしゃべりではないぼくも、彼とはなぜか上手くしゃべることができるのだった。彼だけではなく、レーの人々には多かれ少なかれ、そんなところがある。だからここが好きになったのだ。

「ところでパンゴン湖ってどの辺?」

 そう聞くぼくに、彼はすぐそばに貼ってあったラダック地方の地図を見せて説明してくれた。見ると、ほとんど山である。パンゴン湖はここから約一五〇キロ東の、中国チベット自治区との国境あたりのようだ。改めて見ると、こんなところに人の営みがあると思ったら、ぞっとするではないか。恐ろしいとともに、まだ見ぬパンゴン湖に不安と期待が生まれた。

 彼は、この湖が映画『3 idiots』(邦題『きっと、うまくいく』)に登場することを教えてくれた。そうなのだ。ぼくは、ホテルのロビーに張ってあったパンゴン湖の写真を見たときからずっと引っかかるものがあったのだ。この風景、ラダック地方という場所……。もしかして『きっと、うまくいく』のあの場所ではないか?

「そうだ。君もあれを観たのか!」

「うん。最高な映画だったね。そこに行けるなんて!」

 ぼくと映画『きっと、うまくいく』の出会いについて少し説明しよう。

 去年、ぼくはバラナシという、ヒンドゥー教の聖地を訪れていた。熱心な教徒がガンジス川で沐浴をしているあそこだ。ぼくはそこで元気なインド人青年三人組と出会い、彼らと行動をともにしたのだ。ガンジス川を渡るボートの上でそのリーダー格がこう言った。

「おれたちは『3 idiots』だ」

 そういう有名なインド映画があるらしい。それを聞いたぼくは「日本に帰ったら必ず観るよ」と言い、メモした「3 idiots」の文字を頼りに『きっと、うまくいく』を探し当て(有名な映画なのですぐに見つかった)、その約束を果たしたのだった。

 映画は最高の娯楽作。一流の工業大学に入学したランチョーとその親友二人の三バカの話なのだが、コメディあり、ミステリーあり、もちろん歌とダンスありの、笑って泣いて、観た後にはすっきりする、是非お薦めしたい映画だ。気になった方は観て損はないと思う。ちなみに、パンゴン湖の名前を出したところでネタバレでもないだろうし、ご安心を。

 どこか、旅がうまくいっている気がして、もの足りなさを感じつつも、「高度に慣らす」という待ち時間を、ぼくは堪能していた。

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