序章 《過去転移》

 そのとき俺は、流星雨で満たされているかのような奇妙な空間にいた。

 星のような光がいくつも上から下へと落ちていく。ただし地面は存在せず、俺の体は浮いていた。《れいこん》して異界に来たためだ、別に物理的に浮いているわけではない。

 そして俺の前に、彼女は現れた。まるで最初からそこにいたかのように。

「ジレン、久しぶりだね……と言った方がいいのかな?」

 きゃしゃな見た目は幼い少女のようにも見えるが、しゃべり方や雰囲気からはどこか中性的な印象を受ける。おまけにその体は不思議な光のヴェールに包まれており、まるで天使のようだ。

 もっとも精霊である彼女に、性別という区別があるとは思えない。人間である俺の認識ではそのように見えるというだけだ。

 どのみち、見た目はどうでもよかった。必要なのは彼女の力だからだ。

「一か月ぶりだな、時空の精霊。準備と覚悟はできた、今こそおまえの真名を教えてくれ、力を借りたい。俺は……過去に転移したい」

 俺たち精霊使いは、異界に存在する精霊の真名を聞き出すことで魂と魂が結びつき、その力の一端を行使することができる。《融合契約》と呼ばれる行程だ。

 精霊は万物をつかさどると言われている。ゆえに精霊使いたちの間では、ある推測があった。精霊が万物を司るなら、時を司る精霊もまた存在するのではと。

 だが時の精霊を見つけた者は今まで誰もいなかった。考え方が間違っていたのだ。時ではなく、時空。そこにヒントがあったのだ。

「いいとも、じゃあキミにボクの真名を教え、過去に転移してあげよう。ただ前にも話したと思うんだけど、《過去転移》にはいくつもの制約を伴う。いいんだね?」

「分かっている、問題ない。俺の考えている通りなら、俺は召喚術を極められるはずだ」

 召喚術を極めるには膨大な時間がかかる。通常なら何代にもわたって精霊使い同士で婚姻を繰り返し、子に力を引き継がせる必要があるからだ。

 だがもし過去へ転移できるのなら、俺一人でも強大な力を手に入れられるかもしれない。そのためにこそ、俺は時空の精霊を探し出したのだ。

「念のため言っておくけど、キミは若返るわけじゃないんだよ? あくまで今の姿形のまま過去に転移するだけだ。それでもいいのかい?」

「ああ。俺の目的は幼いころの俺自身を教育することだからな」

「分かった。じゃあ《過去転移》に伴う三つの制約について説明しよう」

「必要ない。前に会ったときに聞いただろう」

「そうはいかない、これはボクの義務だからね。理解してもらえなくてもいいけど、ボクにとっては昨日も明日も同じモノなんだ。だから都度説明しないとまずいんだよ」

 確かに理解しがたい話だった。だが、義務と言われては仕方がない。

「まず一つ。キミが過去に転移したとしても、歴史に大きな影響を与えることはできない」

 言いながら時空の精霊は、指を一本立てた。

「理解できなくてもいいけど、キミが存在する世界の時間は一本の線でできている。過去を改変すれば、その瞬間未来にも影響が出る。だから《過去転移》してなにか行動したとしても、それが歴史に多大な影響を与えると判断されれば、因果律によって修正されることになるんだ」

「因果律か。何度聞いても聞き慣れない単語だな」

「まあ神のようなものだと思っておくといいよ。たとえばキミが過去に戻って有名な王を殺そうと矢を放ったとしよう。だけどそれが歴史に与える影響が大きい行為だと判断されれば、放った矢は因果律によって必ず外れる」

「理解してるつもりだ。ただし、明日死ぬ人物が今日死ぬぐらいの差は許容できるんだろう?」

「すべては因果律次第だよ。歴史に大した影響が出ないと因果律が判断すれば、どんな有名な王だって死ぬときは死ぬとも」

 物騒な説明をしながら、時空の精霊は二本目の指を立てた。

「二つ目の制約。キミはキミが生まれる以前の時間には戻れない。過去に戻ってキミが親を殺し、キミが生まれない歴史になると、因果律にも修正できない矛盾が生じることになるからね」

「もっともだと思うが、一つ目の制約とかぶってないか? 過去に戻って両親を殺そうとしても、因果律が修正しそうなものだが」

「その通り、理解が早くて助かるね。だけどたとえばキミの両親が、歴史になんの影響も与えないようなへきに住んでいたとしたら、因果律とて見落とすかもしれない。キミが生まれなくなる可能性を手っ取り早く摘み取るには、誕生以前に戻れなくするのがもっとも簡単な処置なんだろうさ」

「分かった、どのみち問題ない」

 俺が生まれる以前の歴史に興味はないし、そもそも親の顔も名前も知らないので干渉しようがなかった。

「三つ目、最後の制約だ。一人の人間が過去に跳べるのは一度だけ。正確に言うと《過去転移》を行った時点で、キミとボクの契約は因果律によって強制的に解消され、ボクを感知することは二度と不可能になる」

「精霊との契約が解除されるなんて話は聞いたことがない。それだけでも歴史が変わるほどの大事なんだがな……」

 俺は苦笑しながらつぶやいたが、そもそも《過去転移》だってぜんだいもんである。なにがあったっておかしくはなかった。

 いずれにせよ、俺にとってこれが最初で最後の過去転移となるわけだ。たった一度の過去転移で召喚術を極めるには到底時間が足りない。だがこれについても考えがある。上手うまくいけば回避できるかもしれない。

「そうそう、これは助言だよ。キミは過去の自分を教育したいと言っていたけど、過去の自分は絶対に守ることをオススメするよ。もし過去のキミが死んだ場合、キミは即座に消滅することになる。これは因果律による修正行動の一つだよ」

「過去の自分だ、言われるまでもなく守るつもりではいるが。じゃあ逆に、過去に転移した俺自身が死ぬとどうなる? 過去の俺も消滅するのか?」

「そんなことはない。過去でキミが死んだとしても、その時点で歴史が確定するだけさ。世界は何事もなかったように続くよ」

 不思議なものだ。俺が死んでも影響はなく、転移先の俺が死ぬと今の俺は消滅するという。それが歴史への影響を最小限にする方法なのだろうが。

「じゃあ説明はこれで終わりだ。心の準備はいいかい?」

「それはもちろんだが……いいのか? 上位精霊であれば、戦って力を示さなければ真名は教えてくれないと聞く。誰にも発見できなかった希少な精霊が、それほど簡単に真名を教えてくれるのか?」

「もちろんだとも、ボクを発見できただけでキミにはその資格があるからね。大体、ボクが振るえる力は因果律が許す範囲に限られている。《過去転移》なんてボクにとってはホコリを吹き飛ばすようなものだよ」

「分かった。なら真名を教えてくれ、俺と《融合契約》を」

「教えよう、精霊使い。ボクの真名は──クロノスだ」

 真名、すなわち真の名前。俺たちの世界において、名前とは個人を識別する要素でしかない。だがこの異界において、真名を聞くことは魂が結びつくことを意味する。それゆえこの真名を聞き出すという行為こそが、俺たち精霊使いにとっての契約の儀式──すなわち《融合契約》となる。

 事実、クロノスという名前を聞いた瞬間、俺という魂が彼女と結びつく不思議な感覚があった。俺は思わず身構えた。《融合契約》を行う際には契約酔いという現象が起こる。精霊と魂が結びつくことにより、体の均衡が崩れることによる体調不良だが、命にかかわるほどその影響は大きい。

 相手はいまだかつて誰も契約したことのない精霊だ、どれほど大きな契約酔いがあるかと思ったが──俺の魂に大きな変化は感じられなかった。クロノス自身が言った通り、彼女の振るえる力というのは非常に小さなものなのかもしれない。

「さあ、これでキミは《過去転移》ができる。戻りたい時間を言うといい」

「……分かった」

 なんとなく分かる。今の俺には過去に転移できる力があると。

 俺は自分が生まれた日を知らない。孤児だったからだ。だが孤児として拾われた日なら分かる。

「戻るべき時間は今から一八年前。フェロキア暦二〇〇年、初春の月一五日の日の出だ」

「へえ、二〇〇年。分かりやすい節目だね。まあ人の暦なんてどうでもいい、じゃあ次に戻りたい場所を強く思い浮かべながら、ボクの真名を告げるといい」

「分かった。契約に応じ、力を貸してくれ。時空の精霊、真名クロノス」

「いいとも、異なる世界の精霊使い。まあ好きにやってみるといいよ」

 クロノスは指をパチンと鳴らした。次の瞬間、俺の体は光に包まれた。足、手、胴、顔。すべてが白い光で塗りつぶされていき、そして──。

 俺は一八年前に戻った。

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