第84話 不意打ち

 先に異変に気がついたのは物陰に隠れ店の様子を窺っていたニック。次いでアレクの順だった。


 酒場の入り口に立つ男が新たに入店しようとした客を手を振って追い払ったのだ。ロナルドたちが入店してから何人か店に入っていったが、それは初めてのことだった。ニックは目を細める。


 (なにかあったのか?)


 そう思うも、ここからでは中の様子までわからない。


 ニックは物陰から立ち上がると通りに姿を現した。それをみて後を追いかけようとしたアレクを手を掲げて制止する。


 行き交うひとの波に紛れて通りを歩めば、周辺に建ち並ぶ酒場のところかしこから喧騒が洩れて聞こえてくる。


 店に近づくと入り口に立つ男が殺気立ったように通行人に鋭い眼光を走らせていた。目が合った瞬間に殴りかかってきそうな険悪である。フードを目深にかぶってうつむき、ゆっくりと男の前を通り過ぎる。


 そのときだ。


 ガシャンッ!!


 ひときわ大きな物音がニックの耳を突き、思わず肩を揺らして足を止めた。耳を澄まし、溢れる喧騒の中から集中して酒場の音を聞き分ける。


「くそが!」「この野郎!」何かが割れる音。ぶつかる音。ガシャンガシャンと大きな物音がひっきりなしに聞こえる中でそんな罵声が飛び交い、そして――


「副隊長っ!!」


 そんな悲鳴が信じられないほど明瞭にニックの耳に飛び込んだ。


 足を止めたニックの背後から不審な目つきを向けて男が歩み寄り肩に手を伸ばしたのと、首元にかけた警笛をニックがつかみ取る。それは同時のことだった。


 ピィ――ッ!


 地下街の静寂を甲高い警笛が切り裂いた。

 それを合図に周辺に潜んでいた隊員たちが一斉に飛び出す。


「中だ!!」


 目をひんむいて飛びかかってきた男と絡まり合いながらニックは叫ぶ。


 殴り合いを始めたふたりには見向きもせず体当たりをしてドアを突き破り、雪崩のごとく店内へ流れ込んだ隊員たちは即座に現状を把握すると、現場を制圧すべく手近のならず者たちに殴りかかった。


 たいして広くもない店内で、すし詰め状態の正義と悪が激突する。突如として地下街に姿を現した警備隊にひとびとは目を丸くし、何事かと店先で歩みを止めた。


 その様子を一足先に裏口から抜け出していたゲイリーは、口元を歪め物影からみつめる。


 店内で暴動を起こさせたのは周囲に潜んでいる警備隊をおびき出すためだっ

た。これで周囲はがら空き。自由に逃げられる。


 まさかホーキンスが口を割るとは思わなかったが、警備隊が来たことからみて間違いないだろう。あいつは口を割ったのだ。


「ホーキンスめ」


 まあいい、取引は今夜だ。ぎりぎりだったが、なんとかなりそうだ。赤い片瞳をすっと細め、ゲイリーは闇の中へ溶け込むように姿を消した。


 ニックの悲鳴にも聞こえた警笛は地下街に響き渡った。大通りでは蟻の子を散らすように闇商人たちが逃走を始めている。場は一瞬で騒然とし、アレクは顔を青ざめてその場に立ち尽くし、為す術もなくその様子をただ眺めていた。


 ロナルドになにかあったのだ。それだけは確実にわかる。様子をみに行ったニックが警備隊を呼び集めなければならないほどの緊急事態が発生した。


 なにがあったのだろう。ロナルドは無事なの? 


 ひんやりとした心臓が呼吸すら止めてしまいそうなほど痛い。


 アレクの足は無意識のうちに、ふらふらと通りに向かう。逃げ惑うひとたちでごった返す大通りでは、店の様子は遮られて見ることができない。そんな中、背後から地を蹴って近づいてくる足音にアレクは気がつかなかった。


 どんっ! 


「あっ!」


 突然背後から衝突を食らい、アレクの体は大きく前によろめいた。力なく歩んでいた足は地を離れ、からだがふわりとした感覚を覚える。ロナルドのことであたまがいっぱいだったアレクには、一瞬なにが起きたのかわからなかった。


「おっと!」


 焦りを含んだ誰かの声が、かすかに届く。


 衝突の反動で遊ぶように浮いてしまった腕をつかみ取る手。同時に腰が力強く引き寄せられる。目の前に迫った光景がぐるんと反転する。すべてがほんの一瞬の出来事で、気づいたときには目の前に赤い片瞳があった。


「悪い。大丈夫か」


「え……」


 少し驚いた表情を浮かべ、自分を見下ろす切れ目の紅い片眸は目と鼻の先にあり、ルージュのような赤い髪と薄い唇が近くの松明に揺れて妖艶に光り輝いている。


 綺麗な顔立ちのひとだけど声がほんの少し男性より。それがなければ女性だと勘違いしたかもしれない。


 驚きと困惑の中で一瞬魅入ってしまったアレクはハッと我に返る。


 いったい何がどうなってしまったの。いつの間にか自分の体は仰向けに横たわり、綺麗な男のひとに抱きかかえられている。左目を縦に裂いた大きな傷が痛々しい。だけどやっぱり綺麗なひとだ。


 場違いにもそんなことを思い、茫然と男の顔をみつめるアレクのフードがするりと落ちた。


 さらりとこぼれ落ちた白金髪プラチナブロンドと自身を見上げる紫色の双眸。


 男は軽く目を見張った後アレクの顔をまじまじとみつめ、おもむろに頬に指を滑らせた。そして唐突に顔を近づけ――


 アレクの唇を塞ぎこんだ。


(ん!?)


 あたまが真っ白になり、目はこぼれそうなほど大きく開いた。それは客観的にみればほんの一瞬のできごとだった。しかしアレクからしてみれば違う。驚きのあまり体が硬直してしまい、時が止まる。


 男は石のように固まったアレクから唇を離すと、味わい惜しむように舌先で唇を舐めとり実に艶めかしい声色でささやいた。


「おまえ、綺麗な顔してるな。俺の女になるか?」


 

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