第42話 バロンの疑念

 その頃。バロンは今か今かとアレクが隠れ部屋に来るのをそわそわしながら待ち構えていたが、約束の時間をとうにこえているのにもかかわらず、アレクどころかモーリッシュさえも姿を現さないことに苛立ちをつのらせていた。


「モーリッシュはなにをやっているんだ! 金は準備してあるんだぞ! まさかあいつ……アレクを自分の物にしようと逃げたんじゃあるまいな!?」


 興奮状態のイノシシのように部屋中を右往左往しながらバロンはそう叫ぶと、ハッと顔をあげて立ち止まった。


(まさかモーリッシュもアレクの瞳を見たのでは?)


 そんな疑念があたまをよぎる。アレクは男色の気がなくても、男でさえ惚れ惚れするような美しさをもつ少年なのだ。まさかあいつも心を奪われ、売る気がなくなったのではないか。


 一度生まれた疑念は考えるほど泥にはまる。


 いてもたってもいられなくなったバロンはアレクを取り戻すため部屋から飛び出した。後方ではバロンの護衛が「いけません!」と驚愕の表情を浮かべて叫んでいたが、バロンの耳には入っていない。


(金は用意したんだ。今夜、必ずアレクをこの手に取り戻す!)


 松明さえも手にせず飛び出したバロンの後をあわてて護衛が追いかけてくる。後方からうっすらと照らされる灯りだけを頼りにトンネルの壁に手をはわせ、バロンはモーリッシュの隠れ部屋に向けて走るように歩みを進めた。


 その後、追いついた護衛と共にモーリッシュの部屋へ踏みこんでみたがモーリッシュの姿は見当たらず、アレクのいた部屋には見知らぬ少年――ケルトがひとりいるだけ。


 バロンは目をつり上げてケルトにつかみかかると、唾を吐き散らしながら怒鳴り声をあげた。


「おい、おまえ! アレクはどこにいった!」


「え……?」


「呆けてんじゃねえよ! アレクは!」


「だ、誰ですか。なんなんだ、いったい……」


「くそが!」


 バロンはケルトの目隠しを剥ぎ取り両頬を潰す勢いで挟み込むと、ぐいっと自分の目の前に引き寄せてにらみつけた。


「いいか、よく見るんだな。俺様がバロン・メリオス。この地下街を牛耳る男だ。てめえの虫けらのような命なんぞ一瞬で刈り取れる死に神だよ。ここでそこの死体と一緒に眠りたくねえなら、さっさと答えるんだな。アレクはどこにいった!」


 そういってバロンがあごで指したのは、背中を一突きにされて息絶えているノーランの無残な死体だった。ケルトは目を丸くしてその死体を凝視していたが、間もなくして挑むような視線をバロンに向けて言い放った。


「おまえがバロンか。アレク様を慰み者にした愚か者! 死ね!」


「はっ、ずいぶん威勢がいいじゃねえか。アレク様だ? おまえも魅了されたクチかよ、笑えるぜ。アレクの代わりにおめえを相手にしてやってもいいが、いまは時間がねえんでな。いわねえなら死んでもらう」


 思わずアレクのとの約束を忘れ「アレク様」と口に出してしまったケルトだったが、バロンは呪力による陶酔だと勘違いをした。そんなことは、いまのふたりにとってどうでもいいことだったが。


 そんなバロンはふんと鼻で笑うと腰からナイフを取り出してケルトの首筋に押し当てた。


 ぴりっとした痛みが肌を襲い、当てられた刃先からは血がにじむ。だがケルトはぎりぎりと奥歯を噛みしめながらバロンをにらみ返した。


 自分は死など恐れない。アレク様を守るためなら、いつだって命を捨てる覚悟はできている。だがバロンのもとへ連れて行かれたはずのアレク様を本人が探しているとはどういうことだろう。


 もしかして逃げ出したのだろうか。もしそうなら、自分はこんなところで死ねないとケルトは考える。アレク様が逃げたのなら、このおぞましい国を抜けて年老いて死ぬまでふたりで幸せに暮らすのだ。


「アレク様は……モーリッシュとかいう男が連れていった。おまえのところに向かったはずだが会わなかったのか」


「なに?」


 素っ頓狂な声をあげてバロンは目を丸くする。


「そいつはどういうことだ?」


「知らないね。いつも通り護衛の男と一緒にきて、おまえのもとに連れていくといった。すれ違ったんじゃないのか」


「すれ違った……?」


 間の抜けた顔でバロンはぽつりとつぶやくと、直後血相を変えて部屋を飛び出していった。また一瞬出遅れた護衛たちもあわててバロンの後を追う。


 再びひとり部屋に取り残されたケルトはドアの奥をじっと見据える。


 そう、開け放たれたドアの奥へと続く通路を――

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