第32話 欲望の使者

 追跡班とロナルドが完全にアレクを追う手がかりを失ったことに気がついたころ。

 

 そうと知らないアレクはケルトと作戦を立てていた。作戦といっても大したことではないが、まずケルトには「アレク様」の呼び方はやめるように指示をした。

 

 いまはもうその身分はないのだし、バレリアの呪いに事足りず身の上まで利用されては大ごとになってしまうからだ。そのことについてはケルトも納得した上で了承した。

 

 そして与えられた猶予ゆうよである二日間は、なにがあっても大人しくモーリッシュのそばにいること。もしバロンが現れなくても、できるだけバロンについての情報を集めること。


 そして可能ならば逃走ルートを確保しておくこと。これはケルトからだされた提案だった。

 

 マーリナスとベローズ王国警備隊を信用しているアレクとしては、必要ないことではと考えたがケルトは違った。


 確かにベローズ王国警備隊は優秀だが、それとて確実とはいいがたい。


 これから待ち受ける二日間でなにが起こるかなど、誰にもわかりはしないのだから。


 もし二日経過しなくても、もしアレクの身に危険が迫るようなら機会をみて脱出する。協力するとはいったものの、そんな思惑を秘めるケルトの意志は固かった。


 まあ、相変わらず目隠しをされた上に手足は拘束されて身動きひとつ取れない状態ではあったのだが。

 

「一体わたしたちはどうなるのでしょう」

 

 ケルトが不安げにそうつぶやいた時だった。

 

 重い金属音の軋む音にふたりは思わず会話をやめて押し黙り、耳をそばだてる。

 

 目隠しをされているため、なにが起きているのか二人にはわからなかったが、ドアが閉まった音と耳に届くかすかな足音。

  

 徐々に近づいてくる足音はひとり分。だが会話がない。ひとことも話さず、ただ黙って近づく気配に二人の間になんともいえぬ緊張感が走る。

 

 その足音はアレクのすぐ近くで停止した。

 

「誰ですか」

 

 こくりとのどを鳴らしたアレクの問いに答えはなかった。

 

 だが――

 

「んっ……!?」

 

 突如、開いた唇を温かな吐息と共にふさがれた。驚きのあまり身を引いたアレクだったが、後ろに体を支えるようなものは何もなく体はぐらんと後方に傾いた。


 思わず衝撃に備えてかたく目をつぶり体をこわばらせると、背中が床に打ちつけられる前に太くがしりとしたものが首を支え、同時に大きな安堵のため息と共に低い声がアレクの耳に届いた。

 

「おっと……あたまを打つところだったじゃねえか。危ねえな」

 

「あなたは……」

 

 一体誰なの。そう問いかける前に男はゆっくりとアレクの体を床に倒し、頬を指先でなぞりながらうっとりとした声で言葉を紡いだ。

 

「俺か? 俺はなノーランっていうんだ。アレク」

 

「ノーラン。一体なにを……」

 

「そりゃあ、ひとつしかねえ。お楽しみさ。おまえを見た時からあたまがおかしくなっちまった。おまえが欲しくてたまらねえんだよ」

 

 そこでアレクはハッとする。

 

 (そうだ、この声。さっき目が合ったあの男だ!)

 

「やめろ、外道が! その方に触るな!」

 

「ああん?」

 

 上体を乗り出し顔を紅潮させてケルトは叫ぶ。そんなケルトに男は視線を流しにらみつけた。


「なんだてめえ」


「わたしは……」


「ケルト!」


 言葉をさえぎるように叫んだアレクに、ケルトはハッとしたように唇を噛みしめる。決して以前の身分をいってはならない。それはいましがたアレクと決めた約束ごとだ。


 悔しそうに口を結んだケルトに向かってノーランは小さく鼻を鳴らすと、すぐさまアレクに興味を戻し白く滑らかな肌に再び指をはわせて耳元でささやいた。


「俺のものになれ、アレク」


 手足が拘束されているアレクには言葉で拒否することしかできない。だがそんなものはノーランにとって、なんの意味ももたないものだ。


 夜のとぎよろこぶ女のように、甘い声で嫌だとささやいているようにしか聞こえない。それはノーラン気持ちをさらに高揚させ、あおり立てる。


「ああ……好きだぜ」


「待っ……!」


 股を広げて体を挟みこみ押しつぶすように覆いかぶさったノーランにアレクは身動きひとつできない。そんなアレクの唇を強引に押し開き、ノーランは荒々しく口をふさぎこんだ。


「んっ……は……やめ」


 嫌がって顔をそむけようとするアレクを逃がすまいと首に回した手に力をこめて自身に引き寄せるノーランに、息つく暇もなく再び唇をふさがれる。


 こんな強引な行為は久しく経験していなかったことだ。思いだすのはマーリナスとの優しいキス。どんな時も優しく重ね合わせてくれたあの唇が、あの瞬間が、何よりもしあわせだった。


 あの幸福感に慣れすぎてしまったのか、過去に何度も交わしたキスと何も変わらないこの行為。

 

 呪力に溺れ、ただひたすら貪欲で。


 前はそれでも受け入れられた。だけどいまはただただ、嫌でしかたがない。


 心が、引き裂かれてしまいそうだった。


 そんなアレクの目にうっすらと涙が浮かぶ。


「やめろおおおっ!」


 ケルトの叫び声がいくら部屋に響き渡ろうとも、一度火のついたノーランを止めることなど誰にもできはしない。


 アレクが苦しげに顔を歪ませようとノーランはまだまだ足りないというように、餌に群がる野生獣のようにアレクの腔内を犯し続ける。


 そのノーランの手がアレクの上着の中にするりと入りこんだ時だった。


 ズシャッ……


「んぐっ」


 ノーランのうめき声と共に手の動きはぴたりと止まり、噛みしめた歯がアレクの唇を噛み切った。


「なん……」


「ノーラン、てめえ。なにしてやがる?」


「あ……?」


 ノーランは力が抜けていく体と腹部から突き出ている刃先に呆然としながら、唇から血を流し背後を振り返る。


 長剣を自分に突き立て見下ろしている人物、それは――


「バ……バロンさん……」

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