第18話 離れない闇
その人物が上層に頻繁に姿を現している。
アレクは青ざめながらその書類を穴のあくほど見つめる。
モーリッシュの上客はバロンだった。そのバロンはマーリナスに捕まったはずだが、その後はどうなったのだろう。
「バロン・メリオス?」
「はい。あれからどうなったのかと思って」
その日の夕食どき、アレクは思い切ってマーリナスにたずねてみた。
処刑か刑罰。そんな返事を期待していたが、マーリナスは手にしていたカトラリーを皿に置くと静かな眼差しをアレクに向けた。
その表情はどこか暗く思い詰めたもので、これから出る言葉がよくないものだと予感させる。
「アレク。落ち着いて聞いてくれ。バロンは……釈放された」
「え……」
「もう二週間前のことだ」
「そんな……だってあんなことをする人なのに?」
申し訳なそうに眉を寄せたマーリナスにアレクは目を丸くして問いかける。
なぜあんな悪党を釈放しなければならないのか。それはアレクに問われるまでもなく、マーリナス自身が常におのれに問いかけていることだ。
警備隊の圧倒的な権威の低さと上層からの圧力。貫きたい正義感とお役所勤めの縦社会に何度も葛藤を繰り返し、なんとか不満を飲みこみながらやってきた。
だがバロンの被害者であるアレクにそう問われてしまうと、自分の無力さを突きつけられるようで、言いようのない責め苦が胸を締めつける。
「わたしの力が及ばぬばかりに……すまない」
「あ……違います。マーリナスを責めたわけじゃありません。ただ少し驚いただけで……」
「しかし……なぜ急にバロンのことなど。なにかあったのか?」
それでアレクが昼間見たモーリッシュ・ドットバーグの報告について話をしたころ、それを聞いたマーリナスは顔をしかめて小さくうなった。
「モーリッシュ・ドットバーグか。主に人身売買を生業にする闇商人だな。あの男の活動域は他国に渡る。警備隊は王国からでられないから、国外にでられると手に負えなくてな」
「ですがいまはこの国に滞在しているようです。絶好のチャンスなのではありませんか?」
「そうだな、裏をとってみよう。もしかするとバロンが釈放された噂を聞いて戻ってきた可能性もある」
その日の夜、アレクは夢を見た。
屋根が半分崩れ落ちて隙間風がどこからともなく吹きすさむあばら屋小屋。そこで身を寄せ合って眠るふたりに近づく影。
あっという間に身柄を拘束されて麻袋をかぶせられ、やっと視界が開けたと思ったら見知らぬ男の前にひざまずいていた。
目が合ったその男は舐めるような視線をアレクに向けた。思わず全身があわだつほど、ねっとりとしたその視線に恐怖を感じたのはいまでも忘れられない。
「う……」
男の部屋に呼び出された後は必ずロイムに口づけを求めた。自分の体に染みついた男の形跡をすべて消し去りたくて、ロイムの体温で上書きを繰り返す。それはロイムも同じだった。
偽物の感情で偽物の愛を交わして。それでも、そうしなければふたりは夜を乗り越えられなかった。
「…ロ……ム…」
――俺のことは忘れろ――
閉ざされたアレクの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。
忘れることなんてできるはずがない。あんなに優しい目で涙をこぼしながら嘘をついたロイム。ロイムはちゃんと希望通りサフェバ虫に生まれ変われたのだろうか。
「ロイ……ム」
くくくくく……
アレクをとらえた紫色の獰猛な瞳。そしてバロンのあの笑い声がいつまでも耳にこびりついて離れない……
「う……」
「……ク。アレク!」
「ん……」
頬をなでる感触にアレクはふと目を覚ました。目の前には心配そうに眉を曇らせてアレクを見下ろす群青色の瞳。
「……マーリナス……」
「ずいぶんうなされていたな。大丈夫か?」
指先でアレクの涙を拭い取り、マーリナスはアレクの髪を優しくなでた。ほんのりとその手から感じる体温にアレクはほっと肩の力を抜く。
「嫌な夢を見てしまったんです」
「そうか。もう一度眠ればきっとスッキリする」
それは悪い夢の続きだったのかもしれない。
ぽっかりと心に空いた穴は言葉では埋められず、とても心細くてもっと近くに寄りそってほしい。冷たくなった心をその体で、その心で温めてほしい。その欲が止められない。
アレクはマーリナスの頬に手を伸ばすと、静かに言葉を紡いだ。
「キス……してくれませんか」
夜明け前のとばりに溶けてしまいそうな弱々しいアレクの声に、マーリナスは目を見張る。
「具合が……悪いのか」
そんなはずはないとわかっている。けれどいまはまだ、その「条件」は必要なことだから。
「そう……具合が、悪いんです」
瞳に薄らと涙を浮かべて、アレクは小さな笑みを浮かべた。
「そうか。それなら……仕方がないな」
互いに言いわけをして体裁を整えて。
アレクがマーリナスの首に腕を回して引き寄せると、マーリナスはアレクの上に覆いかぶさった。目を閉じて互いの鼓動が伝わるほど近く抱きしめ合い、口づけを交わし合う。
それはまたひとつ、互いが心の中の枷を外した瞬間だった。
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