5―5「絶対文感」
嵐の中を飛び出して行く前の騰波ノは狂って見えた。何よりも怖かった。普段からあんな風になった騰波ノを、一度も見たことはなかった。
その日の晩は結局眠れなかった。停電してベッドに入ったものの、外は激しい嵐で騒がしく、その中に飛び出して行った騰波ノが頭から離れなかった。
彼から追いかけるなといわれたが、嵐が過ぎ去った朝早くに出掛けた。三島マーケットの近くで不審げにうろうろしながら、通行人に寮のある場所を聞いて回った。手当たり次第にポストに書いてある名前を確認し、ようやく騰波ノの部屋を突き止めたのだった。
「お邪魔します……」
玄関に入ってすぐの廊下に、原稿用紙が一枚、二枚と落ちていた。マス目には、びっしりと文字が敷き詰められている。その原稿用紙を空緒は拾った。
「鳴」
落ちている原稿用紙を辿っていく。導かれるように部屋に入り、空緒は驚いた。
「えっ」
大量の原稿用紙が散乱した部屋。そこで騰波ノが大の字で倒れていた。一度言葉を失った空緒は、慌てて騰波ノの元へ駆け寄る。
とても安らかな表情だった。
「何が、あったの」
再度辺りを見渡す。開けっ放しにされた窓から強い風が入り込んできて、原稿用紙が何度も跳ねたり浮いたりしている。机の上には、燃えきった蠟やマッチの残骸、万年筆などが散乱していた。
「これ」
原稿用紙にある頁番号を見て思う。空緒は騰波ノに掛け布団を被せたあと、一枚残らず原稿用紙を回収した。
「物語が、番号が途中からだわ」
空緒は机の上にあるデスクトップPCを見やる。
「停電……」
慌ててPCの電源を押す。くぐもったファン音と共にPCが再起動し、自動プログラムを立ち上げていく。
【保存されていないファイルがあります、再開しますか】
空緒は胸を撫で下し、「Yes」を押した。何秒かのローディングのあと、原稿データが蘇った。
思わず息をのむ。書き出しの一文を読んだだけで、これは騰波ノが以前書いていた作品とはまるで違う完全新作なのだと確信する。
――命ノ小説在ル限リ 心ノ読書在リケリ
序盤の数頁をスクロールしてみる。
「これって……」
信じられなかった。題材も文体も何もかもが空緒が知る騰波ノとは別人のようだった。だが空緒の第六感は当たっていた。
「……やっぱり」
タイトルは『
☆
時を忘れて読みふけった空緒は夢中だった。時には笑い、時には怒り、時には哀れみ、気づけば涙を流していた。
文体は少し歪だった。全体的に読者に寄り添う口語体の一人称で語られているが、たまに割り込んでくる文語体が読み難くい。だが文語体を落としこむタイミングが絶妙に上手いので読者を程よく惹きつけさせることに成功している。
そして寄り添った読者を急に突き放すような仮名表現や英語を織り交ぜて、再び読者を優しく包み込むような一人称に戻る。
時に作者の声が割り込んできたり、緩急のある行間の使い方から詩が生まれ、芸術的な一文を奏ではじめた時には既に、読者は物語の壺に閉じ込められている。
不思議な気持ちだった。まるでその小説は他人を必要以上に警戒した結果、計算高く感じる時もあれば、奇妙な感性の中に風刺と毒のユーモアが混ざっている。
物語の途中になると突然狂気とひたすら一人語りを繰り広げる。そこには人間の一抹の弱さと儚さを拾いあげていて、最後に詩的な美しい末文を奏でながら泡のように消えてゆく。まるで変幻自在に姿を変える怪人二十面相のようだ。
それでも一つ言えるのは喜怒哀楽を交えた創作の命があり、そこには確かに物語があったということだった。
読み終えて、空緒はただ呆然とする。全身に鳥肌が立っていた。
涙が止まらない。何度も何度も泣きじゃくる子供みたいに腕で拭ってみせても大粒の涙は、溢れやまない。しとしとと頬を流れ落ちた涙は、原稿用紙の黒い文章を重く滲ませる。諦めて腕をだらんと下げた。怒られた子供が母親に言い訳をするように口元をぼそぼそと動かす。
「何よこれ、何なのこれ。冗談じゃ、ないわよ、今更、こんなの……噓だって言いなさい……違う……こんなの……私の知っている小説なんかじゃない……こんなの」
空緒は膝に顔を埋め、俯き、嗚咽を漏らす。
分かる、けど理解が追いつかない。それでも嫌というほどに分かってしまう。
心痛極まりない。この小説が抱える絶望の闇が。
純文学がなんだ、文芸がなんだ、ライトノベルがなんだ。
ミステリ、SF、恋愛、歴史、ファンタジーがどうした?
書籍が、WEBがどうした?
プロがなんだ、アマチュアだからどうした?
そうでなければいけないと誰が決めた?
そんな小さな
これはただのエゴイスティックな叫びだ。
一人の人間が絶望から這い上がろうとするだけの地の底からの叫び。独りよがりにすぎない。ただの叫びの筈なのに、叫びは言葉となって人物を形成し、物語に姿を変身させて、読者の、人類の叫びにまで昇華している。
「次元が、次元が……こんなの」
天然ダイヤモンドのような小説はずっとずっと地下奥深くにある。長い時間、心の高熱高圧にかけられ、自然環境という名の人生の荒波に揉まれ少しでも違ったことが起これば黒鉛になり果てるリスクが伴う。
だがそれでも耐え抜いた物語は、マグマにより地上に姿を現す。
この小説の輝きは、天然ダイヤモンドのよう未来永劫残っていく美しさを持っている。
――この小説は危険だ。飲み込まれる。
空緒はごく自然に、物書きとしての生物反射的にそう思った。
物語の完成度、作品の芸術性、短時間で書き上げた執筆速度。
恐らくプロットすらなく即興で生み出された果てしない創造性。
それを如何にも何年もかけて書いた風に思わせる巧みな構成力。
知的でユーモア溢れる会話劇と極上の比喩表現。
何処か青くささい幻想的な表現と奇抜で独創的な表現力。
油の乗った確かな筆致。美しく滅びゆく脆い筆致。物書きにとって憧れてやまない『文体領域』――の広さ。
それら全てを鷹のような『千里眼』――で両立させている。
「は」何かを思い出したかのように空緒は再度、手当たり次第に最初から原稿に目を通していく。
「そんなはず」
丁寧に一文一文を零さず読み込んでいく。
☆
終盤まで読んでみて原稿を捲るのを止めた。無駄だ。もうこれ以上読みなおしても無駄だと感じてしまったのだ。
「嘘、嘘よ。ありえない。そんなはず……そんな……」
ヒステリック気味に上ずった声だけが真実を知っていた。
気づきは時に残酷や絶望の闇を与える。気付けない幸せや希望の光もある。
それでも自覚は目の前を捉えて離さない。それが現実だ。
「誤字脱字が……ない」
まだこのときの空緒は知らない。これは騰波ノ鳴だけが持っている『絶対文感』――だということを。
誤字脱字、句読点、てにをは、全てにおいて完璧だった。もちろん、ジャンルによって「てにをは」のルールは違ったりするが、騰波ノの小説に明確なジャンルというのが見当たらない。『騰波ノ鳴』そのものがジャンルとも言えた。
一発書きでそれをやってのける作者は、きっと世界中どこを探してもいないと空緒は信じていた。
普通の人間は機械でもない限り、何度も稿を重ねて出来るだけ完璧な領域を目指してゆく。機械でも時には間違える。
時に騰波ノは、超速筆で書き殴るように書いていたと空緒は推測する。原稿用紙の筆跡が決して達筆とは言えないが、ハネや払いから力強さを感じるものだったから。
――そんなこと、あり得るのかしら……いいえ。過去のどれだけ偉大な文豪たちでも決して出来ない。あの鷗外先生や漱石先生にだって……こんな。
空緒は静かに眠る騰波ノの頬に、優しく触れた。
「貴方はいったい何者なの。貴方は小説家ではないわ……大説家なのかしら。分からない私。ねぇ、教えて……貴方は第二の層――未来の支配者なの」
子供のような甘えた声を出した空緒の頬には、涙が静かに流れていた。
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