三頁 身元不詳の花子さん



 例えば、監禁事件の被害者と、その加害者の同僚。

 僕と彼女の関係を表すならば、それが結構近いのかもしれない。


『――で、アンタは何なんだい? アタシ見えてるみたいだけど』


「え、ええと……」


 トイレでの一件より十数分後。すったもんだの末、僕達は教室へと帰還した。

 当然、それには例の女幽霊――便宜上花子さんと呼ぶが、彼女も一緒だ。

 個人的には深入りはしたくなかったが、成仏の様子も無いまま放置するというのは当初の目的からして本末転倒だろう。


 それに、どうも襲ってきたのは自分の意思じゃ無かった節がある。

 現状敵意も感じないので、状況整理も兼ねて会話の場を設けた次第である。


「その、僕は……これ。手帳を使える者……って言って、分かります?」


『あ? 何言ってんだい、アンタ』


 きょとん、と年齢にそぐわないあどけない表情で首を傾げる。

 まぁ丸眼鏡の男の一件から察していたが、一々説明を受けて怪談の核となる霊魂など殆ど居ないのだろう。

 ……そうなると逆上されないかが心配だ。喉を鳴らし、必死に言葉を選ぶ。


「……え、と。ですね。出来れば、冷静に聞いて頂きたいのですが、その――」


 ビクビクと顔色を伺いつつ、知る限りの事を掻い摘んで伝える。

 僕自身やめいこさんの素性、花子さんがどのような状況に置かれているのか。

 出来る限り神経を逆撫で無いよう、多分の自己弁護を混ぜ込んで。

 そうして必要な事をあらかた語り終えた僕は、何時でも逃げられる態勢を整えつつ花子さんの様子を伺った。


『……ふーん』


 ……しかし、返って来たのはそんな素っ気ない合いの手だった。

 その瞳には怒りも嘆きも映しておらず、決定的な無関心。怯えていた僕がバカみたいだ。


「あの、それだけですか? 何か文句というか、思う所とかは……」


『そうは言われてもね、どう反応した物やら』


「…………」


 もしかして与太話とでも思われてるのだろうか――そんな疑念が顔に出ていたのか、花子さんは軽く肩を竦めると、『そうじゃないんだよ』と苦笑を一つ。

 そして何でもないような風に、爆弾を落とした。


『――記憶、無いんだよね。アタシ』


「……え?」


 何て?


『だから、アタシはアタシ自身の事を何も知らないし、分かんないってコトさ。それなのに色々言われても……あれだよ、困るだろ?』


 記憶喪失、というアレだろうか。

 結構な重大事である筈なのだが、しかし当の彼女は特に深刻な様子も無い。

 こちらもどう反応するべきなのか分からず、何とも奇妙な空気が漂う。


「えと、どうしてそのような事に――いや、それも覚えてないのか……」


『まぁね。アタシは気づいたら存在してて、色んなトイレで色んな人を気絶させて回ってた。身体も自動で動くから「そういう習性なんだなぁ」って何も考えてなかったからねぇ……あぁ、さっきはゴメンね?』


「……や、それは別に良いんですけど……」


 いや、本当は良くはないけど、明確に僕達への恨みを持っていないと分かってホッとする。

 ……しかし、彼女が記憶喪失となると、それはそれで面倒な事になる訳だが。


「……あの、あなたは本当に何も覚えてないんですか?」


『そう言ってるだろ』


「自分が誰かも、生きていた頃の記憶もまるで無い?」


『むしろアタシが人間だったって方が眉唾だけどね。元からこういう妖怪みたいな存在だったってだけじゃないの?』


「怪談として過ごしていく事に、不満も苦しみも無かった?」


『まぁ小便大便の臭いにはウンザリだけど、結構のんびり暮らせてるしねぇ』


 ――現状に大きな不満が無かった。

 そりゃ成仏も出来ない筈だ。これからどうすりゃいいのか、困った。





「……ああ、どうしよう……」


 少しばかり時は進み、午前の国語の授業中。

 かの有名な羅生門を斜め読みする傍ら、僕は頭を抱えていた。


 その原因は勿論、背後でぷかぷか浮かぶ花子さんの事だ。

 彼女は授業風景が珍しいのか、興味津々な様子で教室を見回している。

 クラスメイトに霊視能力持ちが居なくて幸運だった。ほんとに。


『はぁん、これが授業って奴ね。不思議と懐かしい感じがするわ』


『……何か、思い出したりとか』


『いや、なーんも』


 めいこさんの紙面に書いた疑問を見せれば、素気ない返答に更に頭を落とす。

 彼女を怪談から解放した事を、間違いだとは思っていない。

 それは果たすべき義務であり、あらゆる面から見ても肯定されるべき行為の筈だ。


 だけど、霊魂の成仏を念頭に置いていたため、花子さんが現世に留まった場合なんて全く考えていなかった。

 しかも記憶喪失とか、想定外にも程がある。


『……その辺、何か分んないのかよ。専門書』


『えっ。ほ、本書でありますか』


 お前以外に誰が居るんだよ。

 専門的見地でも述べてみろとページの端を突く。


『え、ええと……き、記憶喪失という件に関しては、えっと、もしかしたらあの霊魂は以前、消失した経験があるのではないかなぁ、なんて』


『……どういう事?』


『霊魂の記憶は霊力に、つまりは存在その物に蓄積します。本書は怪談の再現に伴い欠損のある霊魂を復元する機能を有していますが、完全に消失していたものを復元する際は……その、記憶とか、アレになっちゃう可能性も、はい』


『つまり、全損した霊魂を復元しきれず記憶が飛んだ、って事か』


 何とも曖昧な推察ではあるが、一応理屈は通っているように見えた。

 霊魂の消失とは物騒な話だ。何があったのか疑問に思うが、しかし本人の記憶が失われている以上、その原因も覚えていないのだろう。


『……あっ、解放後に成仏しなかったのも、そのせいがある、のかも、です?』


『怪談の核って境遇に、不満がなかったからじゃないのか?』


『それも確かな一因でしょうが、失われた記憶の中に、何か未練とか、後悔とか、そういう強い感情が隠れてるせいもあるかもぉ、なんて。へ、へへ』


 愛想笑いを文章にする手帳を閉じ、チラリとのんびり浮いてる花子さんを見る。

 ……強い感情? まぁ、今はいい。


(花子さん、ちょっと)


『……ああ、アタシね。何だい?』


 さて、何から話すべきか。少し迷いつつ、文字を書く。


『――あなたは、これからどうするつもりなんです?』


 一番気になったのは、それだ。

 成仏しなかった以上、彼女には浮遊霊としての日々が待っている。

 その在りよう如何によって、僕も対応を決める必要があった。握るペンに力を込め、緊張。


『んー、どうするったってねぇ……』


 すると花子さんは顎に手を当て天井を見上げ、悩み込む。

 暫く授業の音だけが静かに響き――やがて、彼女の視線がゆっくりと降りた。


『……強いて言えば、アタシがどこの誰だか知りたい所ではあるかな』


 ……やはり、そうなるよなぁ。

 僕も彼女の立場であったらそう思う。


『自分の事を思い出せないってのは、何か気持ち悪いからね。どうせやる事も無いし、適当にブラブラしながら自分探しでもしようかねぇ。ハハハ』


 旅に出かける大学生のような言い草だが、その内容は切実な物だ。

 彼女はどうも大雑把な性格のようだが、きっと内心ではそれなりに現状への不安がある筈なのだ。

 僕に記憶喪失の経験は無いけど、それくらいは分かる。


 ……加害者の側に立つ者の、義務。

 その言葉が、重く頭にのしかかった。


『もし、よろしければ』


 やめとけ。きっと死ぬ程面倒だぞ。

 対価も無く、ただ苦労するだけだぞ――。


 そんな言葉が文字を紡ぐ手の動きを阻害するが、しかし苦労して抑えこむ。

 だって優等生を自称するなら、ここで逃げたら負けだろう?

 そして僕は、負けるのが大ッ嫌いなのだ。故に。


『――もし、よろしければ。僕、記憶探しのお手伝いしましょうか?』


 ……書いた。提案してしまった。

 すぐに撤回したい気持ちに駆られるが、唇を噛んで押し留めた。


『え、アンタがかい?』


『ええ、あなたを解放したの僕ですし、なら尻拭いし■い、と○、△※……』


『……そんな力む程嫌なら、別に無理しなくていいよ?』


 筆圧が入りすぎて文字が崩壊してしまった。

 軽く息を吐き、力を抜く。


『……いえ、やります。やるんです。やらないと負けるんです、僕は』

 

 改めて意思表示した事で退路が消え、腹が座った。

 こうなれば、花子さんが記憶を取り戻し成仏するまで付き合ってやる。

 先程とは別の理由で筆圧が増し、目も座る。


『……まぁ、別にどうしてもって訳じゃないから、気楽にしなね』


 そうしてかけられた言葉は、何処か呆れたような物だった。何故だ。





 さて、安請け合いしてしまった僕であるが、当然ながら記憶探しなんて経験は今まで一度もした事は無い。

 しかも相手は名前どころか人間であった事すら忘れていた幽霊である。

 パーソナルデータは殆どゼロで、これでは探偵や警察に頼む事すら不可能だ。


 どうしたら良いものかと必死に頭を働かせるが、二時間目が過ぎ、三時間目、四時間目が過ぎ。

 そして昼休みまで悩み続けても、良い案はまるで出て来なかった。


『ねぇ、やっぱり花子さんの情報って載ってないの?』


『ええと、大変申し訳ありませんのですが、ですね。本書には、かつての所有者及び使用した霊魂・編集した怪談に関する詳細は何一つ、ですね』


(前もそう言ってたもんね……)


 塩握りをもぐもぐしつつ、鼻から溜息。

 もう初めから詰んでいる。せめて何か、とっかかりのような物は無いのか。

 花子さんの正体とまでは言わない。その周辺に繋がるような、そういう物は――。


「……花子さん。そうだ、怪談自体が……いや、でもな」


 『トイレの花子さん』という怪談自体が、何らかの手がかりになるのでは……と思いかけ、考え直す。


『トイレの花子さん』なんて、日本で1番ポピュラーと言っても良い怪談だ。

 当然それに関する話なんて全国に幾らでも転がっているだろうし、編集された内容にしても「被害者が気絶する」という極めて小規模な物と来た。


 それから辿って探すにしても、あまり現実的では無いだろう――と、そこまで考え、ふと疑問が浮かんだ。


『聞きたいんだけどさ、あんたって今までどんな所で活動してきたの?』


『……? あの、質問は具体的にして頂けると……』


『あんたは過去、この街以外ではどんな場所に再現されてきたのか、って事』


 めいこさんがどんな条件で僕の下に再現されたのかは、未だによく分からない。

 しかし、流石に告呂市以外にも、下手したら海外でも再現された可能性はある。

 だとしたら更に厄介な話になりかねない……と、眉を顰めたのだが。


『非。本書は、告呂の地以外に再現された事は無かったり、しちゃったり』


「……へぁ?」


 予想していなかった返答に思わず奇声を漏らし、周囲の生徒から何事かという視線を受けてしまった。

 咳払いをして誤魔化しつつ、手を動かす。


『何それ、偶然が続いたって?』


『ええと、非。本書は、告呂の地にしか再現されないみたい、です。おそらく』


『……あんたの怪談には、告呂という土地が深く関わっている?』


『……ごめんなさい、そこら辺は、うう、分からないであります……』


 そう言うと思った。

 今までの付き合いからこれ以上追求しても無駄だと悟り、張りかけていた気が弛む。


 いや、しかし収穫はある。

 めいこさんが告呂市でしか活動していなかったのであれば、必然的に花子さんが囚われたのは告呂市の何処かで、という事になる。

 それが確定できただけでも、結構大きいのではないだろうか。


(まぁ、とっかかりと言うには弱いけど、それでも)


 ……こうなれば、いっそ市内の学校施設を虱潰しに周ってみるか?

 そう、七不思議とか広まりやすい小学校を中心にして、めいこさんにその場所の怪談を収集させ……いや、他校のトイレを訪ね周るとか変質者か。

 まぁゆっくり冷静に考よう。少しだけど光明が見えたのは確かなんだから。うん。


『……何だいアンタ。昼飯が白いおにぎりだけとか、身体平気なのかい?』


 そうしていると、心配しているような表情を浮かべた花子さんが顔を覗き込んできた。

 幽霊に僕のさもしい食糧事情など心配されたくない。

 そう返したいのも山々だったが、努めてスルー。何か引っかかる物は無かったのかと目で問いかけた。


『……悪いけど、何もなかったよ。でもやっぱ、懐かしい感じはするね』


 それを察した花子さんが申し訳なさそうに首を振る。

 どうやら特に新しい情報は無いようだ。僕は少々気落ちしながら、更に詳しい話を聞こうとして――。


「――はーい、席につけー。そろそろチャイム鳴るぞー」


 突然教室に入ってきた若風先生に、言葉が断たれた。

 時計を見ると昼休み終了まで後数分、先生が受け持つ数学の授業までもう間もない時間帯だ。


(時間切れ、詳しい話はまた後で)


『…………、ん、ああ、分かったよ』


「……?」


 一瞬。花子さんの反応に間があった……気がする。

 しかし疑問という程でも無く、直後に鳴った予鈴に意識が流れた。


 



 それからも一日中悩み続けたものの、無駄に脳が疲弊するだけに終わった。

 当たり前だ、そう簡単に解決案が出るならば、僕は今頃少年探偵として名を馳せている筈だもの。


『……アンタってさぁ、悪い意味でクソ真面目だよねぇ』


「え?」


 本日の授業を消化した帰り道。

 引き続きこれからの方針を考えていた僕は、ナチュラルに後を着いて来ている花子さんから、突然そう貶された。


「……どういう事です?」


『何かさ、カチカチ過ぎるんだよねアンタ。適当さが感じられないというか、追い込まれてる感じさえするよ』


 ウンザリとそう零し、してもいないネクタイを緩めるようにワイシャツの胸元を緩める。

 その際ちらりと見えた白く深い谷間から、僕はそっと目を逸らした。

 ……追い込まれている、ね。まぁ合っているといえば合っている。


『アタシの事を考えてたんだろうけど、適当で良いってのに一日ずっとムッツリしてさァ。見てて不思議というか、疲れるんだけど』


「…………」


 酷い言い分である。けど言っている事も分からない訳ではなく、反論は出ない。


 僕はそんな視線の彼女から逃げるように、歩む速度を早めようとしたが――しかし眼前の赤信号に遮られ、止まる。

 肩の当たりに花子さんが肘を置いた気配を感じ、溜息を吐いた。


「……僕、ちょっと前に悪い事をしちゃったんですよ」


『あん?』


「この手帳、怪談を操る力あるって言ったでしょう。それ使って……色々と」


 早く信号が変わるよう願いつつ、めいこさんを掲げる。

 花子さんは胡乱げな表情で、彼女を突いたり撫でたりといった仕草をしたが、当然触れられる筈も無く。


『……何したかは聞かないどくけど、それの罪滅ぼしって事かい。にしたってアタシにゃ直接関係無いだろうに』


「そうかもしれませんけど……」


 理屈では分かっているが、感情が納得しない。

 いや、もしかしたら――或いは。


「……ただ、時間が欲しかったのかも」


『うん? 時間?』


 結果的に殺人を犯してしまった事、自首を含めたこれからの事。

 それら全てを整理するには、たったの一週間じゃ少なすぎたのかもしれない。


 僕は何だかんだ文句を言いながらも本当は厄介事を求めていて、新たな目的を据える事で、煮詰まった思考を解す為の時間を作りだした、なんて。


「……卑怯だよなぁ」


『何の話さ』


「いえ、僕は逃げるのも上手いなって」


 軽く笑い、自嘲する。

 信号が青になり、白と黒の縞々へ一歩踏み出した。

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