第8話 きぬ
梅の香りに誘われて、辺りを散策していたおり、異臭が鼻をつきました。ただ、それを梅の香りが包み込んでいたのか、けっして不快な臭いではありませんでした。
その臭いが、風に揺らいで過ぎ去ろうとしましたのへ、
「あ」
と私は思わず声を出してしまいましたところ、
「ああ、どうぞ、お許しください」
梅の香りに包まれた異臭がまた揺らいで、
「すぐに立ち去ります」
と女の声が告げましたから、
「琵琶を、聞きにこられたのなら……」
そう言いますと、
「汚い者にございます。遠くより拝聴いたします」
そう答えた女が、きぬでした。
父母を失ってしばらく、家人などにも暇を出して、わたくしは、一人、屋敷で琴を弾いて暮らしておりました。
通ってくる殿方もなく、訪れるのは、琴糸や琴爪を扱う者でしたが、これが手土産などを持って、何かと優しい言葉もかけてまいります。
お恥ずかしい話しですが、これまでそうしたことのなかったわたくしは、その男にすっかり夢中になりまして、言われるままにお金の融通もいたしましたし、家に置いて尽くしもいたしました。
そのうち、食べるにも事欠くようになったら、その男は家の中にある家財を一切合財、わたくしの琴まで売り払って、
「食うに困らぬところで暮らしましょう」
そう言うと、さる公家と思しき屋敷にまいりましたが、それきり、男は姿を消してしまいました。
代わりに、その家の主が、
「これから、姫は、ここで殿方を慰めてくださればよい」
と申しまして……
そこから何とか逃げ出しまして、このようにここに流れつき、あなた様の琵琶に心を慰められておりました。
湯浴みもせぬこんな物乞い女が、今日は、あなた様のお姿を拝見して、汚れた己も顧みず、お側に近づいてしまい、不快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません。
いえ、あなた様の琵琶の音は、すでにこの身に余るほどに拝聴いたしましたから、すぐにも立ち去ります……
梅の香りがまた揺らいで、
「寺には古い琴もございます。それをお聞かせください」
私が言いましたら、今度は強く梅が香りました。
今宵は、何を弾じましょう。
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